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アメフラシ症候群

9月20日未明、ひとりの囚人の死刑が執行された。

死刑囚631号
本名■■■■
(※テロリストに対する特殊措置第5番により氏名抹消済)
享年17歳。


罪状【愛を捨てたこととそれに付随する複数の殺人】


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看守は憂鬱だった。
自分の仕事を誉れ高き国家への奉仕と理解しているものの、それでも仕事に赴く時に少しばかり憂鬱の気配が紛れ込んでくるのは、おそらくどんな仕事でも同じだろう。医者であれ、教師であれ、清掃員であれ、缶詰工場であれ……当然、囚人たちが馬鹿なことをしでかさないように見張る看守であれ。
「我の祈りは天に還り、我の心は海に溶け、我の願いは地に根付く。神は迷える民を導き、金色に輝く世界に息吹を吹かせる。この日の光と月の光が我が心を癒し、我が身を潤し、我が掌に神の恵みをもたらし、今ここで生き永らえる奇跡を感謝する。健やかなる時も病める時も、すべての家族と友達と隣人と喜びを分かち合い、悲しみを分け与え、租と神へ残らず捧げよう。我が魂は天へ、我が体は神へ、我の罪は地の底へ、我の血は最後の一滴まで子々孫々へ、我らが永久に富み栄えていられることを……」
そんな日は朝から祖先と神への祈りを奉げ、心に平穏を取り戻す。
祈るという所作は誰が為にではなく己のためにある、看守は宗教や信仰心をそんな風に理解していた。一方で、労働は誰が為にある。特にこの国では、労働は己が食うため以上に子々孫々を活かすためにあり、直接的に金を生み出さない類のものであっても、自分より若い世代が健やかに育つためにあるのだ。
看守は年齢でいえばまだ若い、平均すれば子供の2人か3人を抱えている年齢の女だ。機能的な問題もあって看守自身に子供はいないが、他人の子供を見れば愛情や願いを覚えなくはないし、時には羨ましさを抱くこともある。
だからこそ理解出来ず、正直にいえば陰のような、うんざりした気分になってしまうのだ。

(犯罪者でも理解できる動機の持ち主なら、まだ同情も出来るし会話も出来る。けれど理解の埒外にあっては、会話するのも忌々しい、虫が背筋を這うような薄気味悪さを覚えてしまうのだ)

そう、理解できる犯罪者もいる。むしろ収監される犯罪者の大部分、おそおよ99%はそっち側だ。彼女たちは時に愛憎であったり、時に欲望であったり、時に衝動であったり、そういったものに突き動かされて、他者を害してしまった者たちだ。その対象は状況に応じて様々で、自分の親であったり、恋人や配偶者であったり、不幸にも他人の子供であったりするが、まだ血の通った人間と思えるのだ。
しかし、稀に、どうにも理解できない悪性の腫瘍のような奴が現れる。
特に最近収監された未成年の死刑囚、彼女は最悪だ。
容姿の造形は決して醜くない、どちらかというと平均値を上げる側だろう。だのに、鉛のような暗く重たい瞳をしていて、どうにも同じ人間だとは思えないのだ。
彼女の罪状は、すでに名前や戸籍と共に一切が記録から抹消されているが、まだファイルに残っている間に覗き見たので覚えている。覚えているというよりは忘れられない、というのがより正確だ。
それは実に悍ましい所業であった。
【75人の乳児と13人の看護師、医者2人】
この、裁判を待つまでもなく死刑を確定させてしまう膨大な量の罪は、彼女の鉛のような瞳のように理解できない不気味さを纏っているのだ。


