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【短編小説】はだら雪のリリシズム

 口紅を失くした。特別な口紅、成人を迎える日にあこがれのひとからもらった、つけるとほんのり大人っぽい香りがする。私のお守り。少女の迷宮から抜け出すための。心に宿る純粋を守るための。女として立ち上がるための。

 動揺、焦りの中で、ないがしろにしてしまったのだ。今日ほどお守りに頼りたい日など、なかったのに。

 俺たち別れよう、歯と歯の隙間になにか挟まっているような、切れ味の悪い刃物の先でやわく肌をなぞるような、覚悟のない気まずさ、スマートフォンアプリの無料通話で、彼はボソリと言った。ブーツを脱ぎ化粧も落とした午前零時過ぎ。そんなこといきなり言われても、と私は狼狽する。でも本当はそんな気がしていた。いきなりそんなことが起こるわけなんて無いのだ、器の中へ滴る雫が、いずれ器を満たし表面張力を起こし、ついに耐え切れなくなってあふれだすように、何事も、少しずつ少しずつ、変化に向かっていく。

 せめて会って話がしたい、五分でも十分でも、と望んだのはわがままだったろうか。彼のわざとらしいため息に、勝ち誇ったような嘲笑が含まれている気がして、すでに敗北していることを悟った。罠だったのだ、私を陥れるための周到な。いや、わからない。まだそうであったほうがよかったかもしれない。返り血を浴びる手間さえ省こうとする、現代人特有のスマートさを、彼は惜しみなく発揮している。切れた通話。現実感がない。かけ直そうともがく親指を押しとどめた。本当に終わってしまったのか、これで? まるでバーチャルだ。恋愛の終焉さえも携帯一つで迎えられるということを彼は証明してみせた。なんと便利な世の中。

 こんな終り方なんてあるもんか、せめて、せめて、と私は拳を握っていた。怒り? 悲しみ? 怒れるならまだまし、悲しみが私を溺死させようとする。思い出の走馬灯。

 彼は一体私のどこが嫌だったのだろう。いつから別れを考え始めたろう。

 クリスマスにプレゼントした好きだと言っていたクロノグラフ、気に入らなかったから? 私がかわいくなかったから? 素直じゃないから? 手帳を開いてペンを持つ。私の嫌な所。目が小さい、鼻が低い、背がでかい、ブス、ガリガリ、高慢、プライドが高い、浪費癖、自己中、空気が読めない。冷えきった指先から生まれる文字は震え、フローリングにつけた素足は寒さにかじかんで感覚がない。

 彼に電話をかけようとして、メールを打とうとして、何度もやめた。嫌われる恐怖しかなかった。今はこれ以上傷つきたくなかった。一睡もできないまま朝が来た。正直永遠に来てほしくなかった。日当りだけが取り柄の2Kの安アパート。カーテンの隙間から弱々しい光が差し込み、部屋を薄明るくする。刻々と出勤の時間が近づく。とりあえず顔を洗うことにする。女物に混じる男物。歯ブラシ、歯磨き粉、洗顔フォーム、シェービングクリーム、シェーバー、それぞれがそれぞれの主張を持って私を責める。そういえば一度足りとも彼とはものを共有したことがない。いつだって何もかもが別。

 合わないのかもしれない、そういう予感はあった。付き合う初めから。だけれど、盲目的に好きになってしまった、どうしようもなかった。どこが好きなのか、と訊かれても答えようもなかった。

 ひどい顔、墓場から這い出してきたような、淀み、冷たい顔。こんなブス、確かに好かれるはずがない。化粧する気さえ起きないが、顔を洗い、のろのろと化粧を施し、どうにか見るに耐えるものにする。口紅を引いて自らを鼓舞する。なんとか立ち上がれる気がした。仕事着を身につけ、靴を履き家を出た。曇天、この冬何度目かの雪が降っていた。

 簡単な表計算を頭から間違え、お昼休みが十分取れなくて化粧を直す暇がなく、慌てて口紅だけ引き直した。いつもならポーチにしまうのに、スカートのポケットに突っ込んだのが悪かった。会社を出るまではあった。ジャケットの上から触ると、口紅の四角い感触があった。仕事帰り、電車を降りアパートへ帰る途中、お守りに触れようとして、無いことに気がついた。

 切れた、キリキリと張り詰めていた糸がついに。膝がガクガクと勝手に震え出し立つことがままならなくなり、体はその場に崩れ落ちた。車や人間に踏まれ薄汚れた積雪の惨めさ。だけど雪のほうがまだいい、そのまま溶けて消えてなくなることができるから。

