見出し画像

夏目漱石「それから」本文と評論8-2

◇本文
 代助は斯(か)う云ふ考で、新聞記事に対しては別に驚ろきもしなかつた。父と兄の会社に就ても心配をする程正直ではなかつた。たゞ三千代の事丈が多少気に掛つた。けれども、徒手(てぶら)で行くのが面白くないんで、其うちの事と腹の中で料簡を定めて、日々(にち/\)読書に耽つて四五日過した。不思議な事に其後例の金の件に就いては、平岡からも三千代からも何とも云つて来なかつた。代助は心のうちに、あるひは三千代が又一人で返事を聞きに来る事もあるだらうと、実は心待ちに待つてゐたのだが、其甲斐はなかつた。
 仕舞にアンニユイを感じ出した。何処か遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を捜して、芝居でも見やうと云ふ気を起した。神楽坂から外濠(そとぼり)線へ乗つて、御茶の水迄来るうちに気が変つて、森川丁にゐる寺尾といふ同窓の友達を尋ねる事にした。此男は学校を出ると、教師は厭だから文学を職業とすると云ひ出して、他のものゝ留めるにも拘らず、危険な商買をやり始めた。やり始めてから三年になるが、未だに名声も上がらず、窮々云つて原稿生活を持続してゐる。自分の関係のある雑誌に、何でも好いから書けと逼(せま)るので、代助は一度面白いものを寄草した事がある。それは一ヶ月の間雑誌屋の店頭に曝(さら)されたぎり、永久人間世界から何処かへ、運命の為めに持つて行かれて仕舞つた。それぎり代助は筆を執る事を御免蒙つた。寺尾は逢ふたんびに、もつと書け書けと勧める。さうして、己(おれ)を見ろと云ふのが口癖であつた。けれども外の人に聞くと、寺尾ももう陥落するだらうと云ふ評判であつた。大変露西亜ものが好きで、ことに人が名前を知らない作家が好きで、なけなしの銭を工面しては新刊物ものを買ふのが道楽であつた。あまり気焔が高かつた時、代助が、文学者も恐露病に罹つてるうちはまだ駄目だ。一旦日露戦争を経過したものでないと話せないと冷評(ひやか)し返した事がある。すると寺尾は真面目な顔をして、戦争は何時でもするが、日露戦争後の日本の様に往生しちや詰らんぢやないか。矢っ張り恐露病に罹つてる方が、卑怯でも安全だ、と答へて矢っ張り露西亜文学を鼓吹してゐた。
 玄関から座敷へ通つて見ると、寺尾は真中へ一貫 張(ばり)の机を据ゑて、頭痛がすると云つて鉢巻をして、腕まくりで、帝国文学の原稿を書いてゐた。邪魔ならまた来ると云ふと、帰らんでもいゝ、もう今朝から五五(ごご)、二円五十銭丈稼いだからと云ふ挨拶であつた。やがて鉢巻を外して、話を始めた。始めるが早いか、今の日本の作家と評家を眼の玉の飛び出る程痛快に罵倒し始めた。代助はそれを面白く聞いてゐた。然し腹の中では、寺尾の事を誰も賞(ほ)めないので、其対抗運動として、自分の方では他(ひと)を貶(けな)すんだらうと思つた。ちと、左様(さう)云ふ意見を発表したら好いぢやないかと勧めると、左様は行かないよと笑つてゐる。何故と聞き返しても答へない。しばらくして、そりや君の様に気楽に暮らせる身分なら随分云つて見せるが――何しろ食ふんだからね。どうせ真面目な商買ぢやないさ。と云つた。代助は、夫(それ)で結構だ、確(しつ)かり遣(や)り玉へと奨励した。すると寺尾は、いや些(ちつ)とも結構ぢやない。どうかして、真面目になりたいと思つてゐる。どうだ、君ちつと金を借して僕を真面目にする了見はないかと聞いた。いや、君が今の様な事をして、夫(それ)で真面目だと思ふ様になつたら、其時借してやらうと調戯(からか)つて、代助は表へ出た。
 本郷の通り迄来たが惓怠(アンニユイ)の感は依然として故(もと)の通りである。何処をどう歩いても物足りない。と云つて、人の宅(うち)を訪(たづ)ねる気はもう出ない。自分を検査して見ると、身体全体が、大きな胃病の様な心持がした。四丁目から又電車へ乗つて、今度は伝通院前迄来た。車中で揺られるたびに、五尺何寸かある大きな胃 嚢(ぶくろ)の中で、腐つたものが、波を打つ感じがあつた。三時過ぎにぼんやり宅(うち)へ帰つた。玄関で門野が、
「先刻(さつき)御宅から御使いでした。手紙は書斎の机の上に載せて置きました。受取は一寸(ちよつと)私が書いて渡して置きました」と云つた。

(青空文庫より)