人間の命は平等ではない。
この国では大人よりも子供を殺した方が罪が重い。男よりも女を殺した方が罪が重い。
30年ほど前まで辺境の小諸国のひとつでしかなかったこの国は、言葉にするとしたら富国強兵の概念で動いている。先進諸国が少子高齢化の傾向にあり将来的な国力を弱めている中、この国ではとにかく子供を増やすことに重点を置いた。合計特殊出生率は目標値で7以上、徹底的に管理された社会で子供を18歳まで育て、能力の高い優秀な人材のみを国家の要職や研究職、医者などに登用して、能力が平均を下回る男子は単純労働階級に、能力が下8割に相当する女子は出産者階級に組み込まれる。
その後の人生は生まれてくる子供たちの為に費やし、男は80歳まで、女は出産がいよいよ難しくなる45歳を過ぎれば80歳まで働き続け、看守のように機能的に問題が発覚したら男と同様に働き続け、国家の礎となって平穏で安楽な、幸福に包まれた死を迎えることになっている。
概ね非人道的な体制にある国家だが、国力の増強は今のところ成功しているといえる。いずれ訪れるであろう食糧不足や資源不足といった問題点はあるものの、経済面でも人口面でも国力に関しての成長は著しく、結婚相手も含めて将来を決められる仕組みは、ある意味で誰もが平等に生き易いと言えなくはない。もちろん政府の発表を真正面から信じれば、という前提があっての話ではあるが。
当然、そんな仕組みを窮屈に思う者が出てくるのも仕方ない。人間は上を見ても下を見てもキリが無い生き物なのだが、かといって命を奪っていい理由にはならない。特に堕胎も含めた子殺しは最も罪深く、どんな事情や情状酌量の余地があろうと確定で死刑となる。もちろん他人の子であってもだ。
一方で、特に知能に障害を持った赤子は、社会の負担と判断されて生まれた時点で処分されるのだから、子供の命ですら平等ではないわけだが。


「ねえ、看守さん。火を持ってないかい?」
簡素なベッドとテーブル、壁に備え付けられた鏡のない洗面台、あとは便器くらいの独房から、鉛のような瞳と口に咥えた煙草を格子の隙間から看守に向けてくる。煙草の持ち主はまだ若い、少女といっても大袈裟ではない年齢で、実際に看守よりも10年は年若い。なのに瞳は死んだ魚のように薄暗く、なんの光も宿していないように深く重い。
少女にはかつてあったものが今は無く、自由も名前も、本来の余命の大部分も失われているが、誰からくすねたのか煙草は1箱持っていた。
「煙草を手に入れたものの、マッチを貰うのを忘れててね。誰からって顔をしてるね? 同性愛者のキャステーコさんによろしく伝えておいてよ」
看守はその名前を耳に放り込み、ああ、なるほどといった表情を浮かべて、僅かな時間逡巡したように見せた後で懐からライターを取り出した。
「房内は禁煙なんだけどな」
「煙草くらいじゃスプリンクラーは作動しないよ。何度か試したからね」
「……まったく駄目な看守もいたもんだ」
「まったくだね。でも、おかげで煙草を吸える自由は手にしてる」
煙草の尖端がジリジリと音を立てて焦げる。メントールの香りが煙に混じってゆらりと燻って、格子を挟んで房内と廊下に満ちていく。その匂いを埋めるように、看守は看守で懐に放り込んでいた煙草を咥えて、きつめの臭いを撒き散らす。
「駄目な看守がここにもいた。妊娠する予定があるなら、煙草はやめておいた方がいいよ。胎児に悪影響だからね」
「ガキ殺した奴がよく言えたもんだ……残念ながら、そんな予定はないんでね」
「じゃあ、きっと看守さんは暇だね。少し話相手になってよ、暇でさ」
看守は暇ではない。とはいえ交代の時間まで廊下をうろうろと見回ったり、時間になれば格子の隙間から最低限の食事を放り込むくらいしかすることがないのも事実で、要するに何か問題でも起きない限りは時間を頑張って潰すしかなかったりする。
中には接吻をしたリ、指で股座を愛撫させたりする不届き者もいるようだが、看守はメントール好きの同僚と違ってそういう趣味はない。それこそ看守が今の仕事を始めた頃には、女囚の棟にも男性看守が出入りしていて、うっかり死刑囚との間に子供をこさえてしまったなんて事件もあったが、死刑は赤子も殺すことになり堕胎に該当するのでは、と揉めたことがあり、淫猥な時間潰しは随分と減りはしている。
ちなみに囚人、特に思想犯の穢れた遺伝子を残したくはないが、障害がない限り殺処分も出来ないため、大変に面倒だと判断されたが、旧来の堕胎の言い訳に従って未成熟な退治は命ではないと結論付けて死刑は執行された。
そんな過去の堕落者たちの反省も踏まえたのか、看守は反対側の空っぽの房に背を預けて、少女に見下すような蔑むような視線を向けた。会話には付き合うが、理解し合うつもりはない、そういった瞳だ。

