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1月17日

24年前の1月17日、まだ暗い早朝。
私は生後6か月の娘と眠っていた。
前日は夫の親友の結婚式。
午前様は決まっていたから、私は前日から大阪の実家に泊まっていた。

ドン!

何か大きなものが落ちたような音と地響きで目が覚めた。
一瞬の静寂、そして、すべてのものが揺れはじめた。
訳も分からず、とにかく「娘を守らなくては」という本能のみで
ちいさな体の上に覆い被さった。
揺れは、私たちを縦に揺らしていた。
娘は小さく「ふぇぇ」と声を出して、目を見開いていた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだからね」
何が、どう大丈夫なのか、わかっていたはずもない。

どれくらい続いたのか、やっと揺れが収まった。

娘はまた眠り始めた。

そこで、ようやく「地震だ」と気づいた。

キッチンでは母が「お父さん、早く!」と大声を出していた。
食器棚の扉を必死に押さえていたらしい。
中では食器がすでにぐちゃぐちゃになっていた。

2階に同居していた妹夫婦も降りてきた。
妹は真っ青な顔で震えていたらしい。
旦那は奈良の実家に電話していた。
「あ、うちも」
まだ携帯電話を持っていなかった時代、
のそのそ起き出してリビングへ。
「お母さん、私も電話借りていい?」
家族全員がびくっとして振り向いた。
「あ、あんたがいたんだ!」
みんな、自分たちのことで必死になり、私と娘の存在は
すっかり忘れられていたらしい。

自宅に電話した。繋がった。辺りはまだ暗かった。
「もしもし、大丈夫だった?」
「うん、とりあえず。電気は点かないけど。そっちは?」「大丈夫」
まだ、被害の様子など何もわからなかった。
自宅の方が震源に近かった。ライフラインはすべて止まり、
壁にはひびが入っていた。裏の家々は傾いていた。
でもその時はまだ何も知らなかった。

夫が原付バイクで実家に来たのは夕方だった。
彼が道すがら見てきた光景を、私は今でも知らない。

実家のある地域は、被害もあったものの、ライフラインは正常だった。
朝日が昇り、状況がわかるにつれ、テレビに映し出されたものは
私たちの想像をはるかに、はるかに超えるものだった。
見慣れた町が、景色が、すっかり別のものになってしまっていた。

ゼロ歳児を抱えて自宅に戻ることはできなかった。
ライフラインが完全復旧するまでの3ヶ月間、実家で暮らした。
赤ちゃんの紙おむつやミルクが品薄になり、
親戚に送ってもらったりもした。

ひと月経った頃、ようやく車で自宅に戻れることになり、
娘を預けて夫婦で自宅の片付けに行った。
足の踏み場もない部屋の中を見た時に、体中の力が抜けるのがわかった。

なんだこれ。

夫が冷蔵庫やテレビ、家具など大きなものを動かしてくれていて
中に入ることはできたけど、永遠に片付かないのではないか、
と思うくらい、ひどい状態だった。
やはり一番大変だったのは食器。
結婚して3年目、食器が好きだった私は、
コツコツ少しずつ好きなものを買い集めていた。
お祝いでいただいたジノリのカップも、
アラビアのお皿も、香蘭社の茶器も、ほとんどがただの欠片になっていた。
新婚旅行で夫が奮発した洋酒たちもほぼ全滅、
ひと月経っているのに、まだ強いお酒の匂いが漂う中、
お酒に弱い私は、酔いそうになりながら、
ともすればぺしゃんこに潰れてしまいそうな心を必死に奮い立たせながら
宝物たちの欠片を集めてはゴミ袋に入れていた。

その時、ミシッという音を聞いた。

来るっ

余震が来た。
ただの、震度1くらいの、小さな余震。
でも、その頃の私は、それだけでフリーズしてしまい、
動くこともできなくなっていた。

私は、あの時、大阪にいて、家族も一緒で、
ライフラインは止まることなく、いつもの生活を続けられた。
(ただ、もし揺れが横向きだったら、タンスかピアノの下敷きに
なっていたかもしれない、と後で言われた)
夫は、自宅にひとりだった。
私が経験したよりもはるかに大きな揺れを体験し、
ガスの臭いが溢れる町中を、がれきを避けながら、
いまにも倒れそうな建物の横を通り抜けながら、
必死の思いをして実家までたどり着いた。
橋を渡り、大阪に入った途端、いつもの町並みがあり、
いつものように人々が暮らしている様子を見たとき、
実家の玄関を開けて、私たちがこたつに入り、
テレビを見ている様子を見たとき、
川1本隔てられただけで、こんなにも違う世界になってしまうのか、と
愕然とした、と後から言われた。

夫に言われたこと、そして、
次々に知らされる被害の深刻さ、悲しみの深さを知るにつれ、
私はだんだん申し訳なく、いたたまれないような思いになっていった。

自分はケガもなく、家族もみんな無事で、ほとんど不自由なく、
あの日以降も暮らしていた。
自宅は被災地で、うちも被災者なのだけど、
一番辛い時期、私はここにいなかった。
被災者なんて言える立場じゃない。
あの地震の本当の怖さも体験していない。
つらいなんて言えない。

24年経ったいまも、この複雑な思いはずっと抱いたままだ。

だからといって、何が変わるでもない。
生かされたいのちは、一生懸命生き続けるだけ。
失われたいのちの分まで、なんて絶対言わない。言えない。
ただ、毎日を精一杯、丁寧に生き続ける。
それが、私がここにいる意味だと思うから。

神戸の東遊園地、竹筒の中でゆらゆらと灯された無数の火は
なぜかとても温かく感じる。

今年も、1月17日が終わろうとしている。

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