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もう終わりにしよう。

 マルハラという言葉があるらしい。句点に距離や冷たさを感じ、不安に思う若者がいるのだという。
 いてよいと思うし、そう感じることを表現することは大事だと思う。ただのマルにそれほどの感情を抱く繊細さをもつなんて、素敵ではないか。
 問題は、それを「~なんだって~」と流布するネットニュースだ。間に入ってくるなよ。
 感じる者が繊細であればあるほど、間に余計な要素が媒介すると、伝わりにくくなる。勝手なレッテルを張られる。だから、間に人を挟まぬ当人同士語り合いは大事なのだと、クドカンもドラマの中でミュージカルにして言っている。

 『もう終わりにしよう。』は、題名に句点がある。本当に終わりにしたい(とおもっているのではないかと翻訳者が思った)のだろう。この映画の肝は、互いにわかりあうために「大事なはず」な家族で語り合うシーン。アクション映画に例えるなら、カーチェイスシーンくらい迫力がある。作中、2人の会話にも出てくる映画『こわれゆく女』の中で考えるのなら、冒頭の夫の同僚と食卓を囲むシーンくらいの迫力。
 以下、ネタバレも交えながら思ったことをつらつら書いてみる。

 冒頭、雪を受け入れるルーシーの様子、ルーシーの彼、ジェイクの実家の日に当たる家の壁紙や家具、置物の一つ一つ(とくに鳥のやつ)がかわいい。妄想の世界なのだろう。目に焼き付くようなウィリアムモリスな世界。
 対する、謎の老人の家はさびしく、薄汚れたキッチンとが対比的に映る。これは現実なのか。

 ルーシー的な人と良い感じまで行ったのになんとなくうまくいかなかったことがこの老人の過去に本当にあったのかはわからない。でも、彼はこの物語を支えに、学校の清掃業で食いつないできたのだろう。そして、もうこの物語にすがるのを終えたいのかもしれない。

 憂鬱な車内のやり取りは自他の境界があいまい。でも、リアリティをもたせるためには、ここの細かな描写は彼のストーリー上大事なのだろう。ここでのルーシー的女性の独り言と彼とのやり取りは、レイモンド・カーヴァーの語り口に似ていてとても好き。

 そして、渋々入った実家での、何か分からない(親が世話をせず、生きたままうじが湧いて死んだ豚かもしれない)肉を中心に据えた語り合いのシーン。語り合えば語り合うほどきまずさと奇異さが増す。お前が連れてきたんだろ!と言いたくなるほど「やれやれ」顔のジェイクは(ルーシー、どっかで見たな?なんだっけ?と思ったら、ドラマのファーゴだった。あの看護婦のニヤリ顔は印象的。ジェイクはキルスティンダンストと夫婦役で、その後本当に夫婦になった)、他人事のように議論を回さず、むしろ親を煽る。ジェイクの自己中心的な感じやイライラ、独りよがりな感じがますます色濃くなっていく。

 ルーシーが車中でよんだ詩や親たちに見せた絵は、ジェイクの実家にすでにあるもの。自他の境界を保ちながら物語をすすめていくことにしんどさが出てくる。

 そして、帰りたいのになかなか帰れない上に、いじわるなウェイトレスのいるアイス屋で買うバカでかい同じ味の甘すぎるアイス。車中がベタベタになる恐怖と嫌悪感ととともに(すごくビビッドで生を感じる)、誰もいない夜の高校に行きつく(墓場だ)。アイスを捨てるためだけに。
 嫌悪感をもってこのストーリーを捨てようとするも、最後に美しい二人の踊りと共に別れがたいシーンとなる。視覚的な記憶としては残るが、前後の話と整合性が取れないため、この話の無理さが際立つ。

 この清掃員は、この物語に終止符を打ち、その後どう生きていこうとしているのか。過去の栄光にすがる子役の俳優を馬鹿にしつつ、その子役に蔑まれるような眼差しを返される自分と、この先どう付き合っていくのか。死をにおわせる演出もあるが、私はこの老人はその後も生きていくと思う。豚やアイスやスリッパといった忘れがたいアイテムをちりばめて物語を紡ぐ人はそうそう簡単にすべてを終わりにはしないだろうと思いたい。

 勝手な解釈で不穏な夢のような物語を見終えた後、懐かしく思い出す冒頭の壁紙の柄や家具、家の妄想のように美しい様子をなぞって見せてくれる。不穏でありながら、見る側がひっかかるしかけに対し、最後にちゃんとフォローしてくれるやさしい映画だと思った。

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