夏目漱石「それから」本文と評論7-4
◇評論
前話の、西洋間で嫂と姪がピアノの練習をしているところに代助が顔を出し、嫂の言葉に従ってピアノを弾く場面の続き。代助は嫂と入れ替わり、「譜を見ながら、両方の指をしばらく奇麗に働らかした後、「斯(か)うだらう」と云つて、すぐ席を離れた。」の後の場面。
愛する三千代のために金の無心を嫂にしなければならない。その現実のために代助はここに現れたわけだが、しばし彼は音楽と美術の美的世界に精神的に遊ぶ。
三十分程のピアノの練習の後、嫂の「もう廃(よ)しませう。彼方(あつち)へ行つて、御飯でも食べませう。叔父さんもゐらつしやい」という言葉によって、三人は移動する。
薄暗い部屋に響くピアノの音。「代助は先刻(さつき)から、ピヤノの音を聞いて、嫂や姪の白い手の動く様子を見て、さうして時々は例の欄間の画を眺めて、三千代の事も、金を借りる事も殆んど忘れてゐた。」
「嫂や姪の白い手の動く様子」には、当然三千代の白い手とその動きも重なっているだろう。彼女のために「金を借りる」必要がある。しかし今は美的世界にたゆたう代助だった。彼はこのように、芸術に触れると途端に脳のチャンネルが切り替わる人なのだ。その様子はまだ続く。
「部屋を出る時、振り返つたら」、西洋間の壁には、「紺青(こんじやう)の波が摧(くだ)けて、白く吹き返す所 丈(だけ)が、暗い中に判然(はつきり)見えた」絵が描かれている。紺青、白、その上にある「黄金色(こがねいろ)の雲の峰」。代助はこの「雲の峰」を、まるで「真裸(まはだか)な女性(によせう)の巨人が、髪を乱し、身を躍らして、一団となつて、暴(あ)れ狂つてゐる様(やう)に」描かせた。「代助はヴァルキイルを雲に見立てた積で此図を注文したのである」。しかし「偖(さて)出来上がつて、壁の中へ嵌(は)め込んでみると、想像したよりは不味(まづ)かつた」。彼の理想的なイメージとは違うものが壁にはめ込まれたのだ。「梅子と共に部屋を出た時」、ヴァルキイルも紺青の波も見えず、「たゞ白い泡の大きな塊(かたまり)が薄白(うすじろ)く見えた」。
「ヴァルキイル」…北欧神話に出てくる知・詩・戦の神オディンにつかえる12少女の一人。戦場の空を飛び、戦死すべき者を選んで天国に案内するという。(角川文庫「それから」注釈)
代助の三千代のイメージは、とても落ち着いた物静かな女性であり、紺青や白は、彼女の雰囲気にぴったりだ。黄金色の雲の峰が、戦死者を選ぶヴァルキイルに見える絵とは、三千代を表象したものだろう。彼女によって戦死する者は代助ということになる不吉な伏線。美しい死神、戦う乙女など、様々なイメージを持つヴァルキイル。ふだんは静かな三千代の中に、代助はその姿を見出す。
「誠太郎に兄の部室からマニラを一本取つて来さして、夫(そ)れを吹かしながら、雑談をした。」
代助はタバコを吸う。作品冒頭部にも、タバコの煙を椿の花びらに吹きかける場面がある。
嫂との差し向かいの会話により、「父と兄が、近来目に立つ様に、忙がしさうに奔走し始めて、此四五日は碌々(ろく/\)寐(ね)るひまもない位だと云ふ報知」を入手する。「平気な顔」の代助と、「御父さんも、兄さんも私には何にも仰やらないから、知らない」と「普通の調子」の嫂。ふたりの会話の途中、書生が入ってきて、「今夜も遅くなる、もし、誰と誰が来たら何とか屋へ来る様に云つて呉れと云ふ電話を伝へ」る。父と兄は何ごとかで忙殺され、帰宅もままならない。その理由が読者は気になるところだ。
「代助は又結婚問題に話が戻ると面倒だから、時に姉さん、些(ちつ)と御願ひがあつて来たんだが、とすぐ切り出して仕舞つた」。
「約十分許」、「梅子は代助の云ふ事を素直に聞いて居た」。「だから思ひ切つて貸して下さい」という彼に、「梅子は真面目な顔をして、「さうね。けれども全体 何時(いつ)返す気なの」と思ひも寄らぬ事を問ひ返した」。不審な様子の代助に、「梅子は益真面目な顔をして、又斯う云つた。
「皮肉ぢやないのよ。怒つちや不可(いけ)ませんよ」」。
語り手は代助の気持ちを代弁する。借金の返済の言葉は代助にとって「思ひも寄らぬ事」だった。彼は、「姉弟(けうだい)から斯(か)ういふ質問を受けやうと予期してゐなかつた」。
「姉弟(けうだい)から」返済の期日の「質問を受けやうと予期してゐなかつた」代助。彼は、人から金を借りることにルーズになっている。普通、人からまとまった金を借りる時には、それがたとえ兄弟であっても、いつ返すのかや利子はどうなるのかを話し合うか書面に残すかする。代助には、それらの常識がまるでない。「姉弟だから気安く借りられるだろう。なんなら返さなくてもいいのではないか」と、彼は安易に考えている。人の金で平気に生きている男の面目躍如だ。生活費の面倒を全面的に見てもらっている身で、さらなる他人のための借金の申し出をするなど、普通では考えられない。そんなことは恥ずかしくて、とてもできることではない。厚顔無恥も甚だしい。「何様だと思っているのか」と叱責されても文句は言えないだろう。
だから「梅子は漸やく手に余る弟を取つて抑えた様な気がしたので、後(あと)が大変云ひ易(やす)かつた」のだ。
この場面は次話に続く。
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