「……で、なにから聞きたい?」
少女は鉛のような瞳以外は年相応の笑みを浮かべて、2本目の煙草の尖端に火種の残る吸殻を押し当てて、器用に焦がしてみせた。
「といっても別に聞かれたことに答える義理はないから、勝手に喋らせてもらうよ」
「好きにしろ」
本来は囚人、その中でも殺人を犯した者、特に犯行動機が危険な思想と思しき者と喋ることは禁止されている。それでも看守が話相手になっているのは、偏に目の前の少女の余命が短いからだ。死刑囚に食わせる飯はない、というのは概ね世論の中心を捉えた意見であるし、囚人と接する看守自身もそれに同調してもいいくらいには合理的に考えている。人間は水すらなくても数日、水と塩があれば数週間は生きられるのだ。死刑囚は概ね1ヶ月以内に刑が執行されるため、本来は食事を与える必要などないのだが、罪深い者でもその身が少なからず資源であることに変わりない。腎臓に心臓、肺腑、角膜、死刑囚に飯を食わせるのは健康な臓器を保ち、国外向けに高額で輸出するためだ。
そういう事情もあって、忌々しかろうが飯は食わせるし、飯を食わせたら少しばかりの情が湧くのが人間というものだ。
少女が犯行に及んだのは1週間前、早ければ明日の早朝、遅くとも2週間以内に刑が執行される予定なのだ。
「そういえば父さんと母さんは元気? そんなわけはないと思うけど」
「さあね、私は刑事でも検事でも裁判官でもないから知らないよ」
看守はひとつ嘘を吐いた。少女の両親は、娘の罪深さを知らされた時に自らの首に刃を突き立てた。どのみち死刑に処されるのであれば、自ら命を絶ってしまおうと考えたのだ。
彼らに罪があったのか否かは定かではない。定かではないが、罪深い思想犯を育ててしまった失敗は、今後も間違いを繰り返すと判断されるであろうし、その結果として処分されるであろうことも理解していた。この独裁的かつ徹底的に仕組みを重視する国では、失敗者に関しての情状酌量の余地など存在しない。罪人や失敗者がひとりやふたり減ったところで、問題にならない程度に人口は増えているのだ。
「生きてるわけないよ、嘘が下手だね」
少女はにやりと歪んだ笑みを浮かべて、煙草の煙を静かに吸い込んで、淡々と語り始めた。

「ボクの親は典型的な国家信奉者でね、ボクが無性愛者だと知ったら酷く落ち込んだだろうね。親や教師の前では適当に異性愛者のふりをして、隣のクラスの誰々君が気になるだとか、思ってもみないことを何度も口に出したものだよ。見本はそこら中にいたからね、真似るのは簡単だった。あいつらの中には18歳を待たずに妊娠して結婚したのもいたけど、そこまで真似ようとは思わなかったな」
この国の女子は18歳になると同時にAIが判定した、最も妊娠効率の良い相手と番いになり、3年に1人以上のペースで子供を産み続けるノルマを課せられるが、例外的に妊娠あるいは出産を経験していれば、そのまま婚姻関係を結ぶことが出来る。当然、ノルマを達成する限りは婚姻関係を継続出来るため、意外に学生結婚をする番いは多い。むしろ見ず知らずの相手に抱かれるくらいなら、手近なところでも構わないからどうにかしたいと思うのは、自然で当たり前な思考回路ではある。
「だけどボクは男に抱かれるつもりはなかったし、女を抱く趣味もない。そのまま18歳になるくらいなら死んだ方がマシだと思ったのだよ」
「だったら自殺でもすれば良かったんじゃないか?」
「……その発想はなかった。そうだね、もし今すぐにタイムマシンでも開発されたら、過去のボクに教えてあげよう」
少女は悪戯めいた反応を見せて、看守の不快感を更にもう一段階深めてみせた。
「もうひとつ、弾は惜しむなってのも伝えないとね。実は後悔してることがあるんだ、折角手に入れた銃弾を余らせてしまった」
「事件に使われた弾丸は35発だったな」
「神父様に使ったのも含めたら36発だよ」
聖職者心中事件。少女が事件を起こすのと同日に起きた教会の神父と未成年男子が心中した事件だ。教会の懺悔室に、鈍器で撲殺された13歳の少年と下半身裸で喉を撃たれた30代の神父の死体が転がっていたのを、教会に出入りする清掃員が発見した。少年の手には拳銃が握られていて、床には薬莢がひとつ転がっていた。顔の変形した神父の傍らには、少年の血液がついた鉄パイプが落ちていて、警察は銃の出処こそ不明だが、異常性愛者であった神父が暴力的な性行為に及んだ結果、少年に撃ち殺されたと判断した。聞き取り調査の結果、少年には同性愛の噂があり、教会に頻繁に出入りしていたことも確認された為、これは心中かもしれないという推測が挙げられ、もうひとつの大きい事件の影響もあって、そういうことだと片付けられた。
この国での同性愛者の扱いなど、こんなものなのだ。看守も今更、驚いてみせるようなこともない。
「……悪魔め」
しかし、それが第3者が偽装した殺人であるならば話は別だ。銃の出処である神父の死に同情する点はないが、矯正さえすれば精子提供者くらいにはなれたであろう少年の死は気の毒という他ない。
「少年の名誉に誓って断言しよう。あの神父様は変態で嘘つきだが、恋人に対しては正直で扱いは丁寧だったよ。それこそ死の間際まで、宝石商がダイヤを扱う時くらいに繊細だった」
少女は断言こそしないが、またひとつ罪を重ねてみせた。通報や密告を恐れたのか、邪魔されたくないと思ったのか、犯行のための道具を手に入れた後で、その場に居合わせた出処とそいつの弱味をあえて潰したというのだ。
神父から銃を手に入れるために少年を宛がったのだろう。銃があるとの確証を得た方法は判らないが、聖職者と反社会勢力の繋がりというものは、決して無くはない。事実、教会や慈善団体の事務所に麻薬や武器を隠していた事件も、両の指では足りない程度に転がっている。

