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おとうさんありがとう。


父が急死した。

夜間診療で当初虫垂炎を疑われていたが、その後のCTの結果から医師の見立ては大腸癌だろうとの事だった。しかしお腹の右側に大腸を塞ぐ形で出来た悪性腫瘍がかなり大きく、それが原因で腸がパンパンに腫れていた。どうもそれが痛みの原因になっていたようだ。

直ぐに入院して欲しいと言われたが、本人の強い希望で一時帰宅、翌日早朝に入院した。

入院後あちこちの科を周り消化器内科でステントを入れて容態は安定していたものの、6日昼に急変、吐いて意識を失った。病院から連絡を受けた私と母は急いで駆けつけたが、父の意識が戻ることは無く、私と母が見守る前で呼吸は正午過ぎに停止、2023/01/06 午後3時、家族がみんな揃ったタイミングで正式に死亡確認がされた。死因は少し前に亡くなった渡辺徹と同じ敗血症性ショックであった。腸炎から菌が血液にのって全身に流れてしまい、もう手の施しようが無い所までいってしまったそうだ。ごくまれにこういう事が起こるらしく、敗血症を想定して治療を行っていたが、がん細胞が全身に転移していた為に本人に戦う力がなかったのだそうだ。

『我慢強い人だったんだと思います』という医師の言葉が、脳内で響く。

その後、看護師からは葬儀屋のリストが渡された。システマチックで、人の死という私にとっての非日常は、この人たちにとっては日常なのだなと思った。

突然のことに現実を受け入れられないまま、涙だけが溢れてくる。兄と姉はもう家を出ているので、これから私とお母さんはこの家でお父さんのいない生活を送らなければならない。

帰宅した父は死後硬直が始まっており、見た目は変わらないものの、父のピクリとも動かない姿は段々抜け殻のよう見えてきて、顔を見るのが辛く、でもギリギリまでお父さんの顔を見て目に焼き付けておきたくて何度も何度も見に行った。

これからは朝起きても早起きのお父さんがリビングにいることはもうないし、

煙草の匂いが漂ってくることももうないし

お父さんが仕事から帰ってインターホンを何度も鳴らすこともない。

そういった日常生活を送る中で、少しずつ父親がいなくなった現実を受け入れてゆくのだと思う。

物心がついた頃から恐れていた親の死は随分とあっけなく、人は急に死んでしまうことがあるという事が、私の父も例外ではないと言うことを知った。でも69歳は早いと思う。半分現実を受けいられないままではあったが、涙はとめどなく溢れた。『いつまでも泣くとお父さん悲しむよ』と言われたが、父の為に涙を流さないのは薄情だと思えたので、隙を見ては泣いた。

いつも早起きで、私がリビングにいくと既に座椅子に座ってテレビを見ていた父。
これから私は毎朝リビングに行くたびに、
父の茶碗や箸や湯呑みを見る度に、
父親不在の現実を突きつけられ、父親が死んでしまった事を自分の中で確実なものにしていくのだ。

旅立つ父へ、手作りの封筒に入れた手紙と似顔絵を描いた。私は猫の写真ばかり撮っていて、父の写真をほとんど撮らなかったので後悔している。でもなんとか描いたので棺に一緒に入れた。喜んでくれるかな。生きているうちに描いてあげればよかった。

父が亡くなった日は一睡も出来ずに夜が明けた。起きてみたらやっぱりリビングにお父さんはいなくて、私はまたボロボロ涙を流しながらクッキーを少し食べた。

お昼ご飯のマックを食べていた時も、そこに父がいない事に泣けてきました。マックの時はいつも一緒に食べていたからだ。チキンクリスプよく食べてたよね。棺にも入れておいたからね。

私の中から父が消えてしまうことがすごく怖い。
火葬がすごく怖い。
私はお骨を拾えるだろうか。

手間のかかる娘でごめんね 
いつも不機嫌でごめんね
美味しいご飯作れなくてごめんね
あちこち遊びに連れて行ってくれてありがとう。
保護猫を探すために奔走してくれてありがとう。
病気の私を静かに見守ってくれてありがとう。


今日も仕事関係の人や同級生、近所の人など、たくさんの人がお別れに来てくれたよ。
せっかくこんなに沢山のお客さんが来てくれてるのにお父さんどこ行ったんだろうと、反射的に父を探して『あっ…』と気付いた。お父さんはもういないのだ。でも家の中はどこもかしこもお父さんが作ったもので溢れていて、確かにそこにいたのだ、という実感で涙が溢れてくる。

ずっと働きっぱなしだったから、これからはゆっくり休んでね。私はお父さんの娘で幸せでした。子供の頃一緒にバドミントンした事忘れないよ。楽しかったよ。また一緒にやりたかったよ。

頑張って生きるので、空から見守っていてください。

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