夏目漱石「それから」2-3
◇評論
前話の、「此変動の一部始終を聞かうと待設けて居たのだが」、「中々埒を開けない」。代助は仕方なしに、「久し振りだから、其所いらで飯でも食はう」と平岡を「無理に引張つて、近所の西洋料理へ上がつた」を承けた場面。
平岡にしてみれば、自身の窮状に比して、のんびり優雅に暮らしている昔の友人に対する妬みがあるだろう。前に代助の家をほめたのも、その意味と意図がある。昔は同じような境遇だったふたりが、今は違ってしまったのだ。だから再会後のふたりの会話はぎこちない。それが、酒が入ることによって気持ちもほぐれ、次第に会話が弾むようになる。「飲む事と食ふ事は昔の通りだね」とは、そういう意味だ。
しかし話を進めるに従って、次第に雲行きが怪しくなる。ふたりの境遇の違いが、再びあらわになるのだ。代助はまだ、平岡の窮状を知らない。その相手に向かって芸術論や勤労の意味と意義を披露しても、それはしょせん机上の空論としか受け止められないだろう。今話はそのように展開していく。
「代助は面白さうに、二三日前自分の観(み)に行つた、ニコライの復活祭の話」をする。「御祭が夜の十二時を相図に、世の中の寐鎮(ねしづま)る頃を見計らつて始まる」。しかしそれを、昼間働く者は鑑賞する余裕がない。「幾千本(いくせんぼん)の蝋燭が一度に点(つ)いてゐる」様や、「法衣(ころも)を着た坊主が行列して向ふを通るときに、黒い影が、無地の壁へ非常に大きく映る」様子は、さぞかし趣深いだろう。しかし平岡には、鑑賞することはできない。だから彼は、「頬杖を突いて、眼鏡ねの奥の二重瞼(ふたへまぶち)を赤くしながら聞いてゐた」のだ。「夜の二時頃広い御成(おなり)街道を通つて、深夜の鉄軌(レール)が、暗い中を真直ぐに渡つてゐる上を、たつた一人上野の森迄来て、さうして電燈に照らされた花の中に這入(はい)つた」に至っては、何をかいわんやだ。そんな時間には、床に入って寝ていなければ、次の日の仕事に差し支えるばかりだ。「人気(ひとけ)のない夜桜は」確かに「好いもん」だろう。しかしそれを楽しむことは、今の自分にはできない。「平岡は黙つて盃(さかづき)を干し」、代助の「気楽」さを批判する。実社会であくせく働くことを強要されている者には、「中々それ所ぢやない」というのが実態であり本音だ。代助の「無経験を上から見た様な事を云」う平岡の気持ちも分かる。
しかし、まだ実社会に出ておらず、大学卒業後4年間も働いていない代助には、平岡の苦悩は理解できない。彼は「生活上世渡りの経験よりも、復活祭当夜の経験の方が、人生に於て有意義なものと考へてゐる」。そうして、「所謂処世上の経験程愚なものは」なく、そこには「苦痛がある丈ぢやないか」と言う。
当然平岡は反論する。
「だつて、君だつて、もう大抵世の中へ出なくつちやなるまい。其時それぢや困るよ」。「そんな事を云つて威張つたつて、今に降参する丈だよ」と。
代助は、「世の中へは昔から出てゐる」。「ことに君と分かれてから、大変世の中が広くなつた様な気がする。たゞ君の出てゐる世の中とは種類が違ふ丈だ」というふうに、「世の中」の定義づけが異なっていると論理を展開する。確かに代助の言う「世の中」と、平岡の「世の中」は異なっている。しかしその前提が異なっていることを土台にいくら議論してもしようがない。無駄な議論だ。だから代助は、ただ議論を楽しんでいるだけだと批判されてもしようがない。ふたりの議論ははなからかみ合っていないのだ。
「そんな事を云つて威張つたつて、今に降参する丈だよ」という平岡に対して、「無論食ふに困る様になれば、何時(いつ)でも降参するさ。然し今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を嘗(な)めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの」と代助は反論する。しかしこれは富む者の論理だ。自分には経済的な余裕があるからこのような生活や考え方ができるのだと開き直っているとも取れる態度。確かにそれはその通りだろう。しかし今目の前にいる友人に言う言葉ではない。相手はすでに、代助とは別の状況にあるのだから。富む者がその精神的豊かさの重要性をひけらかしたところで、貧しい者の反感を買うだけだ。そもそも持っておらず、同じ前提に立つことができないのだから、
当然、「平岡の眉の間に」は、「一寸(ちよつと)不快の色が閃(ひらめ)」く。そうして、「赤い眼を据ゑてぷか/\烟草を吹かしてゐる」。こいつには何を言っても伝わらないし、自分と相手との環境・生活のレベルが全く異なってしまったと思っているだろう。
これ以上の自説の主張はやめるべきだった。しかし代助は続けてしまう。
「三軒も四軒も懸け持をやつてゐる」「学校の教師」がおり、「下読(したよみ)をするのと、教場へ出でて器械的に口を動かしてゐるより外に全く暇がない。たまの日曜抔は骨休めとか号して一日ぐう/\寐てゐる」。「楽(がく)といふ一種の美くしい世界には丸で足を踏み込まないで死んで仕舞はなくつちやなら」ない。「贅沢な経験をしなくつちや人間の甲斐はない」。「君は僕をまだ坊っちやんだと考へてるらしいが、僕の住んでゐる贅沢な世界では、君よりずつと年長者の積りだ」。
しかしその「学校の教師」は、代助が言うとおり、「一軒ぢや飯が食へない」「気の毒な」人なのだ。彼は生きるために「下読(したよみ)」をし、「教場へ出でて器械的に口を動かし」、「全く暇がない」。貧困ゆえに、代助が住んでいる「贅沢な世界」には住めない人だ。住む世界が違う代助に、「君よりずつと年長者の積りだ」と言われても、何とも言いようがないだろう。
このような未熟な芸術論を披瀝された相手は、鼻白むしかない。代助の論理は、経済的豊かさとそれに由来する精神的余裕を土台にしたものだからだ。日々の生活に困窮し、とてもそのような余裕のない者にとっては、机上の空論。何の効果も説得力も持たない戯言だ。
だから平岡は、「巻莨(まきたばこ)の灰を、皿の上にはたきながら、沈んだ暗い調子で、「うん、何時(いつ)迄もさう云ふ世界に住んでゐられゝば結構さ」と云つた」のだ。「其重い言葉の足が、富に対する一種の呪咀を引き摺(ず)つてゐる様」であったのも当然だ。
富む者が持たざる者を批判しても意味がないしその資格もない。日々の生活・生きることに精いっぱいな者に芸術を説いても、それは経済的に余裕があるから可能なのだと一笑に付されるだけだ。そこに気づいていないところが代助の未熟さだ。旧友の平岡なら自分の考えを理解してくれるだろうと思って、持論を展開したのかもしれないが、平岡はすでに違う世界の住人となっている。実生活・実人生の苦しさを経験していない代助への反感は、増すばかりだろう。
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