見出し画像

短編小説「かっぱ巻きの醤油でなぞる30センチ円周軌道」

「うわぁ、完全に赤字ですね」
積み重なった帳簿の山を見上げながら、疑問を通り越して呆れ、呆れを鍋の上げ底にして失笑、そんな感情が湧いてくる。
かつてはそれなり、相応の資金を持っていた結社だが、今では比喩でもなんでもなく、子どものお小遣い程度のお金しか残っていない。
政治的透明性、情報化社会といわれて久しい現代社会において、ある意味で主義主張や公約以上に重視されるものがそれである。本来陰で行動し表に出ない場所で暗躍する秘密結社に求められるようになったものも、また政治的透明性であった。
結果、結社が結社であるべき動きが難しくなり、本来の持ち味であった隠密性や秘匿性の維持が困難になったことで、当然のようにこうなってしまったわけだ。すなわち報酬の喪失、イコール赤字である。

「さて、我々は赤字なわけだが……」
秘密結社支部長であり上司でもある鴨居弦一郎(本名・山田太郎)が片手で運べるサイズの金庫と豚の貯金箱をテーブルに置き、静かに目を閉じて何秒か沈黙する。仮にも支部とはいえ秘密結社の長だけあって、精悍な顔立ち、背筋を伸ばして座る佇まい、背中に3本足の烏の描かれた着流しをまとった姿は、天下無双の色気と武道の達人のような雰囲気を醸し出している。
しかし、彼の持つ色気も魅力も、悲しいかな現実の前には無力でしかない。金がないのである。
「さて、我々は赤字なわけだが……」
「そのセリフ、かれこれ40回目ですよ」
瞼を閉じたまま苦々しい表情を浮かべる弦一郎の額から、つつーっと垂れる汗が一筋二筋。悲しいかな、金がないのである。
繰り返すが金がないのである。秘密結社の運営資金、残り2万1861円。それと豚さん貯金箱に入った、どんなに多く見積もっても5000円ほどであろう端金。
「先生、とにかく豚さん貯金箱を割りましょう。話は現状把握の後です」
「たしかに」
先生がテーブルの角に豚の胴体を叩きつける。粉々に砕けた陶器の身体から転がる、とっさに目で追える数の1円玉と5円玉。それと10円玉がほんのわずか。合計39円。(内訳:10円玉2枚、5円玉3枚、1円玉4枚)
「もしかして豚さん貯金箱の中身、使い込んだ?」
「まったく世の中は不思議なことばかりだな。ま、それを言うと俺たち秘密結社なんてのが不思議の塊みたいなもんだが」
「貯金箱の金、使った?」
「まったく世の中は不思議な」
「おい」
先生が畳が擦り切れるほど頭をこすりつけて土下座するまで、あと10秒。秘密結社の残金2万1900円。


そろそろ私たちの話をしておこう。私の名前は円円(つぶらまどか)、ちなみに本名。大学進学で上京したついでに秘密結社でアルバイトをしている。半年ほど働いてみてわかったことだけど、この秘密結社には金がない。そもそも秘密結社という性質上、秘密裏に活動しているわけなので収入は寄付や報酬に依るところが大きい。
そして追い打ちをかけるかの如く、この秘密結社の支部長、鴨居弦一郎という男は正義の男である。悪に手を染めるくらいなら空腹に耐える、そういう男である。
さらに秘密結社の長であることに誇りを持っているので、副業を主軸に持ってくることを潔しとしないところもある。
となると結果は必然、貧乏である。
それを解決するために、今月の家賃の支払いも危うい事務所に集まっているわけなのだけど、
「先生、やっぱり会員を増やすべきじゃないですか?」
そもそも支部の構成員が私と先生の二人というのがおかしいのだ。都心まで1時間ほどかかるとはいえ、仮にも首都圏にあるわけなので、人がいないわけではない。事実、先生の副業である鴨井流柔術道場は、近所の子どもや主婦の皆様方の平和と安全を守る護身術を学ぶ場として、かろうじて道場代と日々の食費を賄える程度には人が集まっている。
「そうだ、柔術教室の生徒さんがいるじゃないですか。彼らに会員になってもらうとか」
「円円ちゃんねえ、皆さんは護身術を学びに来ているわけであって、そこでいきなり、実は俺は天皇陛下を裏から守護する秘密結社の支部長です、会員になりませんか、なんて言ったらどう思う?」
「まあ、頭の病院を進めますよね」
先生は私のことを苗字の円(つぶら)でも名前の円(まどか)でもなく、あだ名として円円(えんえん)と呼ぶ。ちなみに百人いたら百人がこう呼ぶので、別に嫌な気もしなければ浮かれることもない。
でもみんながそう呼ぶんだから、いっそ下の名前で呼んでくれても罰は当たらないと思う。
「それに結社にもルールがあって、むやみやたらと構成員を増やすのは良しとされていないんだよ」
「それですよ。結社のルールを押し付けるなら、本部は私たちにルールに則った活動ができるよう、お金を送ってくるべきです」
「お、おん……ふつ……」
先生が小声で、ぼそりと呟く。
「音信不通だ。先週、本部まで足を運んだらもぬけの殻だった」
どうやら逃げたらしい。秘密結社が秘密裏に夜逃げする時代、世知辛いにも程がある。