「なあ、631号。ひとつ聞いていいか?」
「名前で呼んでくれてもいいんだよ、■■■■って。ちなみにキャステーコさんは、絶頂に至る時に呼んでくれたけどね」
「テロリストに名前を与えないのは、この国では当たり前のルールなんだよ。お前の名前も思想も身の上も、何処にも誰にも語られることはない。だからこそ聞きたいが、どうしてあの日に犯行を起こした?」
少女が75人の乳児と13人の看護師、医者2人の命を奪い、逮捕されて名前も戸籍も未来もなにもかも失った日、その日は他国の大統領含めた要人が訪問していた。そのため空港だけでなく駅や主要道路にも厳重な警備が敷かれ、報道機関も完全な政府の管理下にあった。元々観光地と労働場所が完全に分離されている国だが、その日は隔離といっても過言ではない程、負の側面は徹底的に隠されたていたのだ。
疲れ果てた労働者が仕事着姿で僅かな給金を質素なパンに換える姿、子供たちが学校で知能や運動能力や容姿で分別される姿、容量を上回る子供を抱えた苦労で病んでしまった母親、80歳を迎えて安楽施設の列に並ぶ老人、事故で指が飛んだだけで殺処分されてしまった負担品、そういった負の側面を隠されたのだから、狙ったかのように起こされたテロリズムなど報道されるはずもなく、新聞の片隅どころかインターネットの際涯にさえ載ることはなかった。
「そうだね、あの日でなかったらSNSくらいには載れたかもね。でもボクにはどうでもいいんだよね、そんなこと。だってあいつら訳知り顔で好き勝手に書くでしょ。彼女はきっと劣等生だったんだ、とか、これは国家に対する若者の抗議行動だ、とか、精神異常者だったに違いない、とか……うるせえ、ばーか、って話だよ」
少女は軽妙な語り口で鉛のような瞳を看守に向けた。冗談めいた口調に反して、その瞳はどこまでも深く暗い。
「強いていうなら、語られないからこそ狙ったんだよ。職業体験で働いた病院を選んだのは、知らない相手を殺すのは可哀想だから。まあ、その辺りは顔見知りと赤の他人のどっちを殺すのがより悪か、見解の不一致が起きやすい部分ではあるけどね」
「お前の働きぶりは評価されていたそうだな。熱心で健気で、慈悲深く、乳児への愛情に溢れていた。お前の異常性に気づけなかった医者を、間抜けと罵るべきなんだろうが」
「看守さん、お医者さんは悪くないよ。だって私は子供好きだからね、もちろん赤ちゃんも」
「……は?」
少女の回答を聞いた看守の顔に、明確に怒りの感情が浮かぶ。看守は看守らしい正義感の持ち主だ、隠れて煙草を吸うような狡さも、囚人の暇潰しに付き合う俗性も持ち合わせているものの、基本的には善良で真っ当な人間だ。
だからこそ許し難い感情も湧くのだ。


