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短編小説「朽ちる空と沈む雨」

私の頭の上で空が割れた。
とっくに底だと思ってた世界の底が抜けた。
私たちがずっと恨めしく睨んでいた空は、誰かの世界では泥の溜まった底でしかなくて、きっと私たちの住んでいる劣悪な環境も、誰かからしたら見上げ続ける空なのだろう。
この世界には底なんて無くて、絶望は絶望よりも遥かに深くて、悲しいとか怒りとかそんな言葉じゃ言い表せない。

煙の沁み込んだ真っ黒い雨が降り続ける。
殴りつけるような大粒の雨は、馬鹿な私の頭を容赦なく叩き散らして、地面を這い回る虫けらを踏みつけて、土の中へと沈んでいく。
だけど、この無情な雨はどうしようもなく嫌いになれない。なにもかもを隠してくれるから。


「見て見て! 今日は食べ物買えたよ!」

斜花(シェンファ)が笑顔で両手いっぱいに小麦粉と僅かながらの野菜を抱えて帰ってきた。
もう三日、塩を溶かして野草を茹でただけのスープで凌いできた私たちには貴重な食材だし、次に食糧が手に入る日がいつになるのかもわからない。この町に来て1年になるけど、私たちの生活は一向に良くならない。

「飛蛇、小麦粉は全部パンにしちゃおう」
「そうだね」

飛蛇(フェイシア)というのは私の仮の名前だ。本名はわからない、名付けられる前に女で労働力にならないからと捨てられた。
そのまま寂しさを紛らわせるためだけに娼館の女に拾われ、戸籍も与えられず、まともな教育も受けられず、ただ飛蛇という、蛇でも飛べば龍と間違えてもらえる、という雑に名付けられた名前だけを貰い、数年前に客を取ることを強要されたから、喉を切り裂いて逃げた。

斜花は娼館に出入りする業者の娘で、いわゆる幼馴染で、偶然にも同じ日に母親を刺して、今は私の唯一の家族だ。


私たちはこれ以上酷い境遇に陥とされないように、育った町を捨てて逃げた。落ちるでも堕ちるでもない、陥ちたら終わりだから。
落ちても這い上がれる、堕ちてもやり直せる、だけど陥ちたら二度と元の暮らしには戻れないのだ。あのまま捕まって地獄に陥とされるくらいなら、貧しくても逃げるしか他になかった。
そうして辿り着いたこの町で、私たちは部屋を借りて、爪に火を灯すような生活を送っている。


それでも人間として笑えるのだから、まだ上等な暮らしだ。
この世の3つの地獄、売春窟と阿片窟、そして無窮に比べれば……

売春窟に陥ちたら二度と這い上がれない。体を臓腑の奥から蝕まれて、永遠に金を毟り取られて、最後は生ごみ同然に捨てられる。
娼婦の姉たちにそう聞かされて育ったから、そこにだけは絶対に陥ちないと決めていた。

阿片窟に踏み入れたら永遠に阿片の売人に搾取され続ける。阿片で頭の中は天国だと騙され続けながら、金も誇りも矜持も奪われて、骨と皮になって地面に寝転がったまま死ぬ。
斜花の父さんはそうやって、泥水を死んだ。

それよりも最悪なのが、無窮と呼ばれる巨大な貧民窟。
町の一角に突如として現れたそれは、仕事を求めてきた流民と家を失った浮浪者と、行き場のない罪人、そこからも奪おうとする売人や女衒、そういったこの世の混沌が混ざり合って、元々郊外にある土木労働者用の住房だった場所は、流入と増築を繰り返して肥え太る豚のように巨大化し、呼び名の通り無尽蔵な欲望と無限に陥ち続ける生活の集まりだ。

無窮にだけは近づかない、なんて思っていたはずなのに、あの場所には貧しく飢えた空っぽの腹を引き寄せる呪力のような何かがある。
部屋から見える無窮の違法建築群は、この1年で随分と巨大になり、嫌でも視界に入ってくるようになった。当然、そこに吸い込まれていく死んだような目をした流民や罪人も、時折唾のように吐き出される無残な死体も。


