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鈴木大拙の宗教。

鈴木大拙の宗教

27歳の鈴木大拙が、翌年アメリカに渡る前(明治29年:1876年)に初めて出版した自身の本、「新宗教論」にて自身の宗教観を語っている。

有限の無限に対する、無常の不変に対する、我の無我に対する、部分の全体に対する、生滅の不生不滅に対する、有為の無為に対する、個人的生命の宇宙的生命に対する関係を感得す。是これを宗教と謂う。

P.8 鈴木大拙 没後40年 KAWADE道の手帳 松ケ岡文庫編

大拙、というのは明治27年、24歳の頃当時の円覚寺の管長、釈宗演から授けられた居士号で、本名は貞太郎である。1870年に石川県金沢市の医師の末子として生まれるが、満6歳を迎えたとき父を54歳で亡くし、以後家計的に苦労して東京帝国大学哲学科選科等に通うが、いずれも卒業していない。

東京での大拙の生活の中心は円覚寺への参禅であったという。本書出版後、大拙は足掛け13年に及ぶ米国生活をすることになる。その直前、「背水の座禅」にて「見性」を体験、その体験も基盤とした大拙の宗教観がここで示されているという。

見性と「一即多」

この「見性体験」があることこそ、大拙が世界で”禅”を伝えた原動力であり、世界が”禅”を真実を伝えるものとして、知識ではなく受け取った理由であるだろう。

大拙は禅の布教者ではない。事象として布教者と同じような結果も含むのかもしれないが、”布教者”とは”受け取るものへの強引な眼差し”をどこか含むものだ。

見性者としての大拙は、布教者ではないだろう。では宗教者か?はたまた宗教学者、宗教歴史学者であろうか。

池田晶子さんは、哲学者は哲学歴史学者ではない、とおっしゃった。仮に過去の哲学者の見解を受けるものであっても、そこに自らの考え、(必ずしも新しいものでなくてはいいのかもしれない)自らのそれこそ“見性”に近い感触が必要だということだと理解している。

大拙は”禅”という考え方に初めて接する西洋世界に、当然ながらその成り立ち、歴史をも伝える必要があったであろう。しかし、成り立ちや歴史を伝えるだけではもちろん不十分だ。

禅が禅としてあるところ、禅であらねばならない地点があり、そこを”見性者”として、掴み、居る、在るものとして目の前に居る魂たちに伝える。

これがなされることに、眼前者たちは驚き喜び、そして禅の心を知った。

だから、伝わった。


私が大拙の文章に眼前するときも、同じ感動が現れる。時に”大拙の解釈した大乗仏教だ””大拙の禅だ”との批判ありという。

批判、というが、事実であろう。だがもし、批判に”非難”が含まれているのだとしたら、奇妙である。大拙にはごまかしも韜晦もないだろう。

西洋世界が初めて接する”禅”だ。まずは”史実を正確に知りたい”という意識もあろう。

そのあたりの”ずれ”が、この”批判”にはある気がしている。


”大拙の禅”であろうが、”見性体験”でつかんだ真実はそれ以前の真の見性者すべてがつかんだ真実ともちろん”同じもの”。


見性を経て、大拙は様々なキイワードで真実を伝えている。例えば”一即多”。

字をみれば、大拙の見た真実が、そのものとして伝わる。


見性で見た真実を、伝える。それは”菩薩”としての行為である。


そのことが、昭和41年に96歳で永眠するまで、なんの躊躇もなく大拙が伝え続けた、理由であり結果であると、

考えている。












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