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夏目漱石「それから」本文と評論7-5

◇本文
 「代さん、あなたは不断(ふだん)から私を馬鹿にして御出(おいで)なさる。――いゝえ、厭味を云ふんぢやない、本当の事なんですもの、仕方がない。さうでせう」
「困りますね、左様(さう)真剣に詰問されちや」
「善(よ)ござんすよ。胡魔化さないでも。ちやんと分つてるんだから。だから正直に左様だと云つて御仕舞なさい。左様でないと、後が話せないから」
 代助は黙つてにや/\笑つてゐた。
「でせう。そら御覧なさい。けれども、それが当り前よ。ちつとも構やしません。いくら私が威張つたつて、貴方(あなた)に敵(かな)ひつこないのは無論ですもの。私と貴方とは今迄通りの関係で、御互ひに満足なんだから、文句はありやしません。そりや夫(それ)で好(い)いとして、貴方は御父さんも馬鹿にして入らつしやるのね」
 代助は嫂の態度の真卒な所が気に入つた。それで、
「えゝ、少しは馬鹿にしてゐます」と答へた。すると梅子は左(さ)も愉快さうにハヽヽヽと笑つた。さうして云つた。
「兄さんも馬鹿にして入らつしやる」
「兄さんですか。兄さんは大いに尊敬してゐる」
「嘘を仰しやい。序(ついで)だから、みんな打(ぶ)ち散(ま)けて御仕舞ひなさい」
「そりや、或点(あるてん)では馬鹿にしない事もない」
「それ御覧なさい。あなたは一家族 中(ぢう)悉く馬鹿にして入らつしやる」
「どうも恐れ入りました」
「そんな言訳はどうでも好いんですよ。貴方から見れば、みんな馬鹿にされる資格があるんだから」
「もう、廃(よ)さうぢやありませんか。今日は中中(なかなか)きびしいですね」
「本当なのよ。夫(それ)で差支へないんですよ。喧嘩も何も起らないんだから。けれどもね、そんなに偉い貴方が、何故私なんぞから御金を借りる必要があるの。可笑(おかし)いぢやありませんか。いえ、揚足を取ると思ふと、腹が立つでせう。左様(そん)なんぢやありません。それ程偉い貴方でも、御金がないと、私見た様なものに頭を下げなけりやならなくなる」
「だから先(さつ)きから頭を下げてゐるんです」
「まだ本気で聞いてゐらつしやらないのね」
「是が私の本気な所なんです」
「ぢや、それも貴方の偉い所かも知れない。然し誰も御金を貸し手がなくつて、今の御友達を救つて上げる事が出来なかつたら、何うなさる。いくら偉くつても駄目ぢやありませんか。無能力な事は車屋と同しですもの」
 代助は今迄嫂が是程適切な異見を自分に向つて加へ得やうとは思はなかつた。実は金の工面を思ひ立つてから、自分でも此弱点を冥々の裡(うち)に感じてゐたのである。
「全く車屋ですね。だから姉さんに頼むんです」
「仕方がないのね、貴方は。あんまり、偉過ぎて。一人で御金を御取んなさいな。本当の車屋なら貸して上げない事もないけれども、貴方には厭よ。だつて余(あんま)りぢやありませんか。月々兄さんや御父さんの厄介になつた上に、人の分迄自分に引受けて、貸してやらうつて云ふんだから。誰も出し度(たく)はないぢやありませんか」
 梅子の云ふ所は実に尤もである。然し代助は此尤もを通り越して、気が付かずにゐた。振り返つて見ると、後ろの方に姉と兄と父がかたまつてゐた。自分も後戻りをして、世間並にならなければならないと感じた。家を出る時、嫂から無心を断わられるだらうとは気遣つた。けれども夫れが為に、大いに働いて、自から金を取らねばならぬといふ決心は決して起し得なかつた。代助は此事件を夫程重くは見てゐなかつたのである。

(青空文庫より)