この町の冬は厳しい。道も足跡も死体もすべて真っ白に染めてしまうほどの豪雪は、足元から凍るように冷たく、ただでさえ仕事にあぶれた流民は、寒さと飢えを凌ぐのにも精一杯だ。
しかし厳しい冬も少しだけ私に優しい。

そう、私のような泥棒には。

足跡を消してくれる雪は私には好都合だし、わずかな小銭を求めて街角に立つ物乞いや娼婦も冬だけは店仕舞い、歩く者すらいない厳しい寒さは私にだけ優しくしてくれる。
夜中に町に飛び出し、金持ちの家に忍び込み、運が良ければ何事もなく、運が悪ければ少しだけ手荒な手段を使って金目の物を運び出し、夜明け前には近くの町まで売りに走る。
そうして得た金で肉や酒を買い、斜花と一緒に腹を満たして夜まで抱き合って眠る。
そしてまた夜は町に飛び出して盗みを働く。

そうして雪解けた冬は、温かい春をもたらしてはくれなかった。

「手の施しようがないな。とにかく滋養のあるものを食べること、なるべく疲れないように過ごして、決して無理はしないこと」
高い金を払って呼んだ医師は、お守り程度の煎じ薬を置いて、この町ではよくあることだ、とだけ呟いて去っていった。
底を這うような生活は、元々体の弱かった斜花を着実に蝕んでいき、雪が解ける前に咳に血が混じるようになり、雪解け水が流れる頃には大量の血を吐くようになった。

冬が終わったら、また飯屋で安い給金で働くか、酒場で鼻の下を伸ばした男を相手に銭をせびるか、もうそれくらいしか生きる手段がない。
とてもじゃないけど斜花を医者に見せながら暮らす蓄えは残っていない。

「ごめんね、飛蛇。足引っ張っちゃってるね……」
「そんなことない! 斜花がいないと、私だって生きていけない!」

私たちは泣きながら抱き合って眠って、汗を流して血反吐を吐きながら夜まで過ごして、わずかな食事で腹を誤魔化しながら薬を買って、また涙をこぼしながら眠って、また汗と血にまみれて。

そんな日々は私の頭を段々とおかしく狂わせていって、縋れるものならどんなものにでも縋った。
宗教、闇医者、祈祷師、道士、頼っては絶望して金を取り返して、怪我をしたリ鮮血をぶちまけたり。


そして最後に頼ったものが、私たちを世界の底のさらに下へと陥とした。


「姉さん、ここがどんなとこかわかって来てるのかい?」
「知ってる。ルオって薬屋に会いたい」
案内人らしき少女に連れられて、私は初めて無窮へと足を踏み入れた。

無窮には様々なものが流れてくる、薬も阿片も生き胆も死体も。
細く入り組んだ路地に、食堂から医者から薬屋から様々な店が立ち並び、建物の隙間を縫うように奥へと道が広がる。
上を見上げると空が隠れるほどに高く積まれた無数の部屋に、部屋同士を繋ぐように設置された階段や廊下。そういった崩れかけの積み木のような区画が膨れ上がり、重なり合って、まるで互いに喰らい合う獣たちが死なないままに噛み合って育ち、まるで迷宮の様にもゴミの山の様にも成りながら建っている。
路地には阿片中毒の浮浪者に、精神が錯乱した病人、意外にも身なりの整った者、見るからに堅気の商売を出来なさそうな風体の輩、そういった者が這い回る鼠に混じって転がり、時に歩き、それがさも当たり前のように生活を繰り広げている。
そんな言いようのない姿の無窮の中でも、一等深い奥にその店はあった。

「なるほどねえ、そいつは災難だったな。可哀相だがその子を救うことはできないが、死んだ後に蘇らせることはできる。生前通りとはいかないが、その面、覚悟は出来てるんだろう?」

