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一度死んだから言えること!

◎もう一つの下半身事情の前に

今日は、私の誕生日なんです。歳も時間もどんどんと過ぎて行く。本当に若い頃は一日が長く退屈だったのに、今はあっという間に過ぎてしまう。

そんな私の2年前の誕生日に、私は家族と毎年の様に過ごす事はなく、あのウイルスによって病院送りにされ、生死を彷徨う毎日でした。

そして、2年前の誕生日頃には最もやばい状態で、二度目の病院で退院前にその頃にCTを見せてもらったところ、私の両方の肺は本当に三分の二もダメになっていて、肺の中は白い蜘蛛の巣状態になってました。

これでも柔道整復師なので、病理学は学んでいます。医者では無い私が見ても「こりゃダメだ」と思わず口に出していました。リハビリ病院での担当医が「本当に凄いね。良く戻ってこれたもんだ」と感心していました。

当時の特化型病院の担当医は、毎日死ぬ私に手こずっていて、ゆあんさんに覚悟を促す事もありました。

このまま人工呼吸器を続けても、肺は純酸素で傷つきアウト。人工呼吸器を外すにも喉の切開をしなくちゃならないが、皮下気腫が邪魔をして、執刀医が拒否をして出来ない。

最後の手段としてエクモを繋いで延命を図るにしても、エクモをしても麻酔が外れないとたぶん一生植物人間になるとね。

それでも彼女は連れて帰りたいと願い、「どんな体でも私が一生面倒を見ます!」と担当医に告げたそうです。

それまでは試しながら薬を使ったり、いちいちゆあんさんの許可を得てから投薬していましたが、それ以後は積極的にどんな薬も使ってくれたそうです。

担当医の先生は僕には冷たかったのですが、ゆあんさんには個人的にも毎日連絡をくれて、今日はどうだったとかどんな薬を投与したとか、事細かに説明してくれたそうです。

看護師さんたちも、最初は面会日でも無いのに毎日やって来る妻を嫌がり、そっけなかったそうです。

しかし、彼女の覚悟を聞いた時から腹を括ってくれて、率先して彼女が私の体に触れる事を勧め、そして手伝ってくれたそうです。

担当医もERの看護師も、そして家族三人が一心同体となって、私を生かしてくれました。そしてもう限界だとなった誕生日が過ぎた10日目ごろに、皮下気腫が軽減されたのをキッカケに、麻酔を取りやめて意識を取り戻し、喉の切開をして新たな人生を歩むことになりました。

本当はウダウダと書いてることでは無いのですが、それはそれであり、感謝ばかりの綺麗事に纏めたくは無いのです。一つはそれを吐き出す事もリハビリだからです。

実際に、この話を書き始めた途端に、色んな不都合が体に呼び起こされています。体が記憶している痛みや苦しみを表に出す事で、私の闘病はようやく終わりになるからです。

そして私には、病院で見聞きした事を伝える義務があるのです。

何度も言いますが、私は特例であり多くの人は3週間程度でリハビリ病院へと転院して、3ヶ月後には仕事にも復帰していると言っていました。

そう。あの報道の一部は合っていますが、全体的には違う現状が病院にはあったのです。

皆さんどうか恐れないで下さい。恐るあまりに過剰な予防や余分な注射をしないで下さい。確かにそれぞれの自由なのですが、こう言う話もあるのだと留めおいて頂きたいと思い書いています。

そんなこんなで昨年六月に退院して、今年二度目の誕生日が来ました。12/1には 氏神に月初のお詣りをして、新たなスタートをみたび切りました。

今、あのウイルスで悩んでいる人は少ないと思います。それよりはあの注射の副作用で苦しんでいる人の方が多いはずです。

何度も言います。しっかりと情報を得て自分の未来を選んで下さいませね〜

【妻からのラブレター】
身体の半分が居なくなって18日。
未来は不確定。
創造するしかない。
会いたい。
なんという愛おしさよ。
大好きです。
愛しています。
早く帰って来て。
あなたの帰る場所はここです。
私の右側。
#愛する人
#私の半分
#早く帰ってきて
#奇跡はおきる


続く




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