「看守さん、好きっていう感情と殺しても構わないって判断は両立するんだよ」


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「我の祈りは天に還り、我の心は海に溶け、我の願いは地に根付く。神は迷える民を導き、金色に輝く世界に息吹を吹かせる。この日の光と月の光が我が心を癒し、我が身を潤し、我が掌に神の恵みをもたらし、今ここで生き永らえる奇跡を感謝する。健やかなる時も病める時も、すべての家族と友達と隣人と喜びを分かち合い、悲しみを分け与え、租と神へ残らず捧げよう。我が魂は天へ、我が体は神へ、我の罪は地の底へ、我の血は最後の一滴まで子々孫々へ、我らが永久に富み栄えていられることを……」
憂鬱な日は祖先と神に祈りを奉げる。
銃の出処が教会だったと知ってしまってもなお、看守の神への信仰心は変わらなかったし、祈りという所作が誰が為にではなく己のためにあるという思考は、看守が今日も正常な人間であることの一助となった。
心の平穏を保つために、異常者には速やかに消えてもらいたい。そう思うのもまた正常な人間の正常な反応だ。

「やあ、看守さん。今日も話相手になってくれないかい?」
「……断る。お前と話していると頭がおかしくなりそうだ」
「その意見はご尤もだけど、それだと私が困る」
「困る? お前に困ることなどあるか? 刑が執行されるまで、房の中で飯を食って時間を潰すだけのお前に?」
「そこだよ。ボクは死を待つしかない、脱獄王でもなければ協力者がいるわけでもないからね。おまけにキャステーコさんが異動させられたから煙草も手に入らない。ただ、ぼーっと死を待つのは怖いんだよ? 代わってみる? 人を殺さないと代われないけどね」
少女はもう何度も咥え続けた煙草の、フィルターだけになった残骸のような姿を口に運び、せめて吸ったような気分になろうと試みた。
煙が揺れることもなく、なにか香ることもない。代わりに空虚だけが房の中に満ちている。

「かっこよく死にたいんだよ。堂々と、減らず口のひとつでも叩きながら、忌々しい顔で見送られたい」

少女の鉛のような暗い瞳が、真っ直ぐに看守を見据えている。
その瞳に根負けしてしまったのか、看守は懐に忍ばせていた煙草とマッチを格子の中へと投げつけた。




「■■■■? 変なことを聞きますね、我が校にはそのような名前の生徒は居ませんでしたよ」
「■■■■? 誰それ、知らない」
「■■■■? そんな名前の子、いたっけ?」
「帰ってください、話すことなんて何もありません」
「悪いことは言わない、その名前は口にしない方がいい」