◇評論
 代助の借金の申し出に対し、嫂の反論は的確・正論だ。
・父も兄も嫂もバカにしている「そんなに偉い貴方が、何故私なんぞから御金を借りる必要があるの。可笑(おかし)いぢやありませんか。」
バカにしている相手への借金の申し込みの理不尽さ。
・「それ程偉い貴方でも、御金がないと、私見た様なものに頭を下げなけりやならなくなる。」
自分に金が無いと、普段バカにしている相手の下手に出なければならなくなる。それは不本意だろう。
・「誰も御金を貸し手がなくつて、今の御友達を救つて上げる事が出来なかつたら、何うなさる。いくら偉くつても駄目ぢやありませんか。無能力な事は車屋と同しですもの」
貸し手がなければどうにもならない今の自分の状況を、いったいどのように考えているのか。いくら偉い人間でも、金が無いと無能力と同じだ。
・「一人で御金を御取んなさいな」。
自力で金を稼ぎなさい。
・「月々兄さんや御父さんの厄介になつた上に、人の分迄自分に引受けて、貸してやらうつて云ふんだから。誰も出し度(たく)はないぢやありませんか」
自分で稼いだ金で、他者を救いなさい。

これらに対し代助は思う。
・「代助は今迄嫂が是程適切な異見を自分に向つて加へ得やうとは思はなかつた」。
代助は嫂を見くびっていた。
・「実は金の工面を思ひ立つてから、自分でも此弱点を冥々の裡(うち)に感じてゐたのである。」
そうであればその時点で考えを改めるべきだった。
・「梅子の云ふ所は実に尤もである」
嫂の主張の肯定。
・「然し代助は此尤もを通り越して、気が付かずにゐた。振り返つて見ると、後ろの方に姉と兄と父がかたまつてゐた。自分も後戻りをして、世間並にならなければならないと感じた。家を出る時、嫂から無心を断わられるだらうとは気遣つた。けれども夫れが為に、大いに働いて、自から金を取らねばならぬといふ決心は決して起し得なかつた。代助は此事件を夫程重くは見てゐなかつたのである。」
代助の意識の外にあったのは、嫂も父や兄側の存在であるということと、自分も「世間並」にならねばならないということだった。ここでの「世間並み」とは、「大いに働いて、自から金を取らねばならぬと」「決心」することだ。それを「決して起し得」ず、「此事件を夫程重くは見てゐなかつた」代助の不明が際立つ場面。

金が無ければ自分で稼ぐしかないという、誰もがたどり着く結論に思い至らない代助の不明は、愚かと言ってもいい。聡明な代助のこの様子は、やはり彼が、父や兄の金に完全に依存してこれまで生きて来たことに由来するだろう。すべてが親がかりで、気分は学生のままなのだ。平岡から、「いつまでもそういう世界に住んでいられれば結構さ」と皮肉を言われても仕方がない。

「代助は嫂の態度の真卒な所が気に入つた。それで、
「えゝ、少しは馬鹿にしてゐます」と答へた。すると梅子は左(さ)も愉快さうにハヽヽヽと笑つた。」
この場面の代助の不真面目さがとても気になる。彼は「嫂の態度の真卒な所が気に入つた」とする。ふつうこの場面でこのようなことは思わない。ふつう、「嫂の態度の真卒な所」に対しては、「気に入つた」ではなく「はっとした」とか「申し訳なく思った」とか「心を改めた」になるはずだ。だからこの場面の代助は、悪ふざけが過ぎる。真面目にならなければならない場面でふざけている。真剣にものを言う相手にとても失礼な態度だ。ふざけでごまかそうとしている。こういう人は人から信用されなくなる。
従って、この代助のふざけた態度に続く嫂の反応も、本当はもっと怒っていい場面だ。「真面目に私の話を聞け」と一喝していい。それなのに嫂も代助に合わせて「左(さ)も愉快さうにハヽヽヽと笑」ってしまう。嫂のこの態度は、代助を甘やかしている。だから代助はこんな甘えた人間になってしまったのだ。相手を真に思うのならば、厳しいことを真面目に言わねばならない時もある。
代助の機知、ウィットは、文化・芸術的背景・知識があるゆえにとても面白い。相手も知的好奇心がくすぐられる。しかしここではそれを発揮してはいけない。今は、真面目に話す場面だからだ。
代助は時々相手や物事を見くびる。「代助は此事件を夫程重くは見てゐなかつたのである」とはそういうことだ。


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