目の前の中年男は煙管の煙を燻らせながら、どす黒い色の丸薬を取り出し、私の手の中に握らせた。
「死ぬ前にそいつを飲ませろ。いつ死ぬかわからんなら今日でも構わない。それと値段だが、銀5000、安くはないがお前なら簡単だろ? なあ、冬専門の泥棒さん」

まともな暮らしの職人でも3年はかかる稼ぎだ。私の生活では何十年分になるかもわからない。それをこの男は簡単だと言い切る、お前なら出来ない稼ぎじゃない、と。

「町の北にある館、そこはここいらの娼館を仕切ってる男の屋敷なんだが、役人を騙くらかしてたんまりと溜め込んでいるそうだ」
「警備は? 中の人数は?」
「俺が知るかよ。俺は簡単だろ、と言ったんだ。俺がそう言ったってことは、お前はそれを実現しなきゃならないってことだ。安心しろ、何年も休まず働くよりもずっと簡単だ」

ルオと名乗るその男は、淡々とまるで手に取った本を読み上げるかのように言葉を投げかけた。
初対面の私を信用してるのか、いいや、こいつは私の仕事を知っていた。おそらく昨年の雪が降り始めた頃から、もしかしたらこの町に流れ着いた頃から、私のことを知っていたのだ。

無窮では、命以外で手に入らないものはないと言われている。それが例え、この異様なまでに人口密度の高いこの町の、たかが小娘ひとりの情報でもだ。

「シャオ! バオフゥ! 客がお帰りだ、外まで無事に送り届けろ!」
ルオが部屋の奥に向かって語りかけると、娼館で客を取る前くらいの背丈の小柄な女と、天井まで届きそうな大男が顔を出し、私をじっくりと観察するように隅々まで眺めて、
「じゃあ、ついて来いよ。逸れたら死ぬから余所見するなよ」
「話しかけられても喋るなよ。ここでは盗まれるもんは全部盗まれちまうからよ」
話しかけてくるシャオと呼ばれた女とバオフゥと呼ばれた男に向かって、黙って頷き返す。
「ルオ、こいつ賢いじゃん。飛蛇だっけ? 喋ったらそのベロ貰う手筈だったんだけど、賢くて助かったな。あたしも賢いやつは大好きだ」
シャオがけらけらと笑って、顎でバオフゥに合図して、なにごともなく無窮の外へと送り出してくれた。


「ほら、銀5000分だ! きっちり盗んできた!」
袋いっぱいに詰め込んだ銀貨や紙幣、それなりの値で売れそうな阿片や薬、盗めるだけ盗み出した価値をルオに手渡す。

「それと他に銀4000分ある! これで私と斜花を匿ってくれ!」

私たちは部屋に居られなくなった。
まだ盗みを働いたのが私だと知られてはいないが、そう遠くない内に見つかるだろう。そうなる前に無窮でもどこでも逃げて隠れて、死ぬまで安全に暮らしてやる。そのために言い分の倍近い盗みを働いてきた。

おそらく、ただ言い分を払うだけだったらルオから一生食い物にされるだろう。だったらこいつの持っている情報や力、それを利用してでも斜花と生き抜いてやる。そう決めたのだ。

「俺の店の奥、そこから出ていった路地に空いてる部屋がある。適当に使え」
ルオは銀4000分の価値を棚に詰め込み、店の奥を指さして、歯を見せるような笑みをこぼした。

「ようこそ、無窮へ。そして、ようこそ、フェイレンへ」


フェイレン、無窮を根城とする匪賊集団。
この町で陽の目の当たらない暮らしをしていれば1度は耳にしたことがある程度には有名で、略奪、殺人、麻薬の売買、違法な薬の製造、反体制活動、ありとあらゆる悪を行うと聞いている。
文字にすると飛人と書き、文字通り雑技団のような曲芸興業のような、人間離れした悪行を重ねる集団。

ルオはその幹部で、私は盗みの才能を売り込んで客人のような立場となった。
要するに安全を買ったわけだ。


「ここは物件としては当たりだよ。日当たりはちょっと難ありだけど、普通の路地からは辿り着けない区画にある。入り口はルオの店に限られてるから、外の役人がいきなり押し寄せてくることは有り得ない」