この国の教育は正しく作動している。
看守が少女の母校やかつての友人たちに話しかけたのが、興味本位なのか理解できないことを再認識したかったのかは不明だが、教師から生徒、友人知人、近隣住民までこぞって少女の存在を無かったものとして扱う姿は、テロリストに名を与えない国の方針が正常に働いている結果といえよう。
「……薄情なものだな、同情するわけじゃないが」
これほどまでに一律に口を噤まれると、薄気味悪さのようなものを感じなくもないが、国としてはそれが模範的な姿なのだ。
疑わず、逆らわず、正しく社会を動かす。少女のような例外はあれど、国民の大多数が貧しいながらも限界まで働き、次代の子供を作り続ける。ブレーキのない糸巻き車のような社会の在り方が、この小諸国のひとつでしかない国を辛うじて支えているのだ。
「■■■■は良い子でしたよ。ああ、ご心配なく。語ったところで逮捕も処罰もされません、私は午後から安楽死になりますから」
そんな社会の中で、正直に語ったのが死を間近に迎えた老人だけだったのは、看守にとって意外だった。国が今の方針を定めてから30年、体の限界まで労働を課せられた従順な歯車が、どうしてこの期に及ん歯向かうような物言いをしてみせるのか。
「年を取ればわかりますよ。最期の最期くらい後ろ足で砂を引っ掛けたくなる、人間ってのはそういうもんです」
老人は最後の晩餐にと、安い珈琲にジャリッとした砂糖を溶かして、ゴキュリと不健康そうな音を奏でて飲み込んだ。
「私たちは残酷なことをしたのかもしれない。若い奴らから生き甲斐を奪っちまった。だってそうでしょう、恋も出来ない、仕事も選べない、子供を作り続けなければ連れ合いと一緒に居ることさえ出来ない。■■■■みたいに異性を好きになれない不能者には地獄でしょう。社会はああいう子に、せめて猫でも撫でさせて、人並みに胸張って生きれる場所を与えるべきだったんですよ」
「だからって人を殺していい理由にはならんでしょう」
「それもそうだ。でも看守さんだって、腹も立てば物に当たることだってあるでしょう? そいつの大きさは人それぞれだが、■■■■の場合は、それがちょっとばかり人より大きくて、思い切りが良過ぎた。賢いのも良くなかったですな、自分の未来が鉛色の絶望しかないって、小さい頃に理解しちまったんでしょう」
老人はくしゃくしゃな袋から煙草を取り出して、静かに肺の中に煙を吸い込み、火葬場の煙突のように吐き出した煙を揺らめかせた。



「やあ、看守さん。これはもしもの話なんだけどね」
少女は日に日に気さくに話しかけてくるようになったが、瞳はいつまでも変わらずに暗く鉛のようだった。いつからこんな眼をしているのか、誰にも何にも期待しない、生きることを放棄した眼だ。
「仮にもしも、どこか別の国で違う生き方を出来るとしたら、看守さんだったらどうする?」
「なんだその話、ガキじゃあるまいし……そういえば、まだガキだったな」
「そ、ガキのもしも話ってやつだよ。ボクはね、孤独な奴がいっぱいいる国に行きたいな。そこで狭いアパートに住んで、猫でも飼って、たまに近所の子供に向かって、うるせえクソガキ黙れ、って喚いたりして。そういうめんどくさいババアになるんだ」
少女は咥えた煙草を、口元を動かす度に上下させる。今日は機嫌がいいのか、それとも最早なにもかも観念したのか、この前のような空虚で陰鬱な気配は無い。
いや、少女は少女なりに精一杯に強がっているのだ。それが証拠にマッチを擦ろうとする指は小刻みに震えているし、ベッドの上は乱雑に散らかって、薄くて黴臭い布団を丸めたような形跡がある。
「……そうだな、友達になってやるよ、お前と」
看守はライターを取り出して、少女の口元に小さな火柱を立てる。
火のついた煙草が格子の外に零れ落ちて、格子に寄り掛かるように少女が体の上半分を傾ける。
「……効いたなあ。看守さん、そういうこと言うのは卑怯でしょ」
「大人ってのは卑怯なんだよ、覚えとけ」
看守は仏頂面に珍しく微笑みを浮かべて、懐から拳銃を取り出す。看守が携帯する拳銃は、本来なら鎮圧用のものだ。だから囚人が暴れた時以外に使用したら、何枚も始末書を書く羽目になるし、場合によっては退職なんてこともある。
けれど看守は躊躇せず、俯いたままの少女の頭をタンッと1発、鉛弾を撃ち込んで、床に落ちた煙草をゆっくりと吸ってみせたのだ。



「清掃費と弾丸代、給料から天引きしておくからね。あと今日は有休使っていいから帰りなさい」
独房と廊下の清掃代と1発分の弾丸代、少女を殺したことに課せられた罪は、おおよそ3日分の給金と同額の罰金刑だった。思想犯になると名前だけでなく、命の重みまで奪われてしまうようだ。殺人犯にならなかったのは看守にとって幸いではあったが、喉の奥から胃に掛けて、魚の骨でも刺さったような腑に落ちない気味悪さが残った。
看守はそのまま寮で大人しく過ごすのも癪なので、街のスーパーに出向いて鶏肉と安酒を買い、グリルにして氷入りのグラスで一献傾けた。
そうして煙草を取り出して、中身がないことに気づいて、くしゃりと握り潰したのだった。


(終わり)


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暗い小説です。
暗い小説が好きです、でも世の中はいつでも明るくあってほしいものです。