「わかりました。では、こうしましょう。結社とは別に団体を作って、そこから金を引っ張りましょう」
私の考えた作戦はこうである。表向きは平和で善良そうなボランティア団体を立ち上げて、活動費として毎月いくばくかのお金を頂く。その中の一部を慈善団体への寄付と称して、こっそり結社の運営費に回す。
領収証? もちろん偽造するに決まってるじゃないか。
「円円ちゃん、そういうのはダメだ。未成年の内から人の道を外れるような行い、大人として見過ごすわけにはいかない」
「くっ、この真面目中年め。でしたら、倉庫にある祭祀道具の中から不要なものを売りましょう」

ならばと考えた次の作戦はこれである。手段としては古臭い手だが、例えば大学や専門学校のキャンパス内に、アルバイトの露出多めの胸がやたらとでかい女を送り込み、地味でモテなさそうな男子に声をかける。女子率多めのサクラ満載のライングループに誘いこんで仲良くし続け、相手が好意を抱いたくらいのタイミングで高額で売りつける。うちとしても余計な在庫を処分できるので一石二鳥だ。
「円円ちゃん、それはカルト宗教の手口だからダメだ。秘密結社のイメージが悪くなる」
「たしかに。では、ネットワーク会員を増やすのはどうでしょう」

手口はこうだ。まずSNSを使って、陰謀論的な言説を唱える。人工地震であるとかワクチンは危険だとか不正選挙が行われているとか世界を牛耳る資本家集団がいるとか、とにかくネットリテラシーが一定レベル以下の人たちが反応するようなテーマを放り投げる。
さらに、あまり馴染みのない外国人が喋ってるニュース映像に適当な字幕をつけたり、でたらめな論文をでっちあげたりして、わざわざ翻訳しない層にヒットする情報ソースを集めたニュースサイトを作る。
デマ情報が口コミ的に独り歩きしたくらいで、特に熱中してる人たちにSNSのダイレクトメールでコンタクトを取り、真実に気づいたあなたにこそ教えられる商品として、セメントを詰めただけの缶や水道水や家畜用の虫下しの薬なんかを、アメリカで流行ってる特効薬として売りつける。
「円円ちゃん、一度ご両親を交えて道徳についてお話しようか」
「それはちょっと。こんな怪しいバイト、今すぐやめなさいって言われそうだし」
「それは困る」

一応説明しておくと、私が秘密結社に雇われた理由は、簡潔にいえば事務員である。数年前まで前任のメカに比較的強い人がいたけど、出世して別の支部を立ち上げることになり、残されたのは致命的に機械に弱い男、鴨居弦一郎ただひとり。
この先生、未だにスマホの使い方もよくわからないし、この半年でようやくパソコンを起動して文字を打てるようになったレベルの現代文明初心者。にっちもさっちもいかなくなったところを、たまたま求人を見かけた私が事務所の扉を叩き、事務員兼経理兼SNS担当兼動画編集担当として、そこそこ普通の金額で働いている、というわけだ。