初めて無窮に来た時にも出くわした案内人の少女が、私に部屋の鍵を渡しながら告げてくる。
その部屋はお世辞にも広いわけではないが、二人が寝転ぶには十分な幅があり、簡素ではあるけれど炊事場も流し台もあった。他の区画から区切られているからか鼠も走っていないし、隣の部屋とは隙間があって音も気にならない。
それになにより安全だ。ルオの店を通らないと辿り着けない、ということは、フェイレンとその客人以外は区画自体に入ってくることがない。
無窮を跋扈する罪人も売人も物乞いも、この部屋では無縁だった。

「昔から住めば都って言うけど、ほんとだね」
斜花が肉と野菜を細かく刻んだスープをゆっくりと飲みながら、私に微笑みかける。

無窮に住み始めた私たちの生活は、意外にも劇的に向上した。なんせ金は余るほどある。食料も清潔な水もシャオとバオフゥが数日に1度、足りなくならない程度に運んでくれる。
窓から陽は射さないし、階下を見下ろすと陰鬱な気分になるほど汚れているけど、毎日朝から飯を食って、斜花の体を拭いて、夜はふたりで毛布に包まって眠る。

まるで天国みたいな暮らしだ。期限が限られていても、やがていつか醒める夢でも。

「斜花、スープ、温めてあげるね」

私は少しも減っていない鍋を火にかけて、ルオから買った丸薬をそっとスープに混ぜた。


幸せな時間はいつまでも続かない。
そんなことは疾うの昔にわかっていた。
斜花の容体は少しも良くならない。手足は枯れ枝のように細く衰えて、吐き出す血の量は日に日に増えていく。食事もほとんど取れなくなったし、最近は体を起こせる時間も短くなってきた。

もう時間の問題だ。もしかしたら明日には死んでしまうかもしれない。明後日までもてば幸運なのかもしれない。

ルオは死ぬ前ならいつ飲ませても構わない、と言っていた。
それでも、万が一にも体調に悪い影響があるかもしれない、とギリギリまで待った。

でも、もう駄目だ。もう待てない。

「斜花、スープ温めたよ」
「ありがとう、飛蛇。でも、もう飲み込む元気もないんだ」
「一口でいいから飲んで。ほら」

私は匙で丸薬とスープを掬い、こぼれないようにゆっくりと飲ませた。

これでもし斜花が蘇らなかったら、その時はルオもシャオもバオフゥも、全員殺してやる。無窮に住んでる他の奴らも、町の連中も、私たちを追い出した娼館の奴らも全員。


少しだけ眠っていた。
朧気だけど夢も見ていた。
私も斜花もまだ無邪気に走り回れるような幼い頃で、あの頃は空も今よりずっと青くて近かった。私と斜花は何が面白いんだか、きゃっきゃと笑っていて、有り得ないけど娼館の寂しい女が微笑んでいて、斜花の両親も穏やかに笑っていた。
そんな光景を、今の私が部屋の窓から見下ろして笑う。もしかしたらそんな日々もあったのかもしれない、なんて自分を誤魔化しながら。


目を開けると、寝転がる斜花から白い靄のようなものが抜けて、天井へと飲み込まれていった。
私は物知りでもないけど、あれはきっと斜花の魂なのだとすぐに悟った。
人間には魂魄があって、死ぬと魂が抜けて天に帰り、体に宿った魄も朽ちると共に地に帰っていく。
魂が抜けた死体は、魄が無事に地に帰れるように火葬したり埋葬したり、あるいは鳥や獣に食べさせたりして、この世に残らないようにしてあげないといけない。

だけど私は、その決まりを捻じ曲げることを選んだ。
魂が抜けても魄が残っている間は、半分は斜花だ。例え神でも運命でも斜花を全部奪うことは許さない。半分だ。半分は私のものだ。誰にも渡さない。

