梶井基次郎「檸檬」を読む2

◇本文
 私はまたあの花火というやつが好きになった。花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それから鼠花火というのは一つずつ輪になっていて箱に詰めてある。そんなものが変に私の心を唆(そそ)った。
 それからまた、びいどろという色 硝子(ガラス)で鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉(なんきんだま)が好きになった。またそれを嘗(な)めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。あのびいどろの味ほど幽(かす)かな涼しい味があるものか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落ち魄(ぶ)れた私に蘇ってくる故(せい)だろうか、まったくあの味には幽かな爽やかななんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る。
 察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。とは言えそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰めるためには贅沢ということが必要であった。二銭や三銭のもの――と言って贅沢なもの。美しいもの――と言って無気力な私の触角にむしろ媚(こ)びて来るもの。――そう言ったものが自然私を慰めるのだ。
 生活がまだ蝕(むしばま)れていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水 壜(びん)。煙管(きせる)、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。

(青空文庫より)

◇評論
 前段で「私」が「強くひきつけられた」ものは、「みすぼらしくて美しいもの」だった。今回は、「好き」なものとして、まず「花火」が取り上げられる。
 「花火」が輝くのも「好き」だし、「あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様を持った花火の束」自体も「変に私の心を唆(そそ)った」。
 これに続き、「色 硝子(ガラス)で鯛や花を打ち出してあるおはじき」、「南京玉」が挙げられる。特に南京玉については、「それを嘗(な)めて」みた時の「幽(かす)かな涼しい味」が「なんともいえない享楽」を感じ、「父母に叱られた」「幼時のあまい記憶」も相まって、「落ち魄(ぶ)れた私」に「詩美」さえ抱かせるほどだった。

 「みすぼらしく」、「安っぽい絵具」で塗り立てられた花火。幼時の記憶にもあるおはじきや南京玉。それを嘗めた時の「涼しい味」。それらのささやかな「美」によって、「落ちぶれた私」の心は慰められた。

 この時の「私にはまるで金がなかった」。しかしそれでも「少しでも心の動きかけた時の私自身を慰めるためには贅沢ということが必要」であり、「二銭や三銭の」、「無気力な私の触角にむしろ媚(こ)びて来るもの」が、「自然私を慰めるのだ」った。これは、いくら貧乏だからといって、たまには二三銭のものを買ったということだ。ふつう自分に「媚びてくる」相手には警戒し拒否感を抱くだろうが、この時の「私」は、それを拒まない心性にある。

 次に、「生活がまだ蝕(むしばま)れていなかった以前私の好きであった所」が紹介される。「丸善」に置かれた、「赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水 壜(びん)。煙管(きせる)、小刀、石鹸、煙草」。「洒落た」舶来の高級品だ。「私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった」。「そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった」。洋物の高級品への嗜好を持っていた「私」。
 「しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった」。「書籍、学生、勘定台」などが「みな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった」。人を見ても、お金に関係するものを見ても、それらすべてが自分の借金を取り立てる存在・敵であるかのように思われたということ。「私」が日々の生活に困窮しているさまがうかがわれる。「借金」をしなければ、生きていけないのだ。次の場面では、「友達の下宿を転々と」渡り歩く様子が描かれる。
(つづく)

 

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