「そうだ、先生、それですよ。SNSでバズりましょう」
「バズ……? バズーカか何かか?」
ポンコツ中年はさておいて、昨今SNSで急にバズってグッズ販売や書籍販売に繋げるという手法は、当たり前のように私たちの生活を侵食してきてるし、瞬間風速的にでも注目を集めるのはゴミだけど正義である。
即座にお金に繋がることもあれば、別になんにも繋がらない場合もあるし、それはバズらせ側の目的次第な部分ではあるけど、とにかくこの状況を打破するのに注目を集めるというのは悪くない。
「しかしだな、俺たちは秘密結社だぞ。秘密結社が目立っていいのだろうか」
「表向きにアホみたいな楽しく遊んでるグループを作って、そこで先生の良心が咎めない程度にグッズ展開とかして、流行りのものに条件反射で飛びつくタイプのベンチャー志向っぽいアホから金を引っ張って、それで得た収益の一部を運営費に回す、くらいしか現状打つ手なしですよ」
「円円ちゃん、言葉の節々に悪意が見え隠れしてるぞ」
もちろん私だって、そんなことはしたくない。できれば平穏に静かに暮らしたいし、SNSも陰キャ向けのツブヤイターはやっても、おしゃれ特化のイソスタとか短時間アホ動画系のディックドックとかには染まりたくない。
まだ世の中の大半が気付いていない先生の良さを、わざわざ世間に見せつけるようなことも気が乗るわけじゃない。
しかし何もせずに静観するターンはすでに終わっている。秘密結社が潰れたら困るのだ。
「先生が道場拡大して、週6で働いてくれるなら話は別ですけどね」
「ぐ、ぐぬぬぬぅぅ……」
先生からネジを限界以上に締めるような音がしてるけど、今はそれは然したる問題ではない。問題は金欠のほうだ。


「というわけで、ダミー団体としてのポップな秘密結社を考えましょう」
SNSでバズれそうなグループを作ることにしたわけだけど、秘密結社は秘密結社という響きからして魅力がある。想像力を掻き立てるし、大っぴらに秘密にされると探りたくもなる。そこを活かさないわけにはいかない。
「しかしだな、俺たちはすでに秘密結社だぞ。秘密結社が運営費を稼ぐために秘密結社を作るってどうなんだ?」
「先生はしかしが多いですね。万札もそれくらい多かったら苦労しないんですけどね」
煮しめた結びこぶのように部屋の隅っこで暗い顔をする先生はさておいて、私たちの所属する秘密結社は、いかんせん現代社会に対する取っ掛かりが弱いとは常々思っていた。
まず名前の由来でもありトレードマークでもある3本足の烏、これが現代ではピンとこない。もっとポップな生き物であるべきだ。
「秘密結社カッパ養殖場」
「なんだって?」

先生に向けてもう一度繰り返す。
「秘密結社カッパ養殖場」
「いや、聞えなかったわけじゃないから。カッパってアレか? 妖怪のカッパ? なんでカッパなんだ?」
カッパである。頭の上に皿を乗せて、手足に水かきがついてて、背中に甲羅を背負ってて全身が緑色。別にカッパである必要性はないけど、カッパの知名度は高い。ちょっと面白いファニーな外見と同時に、お寿司屋の地下で延々とキュウリを巻かされている悲しいイメージもある。怒ると尻子玉を引き抜くワイルドさもある。喜怒哀楽のすべてが詰まった妖怪、それがカッパだ。
「まあ、正直な話、今私が来てるTシャツにカッパのロゴが入ってるからですけど」
薄い胸を張って、Tシャツに描かれているカッパのロゴマークを強調する。同世代の男子は私のボディラインに秒殺だけど、さすが先生、四十路も迎えにきてるだけあって百戦錬磨、鼻の下が1ミリも伸びない。
「あと、私たちの本当の姿である烏とかけ離れてるのも、ダミーっぽくてよくないですか?」
「それは一理あるが、養殖場って何?」
「例えば、カッパ団、カッパ養殖場、カッパギルド、なんでもいいんですけど、パッと耳にした瞬間に養殖場だと、え、それなに、ってなりませんか? ちょっと謎めいた名前に人間興味を惹かれるものです」
勿論でっちあげだ。今さらながらカッパ騎士団とかのほうがいいような気もする。でも口走った手前、カッパ養殖場をゴリ押す義務があるし、なにより先生にすごいねと感心されたい欲もある。
「水かきで世間の荒波を乗り越え、頭の皿に誇りを盛りつける裏社会のパティシエール。秘密結社カッパ養殖場」
「いや、キャッチコピーみたいなフレーズ言われてもだね」