 もう無理、と白い息。何が、と言うのは自分でもわからない。アスファルトの上で解けた雪がタイツにしみて冷たい。指先はかじかみ、じんじんとして感覚がない。そのまま雪に埋もれてしまいたい。でも、積りきらず溶けてしまうぼたん雪、そうならないことはわかっていて、だからなおさら惨めだった。

 気が付くとあの人の店の前にいた。すでに閉店の札のかかった美容室。すりガラスから少しだけ明かりが漏れていた。ノックするか散々迷いやはり帰ろうかと思い始めた頃、向こうから扉が開いた。口紅をくれた私のあこがれの女性。一回り年上で同じ誕生日、同じ血液型の。同じ運命を背負っているんだね、と笑い合ってから、この人のようになりたいとずっと背伸びしてきた。

 どうしたの、とやさしく低い声。何か言おうとして、言葉の前に涙がみるみるあふれた。手を引かれ、私はされるがままに店内へ。中は暖かく、じんわりと感覚が戻ってくる。促されシャンプー台に腰掛け、渡されたカップに注がれたココアに口をつけると、凍えきった体のこわばりがほどけていくようだった。彼女は何も言わなかった。ただ、横になるように言い、私は素直に従った。

 私の目の上にタオルを置き、彼女は黙って私の髪を洗い始めた。お湯が髪を伝い、彼女のすらりときれいな指先がほぐすように私の頭皮を滑る。

 大切なものを失くしたんでしょう、と彼女は言った。私はハイ、と答えた。声がかすれた。それから彼女は一言も発さず、黙々と私の髪を洗った。まるで神聖な儀式のようだった。洗礼を受けるように、彼女にその身を委ね、沈黙を守った。

 排水口にお湯が流れ切る音、彼女は目の上のタオルを取り去り、私の頭に真っ白なタオルを巻き、鏡の前の美容椅子に座るように言った。座ると優雅な動作で手早くケープを巻き、頭のタオルを取り去る。私の濡れた長い髪が重みを持って肩に垂れた。どうしますか、と彼女は尋ねた。鏡の中の彼女の瞳は少し潤んでいるように見えた。私はただ、お願いします、とだけ答えた。彼女はかしこまりましたと言い、髪を軽く梳かし、気持ちよくハサミを入れた。

 星のめぐりが全て一緒のふたり。言葉は必要なかった。お互いがお互いのことを悟った気がしていた。

ハサミが小気味良い音を立てるたびに、少しずつ頭が軽くなっていく。胸がすく。ロングヘアが好きだと言っていた彼のことをぼんやりと思い返した。きちんと向き合えていただろうか、うわべの部分だけを取り繕うように愛してはいなかったか。言えないことが少しずつ、少しずつ、募っていったのだと思う。白い雪が音もなく重みをもって降り積もるように。ぶつかること、嫌われることを極端に恐れていた。言わずとも察して欲しかった。だけどそれが一番の甘え、一番のわがままだったかもしれない。小さな窓の外を見やる。雪はまだ降り続いている。暗がりの中に白いものがゆっくりと静かに舞い落ちているのが見える。

 終わったよ、と彼女はケープを取り去った。はっと我に返り鏡を見た。短くなった髪、新しい自分。そうだ、洗礼だったのだ、新しい自分を受け入れるための。涙がこぼれていたのに気がつく。彼女もまた、赤い目をしていた。

 男の子と女の子がいたらね、悪いのはみんな男の子なの。女の子は絶対、悪くないんだから。

 だからほら、ね? と彼女は私の頬をやさしくつまんで微笑みかけた。つられて私も笑い返す。素敵な人だ、本当に。

 最後にお礼を言ってから、私は彼女の店を出た。彼女の凛とした佇まいを目に焼き付けて。頭が軽くなった分、足取りも心なしか軽くなった気がした。私は夜空を仰いだ。ちぎれた雲の隙間から星がまばらに見え、間を縫うように雪が落ちてくる。もう、泣かない。お守りもいらない。雪辱を果たすためにも、少しでも神様に幸せに見られたい。道路脇に溶け残った汚れた雪に、禊がすんだかのような新しい雪がうっすらと積もり始め、夜道にぼんやりと光っている。足をとられないようにゆっくり歩く、気をつけながら。だけど、軽やかに。

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