私がルオから買った薬は、死人薬というものだ。本来腐り朽ちていく体を維持して、魄が抜けないように繋ぎ止める。
そうして蘇った人間は僵尸(キョンシー)と呼ばれ、夜の世界の住人となる。

斜花は体をゆっくりと起こして、少しぼうっとしながら天井を見上げ、私に向かって口を開いた。

「フェイ……シア……」

成功だ! 成功した! 斜花がまだ生きている。
抱きしめる体は冬の床のように冷たいし、体も針金でも通したように固い。でもそんなことは大した問題じゃない、今こうして生きて目の前で喋ってる。

「おはよう、斜花!」

私の世界はまだ壊れていない、私の人生はまだ終わっていない。
私はわあっと歓喜の声を上げて、大粒の涙をいくつもいくつも零した。


「上手くいったようだな。では、ここからが本題だ。僵尸はあくまでも死体だ、それはわかるな? 本来人間の体というのものは魂がないと維持できない、それはそういうものだと理解しろ。俺にもわからん。でだ、だったらどうやって体を維持していくか? 血液だ。相当量の、そうだな、毎日洗面器一杯ほどの血液を飲ませ続けなければ、やがて魄は抜ける。早ければ一月程でだ。ここまでは理解したな? ここからが本題だ。無窮は大概のものは手に入る。薬も食料も武器も死体も、金さえ払えば自由自在。だが、人間の生き血、こいつはちと難しい。無窮にも最低限の規則がある、中での殺人は絶対の不文律だ。よってお前は外から血液を仕入れなければならない。そして外にはいなくなると都合がいい人間が何人もいる。言っている意味は理解したな?」

ルオはいつになく饒舌に捲し立てて、シャオとバオフゥを呼んで、私に幾つかの技の手解きをさせた。
非力な盗みくらいしか能のない女でも扱える、効率よく頭をかち割り、喉元を裂くような技を。

「ルオも性格悪いよなー。別に血くらい分けてやってもいいのに」
「覚悟を試してるんだろうよ。なあに、慣れない内は俺もシャオも手伝ってやる。特に運ぶのは女には手間だからな。それに死体は金になる、血に皮膚に骨に肉、人間に残すところ無しってやつだな」
シャオとバオフゥが私を励ますように語りかけてくる。

「大丈夫。殺しは初めてじゃない」
そう、初めてじゃない。あの時はこれ以上陥ちないためにやった。次は今より陥ちないためにやる。同じことだ、相手が娼館の寂しい女か、見ず知らずの男か、それくらいの違いだ。

「フェイシアさあ、あんたやっぱり才能あるよ。盗みの腕前は上々、剣の筋も悪くない。殺しもすでに経験済み。悪党になるために生まれてきたんじゃない?」
「シャオ、口を慎め。好きで殺しに関わるようなやつは……いないとも言えんなあ」
「だろー。フェイレンも色んなのがいるからさあ。趣味は拷問、特技は殺人、みたいなド畜生もいるわけよ。ま、フェイレンは外には鬼だけど身内には甘々だから、心配することじゃないけど」
フェイレンの連中、特にルオたちのような幹部は身内には甘い。徹底して甘い。

事実、この後、いくつもの場面で私は助けてもらうことになる。


頭を叩き割って死に瀕した人間から生き血を搾り取る。人間ひとりに付き、だいたい3日から5日は十分な血が取れる。月に7人も攫ってしまえば、その月は安泰に過ごせる。
けれど7人も攫うのは手間がかかるし正直難しい。
だから、どうしようもない時は斜花に自分の血を吸わせて、しばらく部屋で寝込んで再び血を求めて町に繰り出す。
その都度、シャオとバオフゥは私が頭を叩き割った人間を攫って、速やかに隣の解体部屋に運び、最初は血を搾りだすことも出来ない私を手伝って、獲物が取れなくて寝込んでいる時も食べ切れないほどの肉や野菜を運んできて、献身的と言えるほど尽くしてくれた。

