おいしい大豆

はぐれCGデザイナー /ASD/摂食障害/鬱/自分との戦いについて

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最近の記事

どこにいても無理をする

退職してから症状が辛い時も無理して義務的に描き続けて私は『私らしく』あろうとしたけど、SNSで不本意に他者と競合する中で、自分らしさだと思って続けてきた事が描けば描くほど段々と無理をしている自分が顕在化してきた。 SNSを通して人と関わることで見えなかった人の側面や道化を演じる自分の事も見えてきた。 私が本来の私ではなく、SNS上の架空のキャラクターとして振る舞う事が無理になってきた。DMにも丁寧に対応する自分に嫌になって何人かブロ解した。 要するに疲れた。

    • わたしの社会復帰

      娯楽に耽る集中力もなく、1日しんどい気持ちと向き合いながら1日を終わらせるのが苦しい。家にいて1人悩んでいるよりかは精神衛生上良いかと、障害者福祉のA型作業所か、近所の短時間パート?をやってみるか悩んでいる。 ただ1度社会復帰の軌道に乗ってしまったら後戻り出来ない(苦しくても逃げられない)気がして怖い。 社会復帰にはネガティブな気持ちしかない。決して事態が好転したから社会復帰に前向きなのではない。苦しい中ずっと模索している状態で、私の死にたい気持ちも何も変わっていないから

      • 私が咽び泣くプロセス/5つの心理的段階

        調子悪い時は薬の多さだけでも泣けてくる。不安や恐怖・悲しみなど、様々なネガティブな感情が混ざり合っている時はそれを言葉にする事で、ごちゃごちゃに絡まった思考を紐解いて整理する事が出来る。自分の思いを誰かに伝える為にその過程は欠かせない。 私はどうして自分が苦しいのか、今泣いている自分自身の気持ちひとつひとつと向き合い言葉にしながら、『私』が辛いと感じる理由や感情の流れについて考えてきた。 5つの心理的段階①よし、死のう私は社会や人との関わりの中でポジティブな体験をしてこな

        • 肩の力を抜いて楽しく生きたい

          通院では先生達と写真を撮らせてもらったり、厚かましく一言メッセージをお願いして書いてもらったり、診察の内容いかんによってはこの先1ヶ月生きるだけのじゅうぶんなモチベになる。 だから死にたがりの私が毎日生きてるのは『とりあえず頭痛外来があるから頑張って日々のタスクをこなすか』っていうだけの話。 それでも病院で長いこと待機してようやく自分の番が回ってきたかと思っても、巻きで診察が終わる事も多い。 他の患者さんの診察時間の長さと比較して自分だけ短かったりすると『私は大丈夫じゃな

        どこにいても無理をする

          社会にはネガティブなイメージしかない

          『闘病』って言葉はしっくりこない。私は病気が治った先にネガティブなビジョンしかイメージ出来ないし、治すことに前向きでない。治ったら治ったで『死ぬまで社会で頑張る』自分の姿しか浮かばなくて、不安で涙が出てくる。適切な支援を受け、『社会で頑張らなくていい状態』をまるで想像出来ない。 『障害受容が出来てない』って支援者さんに言われた事をふとした拍子に思い出す。なんでそんなふうに言われなきゃならなかったんだろう。そう言う人達は自分のいい所も悪い所もメタ認知して全部ひっくるめて受容出

          社会にはネガティブなイメージしかない

          コミュニケーションは手段か目的か?

          これはただの覚書だけど、SNSでなんかヤダなーと感じるもののひとつに『なんの脈絡もなくボール(意図のわからない話)を投げてくる人』がいる。 とりあえず人と絡む事が目的みたいな感じで、それに付き合わされてるこちらは炎天下でお天気についての話をさせられてるような苦痛を伴う。 私はコミュニケーションは目的ではなく手段だと思ってるんだけどそういう人達はそれが目的と捉えてるからなんか致命的にリズムが噛み合わない。キャッチボールする上で齟齬があって不快感だけが残る。

          コミュニケーションは手段か目的か?

          女の子女の子したい

          可愛いデザインが増えてきたとはいえ、補正ブラの布面積の広さに圧倒されてしまう。育乳だか美乳だか、体のラインを少しでも綺麗に見せたいが為に可愛いものを身に付けたい自分の心を犠牲にしている時がある。 アームカバーもそう。あれはずっとおばさんの象徴だと思ってた。ある程度年を重ねるとお洒落よりも美白が優位にくる。それでもがむしゃらに日焼け対策しているこの一瞬も、何かかけがえの無い時間を犠牲にしている気がする。 私はまだ女の子女の子したい。

          女の子女の子したい

          素晴らしい絵を描くのはもう自分の役割ではなくなった。

          子供の頃から褒められるという事があんまりなくて、純粋な好奇心だけが絵を描く原動力だった。社会に出てからは認められたい気持ちが日に日に強くなって嫉妬と不満と自己憐憫に忙しかった。 それも病気を経て全てがどうでも良くなった。毎日が本当に苦しくて、とにかく日々を穏やかに過ごしたいと思った。 今でも描かずにはいられないけど、それはSNSで認められる為じゃない。素晴らしい絵を描くのはもう自分の役割ではなくなった。子供の頃のように私は誰にも忖度せず、私は私が描きたい絵を描くし、描ける