先生はいまいち納得してないみたいなので、より説得力を持たせてみる。
「だったら、タンチョウヅルとかどうですか? 伝説上の烏よりは身近ですよね」
「まあ、伝説上の烏よりな」
「羅生門で老婆の白髪を引きちぎった下人は、夜ごと絞め落した公家の丹頂鶴が枕元に立つ夢を見るのです。秘密結社タンチョウヅルの会」
先生が眉間に刀傷よりも深い皺を刻んでいる。言いたいことはわかる、タンチョウヅルが高貴すぎて縁遠いって言いたいんでしょう。ほら、カッパのほうがいいでしょう。
「いや、なんか怖いんだが。もっと平和なのないのか、鳩とか?」
「公園でパンの耳を千切って粉にしていく父の姿を偶然見かけて、痴呆の進んだ祖母の京友禅を売ってしまった弟をいったい誰が責められましょう。秘密結社でかめの鳩」
先生の瞼が一段階下に落ちて、般若のような形相に代わっている。なるほど、鳩は身近過ぎてお気に召さないらしい。
カッパという身近だけど架空、その絶妙な距離感が大事なのだ。
「ちょっと待て。カッパ以外はなんでそんなに怖いんだ?」
「鳥は空を飛んでるでしょ。人間は空を飛んでいる存在に、自然と畏敬と恐れを抱くものなのです」
「カッパだと?」
「水かきで世間の荒波を乗り越え、頭の皿に誇りを盛りつける裏社会のパティシエール。秘密結社カッパ養殖場」
咄嗟のでっち上げだけど、もう暗記した。私はさしずめ、西東京の美少女コピーライター、つぶらまどか。
「例えばヒヨコとかだと、どうなるんだ?」
「生まれた赤子の成長に涙して、祖父母の墓石で包丁を研ぐ夏休み。たまごクラブひよこクラブ親子丼クラブ」
先生が眉間に指を押し当てて、悩める中年おじさんの格好になっている。まさかヒヨコにまで業がついて回るとは思ってなかったみたいだけど、ヒヨコもやがて空に飛び立つ。空を飛ぶものは全て畏れ敬うべきなのだ。
仮にカッパが翼を生やして空を飛ぶことがあったら、当然カッパにも敬意を表するべきだけど、あいにくカッパは空を飛ぶ予定はない。カッパはあくまでもカッパだから。
「では、ダミー団体の名前とマークはカッパで行くとして、あとはバズるためのメンバー集めですね。先生はどっちかというとパワー担当なので、かわいさ担当が欲しいとこですね」
「言っとくけど知っての通り金はないぞ。昨日もモヤシしか食べてないし」
道理で最近なんだか痩せこけてきてるわけだ。今度お家にお邪魔して、家よりでかいカレーでも作ってあげよう。先生はたしかウインナーが好きだったはずだから、何種類かミックスしたウインナーカレーにしてあげよう。
「そこは歩合制にして報酬後払いにしましょう。10いいねにつき1円とかに設定して」
「……いいねってなんだ?」
先生にいいねの概念が理解してもらえるだろうか。もしかするとアフリカの夜明けより遠い難題かもしれない。
なんせパソコンを起動させて、グーグルの検索欄に芋けんぴって打つまで半年かかった人だ。


場所が変わって駅前。パーカー姿に着替えた私とカッパTシャツに着替えた先生で並び立っている。ちなみに私がパーカーを着ている理由は、カッパTシャツ丸だしだとペアルックみたいで恥ずかしいからだ。ペアルックなんてバカップルじゃないんだから、望まれでもしない限り自分から着るには抵抗がある。先生がどうしてもって頼むんだったら、流石の私もやぶさかではないけど。
「というわけで、かわいさ担当のメンバーを探しに行こうと思います!」
「当てはあるのか? 言っとくけど、俺の交友関係は限りなくなく狭いぞ」
「大丈夫です。この辺の川、カッパの目撃談がありますから」
私の説明を聞いた先生だが、右の頬から左の頬にかけて戦慄が走り抜けたような顔をしている。まったくもう、いい年してカッパくらいで、そんなに驚くことないのに。
「カッパ捕獲するついでに、バズる動画撮りたいですね。とりあえず最近多発してるひったくり犯なんかが現れてくれたら、世の中的にも私たち的にも助かりますけど」
「あのな、円円ちゃん。ひったくり犯が出るってことは、被害者になるかもしれない人も出てくるかもしれないってことだ。他人の不幸につながることは願わない方がいい」
先生は正義の男だ。いつだって正論を胸に暮しているし、当然誰もが悲しまないことを一番だと思っている。いったい何をどうやったらこんな人になれるのかわからないけど、秘密結社の支部長を任されているのも、偏に先生の高潔な人格の結果だと私は考える。