本当に彼らは身内には甘い。蜂蜜をかけた砂糖菓子くらい甘い。


「フェイシア、今日も吸っていい?」
「いいよ。斜花の飲みたいだけ飲んでいいよ」
週に1度は抱き合って首筋を噛ませて血を吸わせているけれど、満月の夜はいつも以上に顕著だ。

魂が無い分だけ本能と欲望に忠実なのか、月が満ちるほどに斜花の飲む血の量は増えて、量だけではなく質も求めるようになる。
その辺の人間の血では満足できず、月が半分以上満ちると私の血を求めるようになり、完全に満ちた日には気を失ってもまだ啜り続ける。
その時だけはなにもかもがどうでもよくなり、斜花から求められている多幸感で胸も頭もいっぱいになり、このまま死んでしまってもいいと心から思える。

これは麻薬だ。阿片よりも麻よりも殺しよりも性交よりも強烈な、一度味わってしまったら二度と戻れないくらいの強烈な快楽だ。
このまま死んでしまっても後悔しない、だってこんなにも愛されて求められている。


「なあ、フェイシア。こんな生活続けてたら、お前ほんとに死ぬぞ」
「今回は代わりにぶっ殺してきてやったけど、とりあえず血を飲ませるのはやめろ」
シャオとバオフゥが心配そうに覗き込んでくる。ふたりが気にかけるのも仕方ない。私は血を飲ませ過ぎているし、斜花は月が満ちると他の血を受けつけないほど、私の血の味を覚えてしまった。
このままだと遠くない内に共倒れになってしまう。
それでもなお私は斜花からは離れられないし、斜花も私の血を飲むのを我慢できない。

血が足りない、まっすぐ立つのがやっとなくらい血が足りないし、斜花の魄を繋ぎ止めるにも血が足りない。

「ルオ、今日も狩りに行く。シャオとバオフゥに手伝ってほしい」
私の青白い顔を見上げながら、ルオはゆっくりと呆れたように嘆息して、紙にペンを走らせる。

「35番通りにボスの直系の部下がいる。こいつなら生き血も売ってくれるはずだ。ああ、そうだ、勘違いするなよ。生き血を手に入れるのは本当に危ない橋なんだ。お前ならわかるよな。その危ない橋を渡って仕入れてきてくれる相手を、信用のない奴には紹介できなかったってことだ。お前は実際よくやってる。ボスの信用を得る程度にはな」
ルオは紙に簡単な地図と紹介文を書き、私の手に握らせる。

「とにかく今は休め。あとしばらく血は吸わせるな、それと、そうだな、隠さずに言おう。無窮にはフェイレン以外にも匪賊がいくつかの集団を作ってる。そいつらとたまにぶつかるわけだが、まあ祭りみたいなもんだ。その期間は外に出歩くな。お前の面はまだ割れていないが、念のためだ」

ルオの伝えてきたことはどうやら本当のようで、通りのあちこちが妙に殺気立っている。無窮の住人はそういう気配に敏感で、獣のように危険を察知してあっという間に店を閉めて立て籠もる。馬鹿面さげて道に寝転がるのは阿片中毒か、梅毒が脳に回っておかしくなった娼婦くらいだ。

私は真っ直ぐに35番通りを進み、地図が示す何の変哲もない酒家の扉を開き、眠たそうに欠伸をしている以前何度か遭遇した案内人の少女に近づく。
「お前、ボスの部下だったのか?」
「やあ、姉さん。ちょっと見ない間に客人がしっかり一員になったわけだ。情人の具合はどうだい、元気にやってる?」
私たちの状況を知ってて嘲笑っているのか、知らずに微笑んでいるのかわからないが、少女の言葉に少しばかりの苛立ちを感じながら、少女に紹介状を手渡した。

「生き血を売ってくれ」
「姉さんなら構わないよ。知ってる? あなたは意外とお金持ち。解体した死体の代金からシャオとバオフゥの手間賃、それにボスへの上納金を差し引いても、実は手元に結構残る。それを元手に商売が出来るくらいにね。どう? なんだったらボスに口利いて阿片の煙館でも始めてみたら?」
「いい。阿片は嫌いだ」
「だよねー。私も嫌い。阿片も闇医者も花売りも、無窮の商売はみんな嫌い。だけどここは居心地が良すぎる、不思議だよね」