          素晴らしい絵を描くのはもう自分の役割ではなくなった。

          大人として子供を『褒める』

          兄が『高校受験は美術科を目指すことになった子供が、デッサンを描いたからちょっと見てくれ』と言ってスケッチブックを渡してきた。私自身、人生の大半を絵に捧げてきたような人間なので、それを開きながら 『奥行きが感じられなくて平面的。輪郭線に頼りすぎてるから、もっと陰影で捉える感じで…先入観に囚われすぎてるんだねー。これはこうだからっていう思い込みで描いちゃってる。もっと対象をよく見て…』 と説明していたら 『でも中3でこれは上手いよね?』 などと兄が言ってきた。私みたいな病

          大人として子供を『褒める』

          『私の考えた最強のコーデ』

          昔は『私なんかが着ても恥ずかしくないかどうか』で選んでいたせいか服の色も形も似たりよったりで、ファッションを楽しむ余裕は少しもなかった。自分の身なりがTPOに沿っていて、トレンド的に正しいかどうか常に不安で、毎日できれば自分を人目に晒す事は遠慮したいと思っていた。 ベルトでウエストマークして体のラインを見せるなんてとんでもなかったし、スカートを履いて周りの人間を不快にさせまいと思っていた。 でも今は自分が好きなものに囲まれたいという気持ちが優位になり、最近色んなものを買い

          『私の考えた最強のコーデ』

          私は婚活市場から戦線離脱した女

          ザ・ノンフィクションの結婚相談所の回を観ていてふと『いや私って人様の婚活事情をエンタメ的に楽しんでいい立場では無いのでは?』と自分の有り様を俯瞰して猛省した。 私は自分がこのままでいいとも思ってないけど、まともに人も信用出来ず、過剰適応を繰り返すだけで人と関わる事が辛いままここまで来てしまった。 独り身でいることに焦って20代の頃に結婚相談所に登録した事もあったけど、先方から食事のお誘いを受けた時に自分が女として見られている事が猛烈に苦しくなってしまった。結婚前提での関わ

          私は婚活市場から戦線離脱した女

          あの頃の私は自分が宮崎あおいになれる気がしていた。

          earthの広告に起用されてた宮崎あおい。あれの初期の頃のビジュアルがめっちゃ可愛くて当時の私はよく同じ服を買っていた。 いま何度目かの断捨離をしながら何が必要で何が要らないか考えているのだけど、これだけは毎回「やっぱり可愛い」とか思っちゃって処分出来ない。あの頃の私は上手く着こなせなくてもそれが傍にあるだけであおいちゃんみたいになれる気がしていた。ささやかなパンドラの箱である。 幸せは理屈じゃないんだ、感情なんだ。

          あの頃の私は自分が宮崎あおいになれる気がしていた。

          女という加害性

          もっと屁理屈をこねて『兎にも角にも嫌だ』と言えればよかったけど、ロールの押しつけに反抗して『頭のおかしい奴』と思われるのを幼い頃の私は物凄く恐れていた。今思えばそんなものは取るに足らないものだったけど。 私の意思に関わらず浴衣を着せられたり稚児行列に並ばされたり、小さな女の子として、あたかも着せ替え人形のようにされるがまま客体化されて行く自分を前に私はただただ非力だった。 巷では男→女の加害性が話題に上がるけど、今でも私を苦しめるのは女性らしさであり、はたまた女による女へ

          女という加害性

          最近、女らしさを許せるようになった。

          今月は精神的に不調で、気を紛らわす為に散財しすぎてしまった🥲︎でもお金は減っても可愛いもの、かつての自分が喉から手が出る程欲しかった女の子らしさを自分に許せるようなりつつある事が嬉しい。 人の言葉や環境に人一倍敏感で、大人になる過程で女性蔑視の価値観をゴリゴリに内面化してきた私は自分のパーソナリティの在り方や自己表現の面でずっと戸惑いを感じていた。 子供としての私、社会人としての私、女性としての私、立場や環境によって仮面を切り替えつつもジェンダーロールに迎合していくことは

          最近、女らしさを許せるようになった。

          自分のファッションは正解か不正解か。ゼロか100か。

          それが認知の歪みだと言われても、私は自分の事をまだ太いとしか思えないけれども。 先日家の中で袖のないノースリーブを着たら思った以上に涼しく過ごしやすくて、『今年の酷暑はノースリーブでなんとか乗り切りたい』と思った。 本当は今日の通院もノースリーブで行こうと思っていた。そしてそれは女になりきれない私のちょっとしたチャレンジでもあったのだが、眼鏡をかけて鏡の前にたった瞬間、そんな自分の思惑は脆くも崩れ落ちた。 目に見える景色の解像度は眼鏡のおかげで飛躍的に上がり、これまでも

          自分のファッションは正解か不正解か。ゼロか100か。

          自分を大切にするということ。—-ランジェリーブルース 読了

          父が亡くなって暫くして、私は三十過ぎにしてようやく自分の女性としての側面を受け入れられるようになった。幼い頃からジェンダーロールに自分を当て嵌めて行く事に葛藤があった私は、綺麗になりたい気持ちと、ブラを付けて女性らしくなって行くことにも抵抗がある自身のアンビバレントさに苦しんできて、だからこそこの本の登場人物たちがランジェリーとの出会いを通して、客体化としての自分ではなく、自分が自分の気持ちを大切に、自分らしく生まれ変わっていく様子に共感を覚えた。

          自分を大切にするということ。—-ランジェリーブルース 読了