「ところで先生、カッパは缶コーヒーとキュウリが好きなんだそうですよ。キュウリは私が用意してきたので、缶コーヒーは先生お願いします」
「なんで俺が?」
「私、コーヒー飲めないから味がわからないので。ついでにこの際だから、先生の好きなコーヒーも教えてください」
私はコーヒーが飲めない。特にブラックコーヒーの苦味は、何度も克服しようと試してみたけど未だに好きになれない。
一方、先生は割と頻繁にコーヒーを飲んでいる。事務所で飲むインスタントコーヒーと、夏用のアイスコーヒーの好みは把握したので、今度は缶コーヒーの好みだ。
自販機でコーヒーを選ぶ先生を、じっと観察する。真ん中の段の右から3番目。駅前のタバコ屋の左から2番目の自販機の真ん中の段の右から3番目。よし、覚えた。今度さりげなく事務所のテーブルに置いてみよう。
「まあ、これだな。別にこだわりはあるわけじゃないが、ブラックの無糖だ。円円ちゃんはレモンティーでよかったよな」
どうやら私の飲み物も買ってくれたらしい。レモンティー、別に好きでも嫌いでもないし、どっちかというとミルクティー派だけど、私の好物は今日からレモンティーだ。私の必須アミノ酸、血液の素、構成物質の90%、それは午前様のレモンティー。
「さすが先生、気が利きますね。私を感心させる度に5セント手に入る仕組みだったら、今頃大金持ちですよ」
残念ながら、そんなシステムはない。世間は非情で理不尽だ。色々なものが思い通りにいかないし、いつだって妙に騒々しい。胸の奥を通り抜ける暴風のようでもあるし、時には道を歩いてるだけで、まるで事件現場やバイオレンス映画のワンシーンに遭遇したような賑やかさがある。
「世の中はなんていうか、やかましいですよね」
「いや、実際なんか騒がしいぞ」
言われてみたら確かに、駅前の交通量の多さとは異なる騒々しさがある。
ふと後ろを振り返ってみると、一組の男女がすごい勢いで揉めている様子が目に飛び込んでくる。
「先生、あれ!」
私の指さした先には、自転車にまたがった男と、ストレートに掛けた紐の細い鞄を守ろうとする妙齢の女性の姿がある。
「ひったくり犯か!?」
「しかも先生、あの男、どことなくカッパっぽいですよ!」
自転車の男は緑色のシャツを着て、頭には登下校の学生が被るような白いヘルメットを乗せている。丸いリュックを背負った姿は遠めに見たら3割くらいはカッパだ。残りの7割は普通に人間だ。
「今はカッパはどうでもいい!」
鞄が宙に舞った瞬間、1匹のカッパが宙を舞った。
先生は、鴨居弦一郎は正義の男である。目の前に困った者がいれば手を差し伸べずにいられない、目の前に悪を働くものがいれば止めずにはいられない、そういう男である。普段は機械に弱いスマホも満足に使いこなせない時代遅れの男ではあるが、いざという時は誰よりも勇気を奮い立たせて、誰よりも先んじて一歩を踏み出す、そういう男である。
勿論その相手が、危険を感じさせる相手であっても、偶然現れたひったくり犯であってもだ。