少女は自嘲気味に笑いながら、店の奥にいる何者かに紹介状を渡した。
近づけば顔も見えそうだったが、好奇心猫をも殺すの諺通り、知りたがりは長生きできない。決して視線を向けず、少しでも怪しいと誤解されないように、私は明確に顔を背けた。
「姉さん、賢いね。ボスがきっと気に入るよ」

顔も名前も知らないボスとやらに気に入られたのか、その日の夕方にはルオの店に血の入った水筒が届いた。
これから不測の事態でも起きない限りは3日に1度、暫くの間は届いてくれる、そういう約束だ。

「じゃあ、フェイシアが危ないことしなくてもいいんだね!」
斜花が私に寄り掛かりながら笑顔を見せた。
「しばらくの間だけどね」
私も斜花に体重を預けながら、これまで無茶を続けてきた疲れが出たのか、睡魔に誘われるままに眠った。


私たちの平穏な暮らしとは反対に、ただでさえ最悪に近い無窮の治安は、より危険に凄惨と化していった。
部屋を出て階段を上がり、物見櫓のように建てられた小部屋から階下を覗くと、あちこちで喧嘩に暴行、略奪に殺人、この世のありとあらゆる悪行が繰り広げられていた。

ルオは祭りのようなものと言っていたけれど、言い得て妙で確かに祭りだ。
京劇の猿のような面をつけた連中が暴れ回っている。その中を、無窮の高層階から猛禽のように駆け下りた小さな人影が、鉄扇でばちんと面をかち割って、身を翻して鳥のように壁を駆け上がっていく。
どっちがフェイレンなのか敵対している匪賊集団なのかはわからないけど、まるで獣と禽の食らい合いだ。

あんなのに巻き込まれたら一溜まりもない。ルオの判断は的確だ、こんな時に半殺しにした人間なんか運んでたら、自分はフェイレンですと名乗っているようなものだ。
そして用意された部屋は安全だ。ルオの店が突破されない限り、どこからも手出しが出来ない。
通りひとつ挟んだ喧騒とはまるで無縁なくらい静かだ。

「そういうわけで、斜花も部屋の外には出ないようにね」
「うん! フェイシアも出ちゃ駄目だよ」

静かな暮らしが続いた。
仕事もせずに朝から夕方まで惰眠を貪り、夜は斜花と語らい合って過ごした。
最近はよく昔の話をするようになった。幼い頃、まだ私が娼館で姉たちに囲まれて暮らしていて、母親の手伝いで来ていた斜花と表の道を走り回ったこと、娼館で食べた蒸したての饅頭が美味しかったこと、野良猫を触ろうとして噛まれて大泣きしたこと、あの頃はまだ娼館の寂しい女も斜花の母親も優しかったこと。


無窮にも雪が降る季節が訪れ、その身に寒さを感じない斜花は、窓辺でぼうっとしている時間が増えた。
顔も髪も蘇った頃の姿のままなのに、おとなしくじっと座って夜風に当たっている。
まるで年老いた猫みたいに。

「斜花、今日は血を飲む日だよ」
「……フェイフェイ」

斜花はいつ頃からか私を幼い名前で呼ぶようになり、抱き合って眠っていたふたりは、かたいっぽが膝の上で眠るようになった。


静かな冬が終わり、無窮の汚い路地を雪解け水がべちゃべちゃに泥濘ませた頃、膝枕で眠る斜花の体からすうっと黒い靄のようなものが抜けて、床に吸い込まれるように消えた。
空っぽな春が訪れて、ひとつの季節がまた巡った。


