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罪の正体|日々の雑記 #88

遅い時間にカップ焼きそばが食べたくなったのです。
そのままお湯を注げばいいはずなのに、なんだかいけないことをしている気がするのは何故でしょう。乾燥野菜ミックスを足し、栄養バランスを整えたと言い訳して、ようやくふんぎり・・・・がつきました。

0時過ぎのスイーツは、背徳感で甘みが増します。お酒は呑み続けるほどに、夢の世界に居られます。

だけど深夜の食事は、
「こんな時間に食べちゃいけないのに」
と、どうにも罪の意識を感じるのです。

果たして私は誰に対して罪を覚えるのでしょうか。そもそも何を冒した罪なのでしょうか。

電車でお腹が痛くなった時は神様を信じます。ポーチの中の正露丸よろしく、お守り扱いで申し訳ございません。お盆やクリスマス、お正月に、いっちょかみ拝んでご利益を狙う罰当たり。いわゆるバチ勢です。

伝統的な祖霊信仰には共感を覚えます。だけど真夜中にカップ焼きそばを食べたからといって、
「おお、まめせん!こんなじかんにたべるとはなにごとだ!」
なんてご先祖様からお叱りを受けるとは思えません。むしろ夢枕に立って、次のお供えにリクエストされる可能性大です。

罪の象徴

遅い時間の食事が罪になるとしたら、深夜営業の許可を取らない風営法違反でしょうか。だとすれば家で焼きそばを食べたって、捜査員に踏み込まれることはありません。粉末の入ったパケを扱っていても安心してください。
そもそも近ごろ話題な例のグミ、脱法食品がまかり通るなんて、全く末法な世の中です。

話が逸れましたが、てことは宗教的な罪ではなく、法的な罪でもないことは明らか。
内的世界から湧き起こるものでして、これまでの人生を通じて形成された倫理観や価値観に根ざしていると考えられます。

つまりは自分自身の中にあるルールを破ること、理想からの逸脱が、罪の正体ではないかと思うのです。

深夜にカップ焼きそばを食べることで、腹回りの圧力が高まり、在りし日に仕立てたワイシャツが破れそうです。去年の人間ドックの数値と比べたら、5キロばかし体重が逸脱していました。

これが私が覚えた罪悪感の正体です。

されど宗教が倫理や価値、法の形成に影響を与えるという、歴史的な事実を忘れては、表層的な考察に閉じられてしまいます。

以上を踏まえ、これらの論考と事実から導き出せることは、私にとって体重が神であり、体重計に示される数値が神の言葉、即ち法なのです。

そうすると教典(体重計)を踏みつける行為が畏れ多くなり、バチ勢とはいえ躊躇してしまいます。

年末年始にかけ、サバトに誘われる機会が増えてきます。いっそもう暴飲暴食にこの身を委ね、悪魔信仰に宗旨替えしようかと思う秋の終わりでした。

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