1匹のカッパが宙を舞った。厳密には舞ったのはカッパのロゴが入ったTシャツを着た先生だ。
手に持った缶コーヒーを矢のように投げつけ、ヘルメットの中心を打ち据え、転倒したひったくり犯に向かって身を翻し、獲物を狙う猛禽、否、それより狡猾な烏のように相手に飛び掛かり、いとも軽々と腕関節を固めて犯人の動きを制する。
周囲の野次馬も感心したように、先生と犯人に視線を集中させている。今まさに秘密結社をアピールするチャンスである。
「水かきで世間の荒波を乗り越え、頭の皿に誇りを盛りつける裏社会のパティシエール。秘密結社カッパ捕獲隊!」
ひったくり犯の仲間と思われたくないので、名前に若干のアレンジを加えながら、パーカーをひらりと棚引かせて、薄い胸をなるべく張って、カッパのロゴを強調する。その勢いに、ちらほらとだけど拍手も聞こえてくる。これはおおむね成功なのではなかろうか。どれくらいのいいねがつくかはわからないけど、先生の活躍は輝きに満ちている、ように私には見える。
「円円ちゃん、口上はいいから動画を撮るのやめるんだ」
一部始終をスマホで捉えていた私に、先生が掌を向けて制するような仕草をする。
「えー、でも多分これ、結構バズりますよ」
「それでもだ。この男もきっと、なにかやむにやまれぬ事情があったかもしれない。それに、動けなくなった相手を一方的に撮影するのは、どう見たって正義じゃないだろう?」
確かに。相手は先生に制されて動けない、周りに人が集まってるから逃げることも出来ないだろう。こういう状態になると、例え相手が悪であっても弱者である。そして弱者を過度に恥ずかしめる行為もまた悪そのものだ。
鴨居弦一郎はそういう男である。
「でも先生、周りの人めっちゃ撮ってますよ」
「いや、ちょっと待って。彼にも何か事情があるかもしれない、撮るのはやめよう。こら、そこの君、スマホ向けるのやめなさい! そこのあなたも、カメラをしまいなさい!」
こうして、先生の活躍はご高説と一緒に各種SNSや動画サイトに流れ、そこそこのいいねと一瞬のバズりを得たのである。


「というわけで、そこそこバズったのに何にもしなかったせいで1円も増えてません」
「面目ない」
事務所の掃除をしている私の目の前で、先生が若干くたびれを感じさせるカッパTシャツを着て、借りてきた猫のようにおとなしく正座している。
ちなみにすっかり部屋着と化したカッパTシャツは、先生の活躍を耳にした生徒さんや私の大学の友達が何枚か買ってくれたけど、ロゴの印刷代や抱えてしまった在庫を考えると僅かに赤字である。
「ですが先生、そこそこバズった結果、引っ越し後の本部の人たちの目に留まり、無事に当面の活動費を得ることに成功しました!」
「本当か!?」
本当である。実際は目に留まり、というのは嘘で、過去の書類にひととおり目を通して、まだ生きているメールアドレスを探し出して、先生の勇姿と現状を伝えて、半ば無理矢理お金を引っ張ったのだけど。
本部も本格的に資金に余裕がないらしく、夜逃げと間違われても仕方ない形で引っ越していたため、得られた資金は事務所の家賃3ヶ月分。私たちとしては首の皮が1枚繋がった程度だが、これもまた立派な成功報酬に変わりはない。
「とりあえず活動費を増やす方向で考えていきましょう。そのために先生、今後も隙あらば活躍を記録出来るように、なるべく一緒にいますね」
「いや、大学はちゃんと行きなさい」
「勿論です。それ以外の時間のことです」
じとっと目を細める先生に向けて、屈託のない明るい笑顔を向けた。
「あ、先生、そろそろ道場の時間ですよ。掃除は私が済ませておくんで、行ってらっしゃいです」
そう言って先生を見送り、入り口の鍵を掛けて、奥の部屋でちょっと休憩。ひとりの休憩は貴重だ、なにせ乙女のスマホは秘密がいっぱいなのだ。ずいぶん前から秘かに集め続けている、先生にだけは見せられない先生の写真コレクションとか見られたら、恥ずかしくて一生顔を直視できなくなる。
それにしてもこの間のひったくり犯を倒した先生、男らしくてかっこよかったなあ等と笑みを溢しながら、忘れない内に依頼料と鞄代の振り込みを済ませたりしたのだった。


先生の名前は鴨居弦一郎、陰ながら平和を守る秘密結社に属する正義の男である。

私の名前は円円、彼の下で働く事務員兼経理兼SNS担当兼動画編集担当、兼意外と私利私欲のために動く美少女策略家なのである。


(おしまい)

🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒🥒

短編書きました。
先日悩める女子×宇宙人の話を書いたので、今回は恋する女子×イケオジな話を書きました。かっこいいおじさんっていう概念、さっぱりわかんないけど。それいっちゃうと普通の人の概念がまずわかんないけども!

円円ちゃんは、名前を土鳩マメデッポコにするかババ汁マメダヌコにするかの選択肢の中で現れた第3の選択肢の名前です。マメデッポコで正解だったなあって強く思います。
でも円円ちゃんは強かな子なので、スターシステム的にひょっこり登場させてもいいかもですね。

あ、コロナ治りました。まだちょっと咳がげふんげふんしてますけど。