「フェイシア、これも燃えるんじゃない?」
「ほら、ぶっ壊れた店の看板に椅子、全部燃やしちまおう」
無窮の外の空き地で、廃材から襤褸布から薪から油、燃えそうなものはなんでも搔き集めた。
集めて集めて、頭上の曇った空に届くんじゃないかってくらい高く積み上げて、火炬を投げ込んだ。

「おやすみ、斜花」


煙の沁み込んだ真っ黒い雨が降り続けている。
殴りつけるような大粒の雨は、馬鹿な私の頭を容赦なく叩き散らして、地面を這い回る虫けらを踏みつけて、土の中へと沈んでいく。
だけど、この無情な雨はどうしようもなく嫌いになれない。なにもかもを隠してくれるから。




それから? 簡単に言えば、私の暮らしは少しだけ変わった。
ふたりだった部屋はひとりになり、私は泥棒から盗賊の頭になった。盗賊の頭になって、盗んだ金で無窮に店を出した。
売り物はなんでもだ。売れるものは何でも売る、盗品でも人でも死体でもだ。
ひとりでは生きていけないと信じていたけど、陥ちるとこまで陥ちても、ひとりになっても、人間やめてでも生きるしかない。
諦めて死ねと言ってくれるような優しさは、私の住む世界には売ってない。引っ張り上げてくれる救いは、どこの店の棚にも並んでいない。

「よう、姉さん。景気はどうだい?」
すっかり顔見知りになった案内人の少女が、鉄扇で肩を叩きながら私の店に顔を出す。その後ろではルオにシャオにバオフゥが、従うように控えるように黙って立っている。

「よう、ジューシェー。こんなとこに来て、今日も暇そうだね」
「まあねー。喧嘩も終わって暇で暇でしょうがない。売る相手もいない。そこでだ、無窮も手狭になってきたんでね、そろそろ喧嘩を売りに行こうと思うんだ」
「どこの誰に?」

ジューシェーはにやりと笑って、店の外、通りを抜けてさらに外に鉄扇を向ける。
「フェイレンは匪賊だ。匪賊の喧嘩相手は、最終的に国だよ。もっと言えば世界の仕組みだ。どう? ぶっ壊してみたくない?」

簡単な問いだ。答えなんてとっくに出てる。

「いいよ、壊しちまおう」


(おわり? 続くかも?)

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小説を書きました。
まあ書いたわけなのですが、ちょっと裏話的な話をするとフェイレンというのは私が昔書いてた歴史物の小説(旧パソコンにデータがあったのですが壊れて全部消えました)に出てくる、清代末期っぽい大国の海岸の上海っぽい都市を牛耳っていた海賊集団で、まあ最終的にはそれ以上に無法者な倭寇をモチーフにした海賊たちに一番船を乗っ取られたのをきっかけに壊滅させられる所謂やられ役なわけですが、その集団が海に出る前の設立間もない頃の設定を新に書き起こしたのが今回のお話になります。
若干の違いはありますが、若干の違いがもっと幹部がいますよってのと、無理矢理薬で延命してたのをキョンシーにしたくらいの点なので、まあ割とそのままなとこが多いので、セルフ二次創作な感じで大変に気恥ずかしさがあったりします。

引き出しは開くものじゃない……!

出来れば一生閉じておいてもいい……!!


でもせっかく引き出し開けたので、ちょっとだけフェイレンの解説でも入れておきます。

フェイレン(飛人、非人←ダブルミーニングでどっちの字も当てはまる)
近年誕生した匪賊組織、飛蛇加入後に海に出て海賊組織となる。
後見人として四獣の名を名乗る4人を抱える反体制的暗殺集団がいて、作中にも出てきたジューシェー(朱雀)はその中のひとりで、軽業と鉄扇を初めとする暗器の達人。フェイレンの首領(龍頭)でもある。
他の3人もそれぞれショウレン(獣人)・ウーレン(武人)・ファンレン(防人)という組織を抱えているが、四獣は4人まとめて暗殺されてしまった(※後に蘇生されて別勢力として出てきて全員乗っ取った側の仲間になる)ため、残りの3勢力は統率を失って細かく分裂して野に散った。