◇評論
「代助は斯(か)う云ふ考で」の「斯(か)う云ふ考」とは、「自分の父と兄」に「いつ何んな事が起るまいものでもないとは常から考へて」おり、「もし八釜敷しい吟味をされたなら、両方共拘引に価する資格が出来はしまいかと迄疑つてゐた。それ程でなくつても、父と兄の財産が、彼等の脳力と手腕丈で、誰が見ても尤もと認める様に、作り上げられたとは肯はなかつた」。
「父と兄の如きは、此自己にのみ幸福なる偶然を、人為的に且政略的に、暖室を造つて、拵え上げたんだらうと代助は鑑定してゐた」、ということ。
世に不正はつきものであり、みな自分の利益だけを追求している。

「徒手(てぶら)で行くのが面白くないんで」以降の部分は、物語が停滞するので、読者は三千代と平岡のその後が気になる。代助が「日々(にち/\)読書に耽つて四五日過し」ている間の情勢や、「不思議な事に其後例の金の件に就いては、平岡からも三千代からも何とも云つて来なかつた」理由だ。「代助は心のうちに、あるひは三千代が又一人で返事を聞きに来る事もあるだらうと、実は心待ちに待つてゐ」という待ちの態勢だが、それで三千代は大丈夫なのだろうかと読者は案ずる。(ように書かれている)

「仕舞にアンニユイ(倦怠)を感じ出した」代助は、「何処か遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を捜して、芝居でも見やうと云ふ気を起した」。彼の思考は、少しでも金を稼ごうという方向には決して進まない。彼は無聊を芝居で慰めようとする高等遊民だ。

物語自体もやや停滞に入り、作者は新たな人物を登場させる。「森川丁にゐる寺尾といふ同窓の友達」だ。
〇寺尾の説明
・「学校を出ると、教師は厭だから文学を職業とすると云ひ出して、他のものゝ留めるにも拘らず、危険な商買をやり始めた」…作家=危険な商売
・「やり始めてから三年になるが、未だに名声も上がらず、窮々云つて原稿生活を持続してゐる」…売れない作家稼業にしがみついている
・「自分の関係のある雑誌に、何でも好いから書けと逼(せま)るので、代助は一度面白いものを寄草した事がある。それは一ヶ月の間雑誌屋の店頭に曝(さら)されたぎり、永久人間世界から何処かへ、運命の為めに持つて行かれて仕舞つた。それぎり代助は筆を執る事を御免蒙つた」…代助も著述をしたことがある
・「寺尾は逢ふたんびに、もつと書け書けと勧める。さうして、己(おれ)を見ろと云ふのが口癖であつた」…創作意欲が旺盛
・「けれども外の人に聞くと、寺尾ももう陥落するだらうと云ふ評判であつた」…世の評判は芳しくない
・「大変露西亜ものが好きで、ことに人が名前を知らない作家が好きで、なけなしの銭を工面しては新刊物ものを買ふのが道楽であつた」。「戦争は何時でもするが、日露戦争後の日本の様に往生しちや詰らんぢやないか。矢っ張り恐露病に罹つてる方が、卑怯でも安全だ、と答へて矢っ張り露西亜文学を鼓吹してゐた」……マニアックな道楽者なりの主張を持つ

「恐露病」…ロシアに対して劣等感や恐怖感を持つこと。当時の自然主義文学者の間に、ロシア文学に対する崇拝のはげしかったことをさしている。(角川文庫注釈)

寺尾は「今の日本の作家と評家を眼の玉の飛び出る程痛快に罵倒し始めた。代助はそれを面白く聞いてゐた。然し腹の中では、寺尾の事を誰も賞(ほ)めないので、其対抗運動として、自分の方では他(ひと)を貶(けな)すんだらうと思つた」。代助自身、批評家であるが、ここでは「同窓の友達」を冷静に見ている。
熱をもって批判していた寺尾だったが、代助が「ちと、左様(さう)云ふ意見を発表したら好いぢやないかと勧めると、左様は行かないよと笑つてゐる。何故と聞き返しても答へない。しばらくして、そりや君の様に気楽に暮らせる身分なら随分云つて見せるが――何しろ食ふんだからね。どうせ真面目な商買ぢやないさ。と云つた」。うちわでは激しい批判を述べるが、それをあらわに公表することは自粛する。そうやって寺尾はかろうじて文学界で生き延びているのだ。その様子を代助も、「夫(それ)で結構だ、確(しつ)かり遣(や)り玉へと奨励した」。
それで終わればいいものを、寺尾はまだ続ける。「寺尾は、いや些(ちつ)とも結構ぢやない。どうかして、真面目になりたいと思つてゐる。どうだ、君ちつと金を借して僕を真面目にする了見はないかと聞いた。いや、君が今の様な事をして、夫(それ)で真面目だと思ふ様になつたら、其時借してやらうと調戯(からか)つて、代助は表へ出た」。高邁な理想と、現実生活の乖離。生きるためには食わねばならぬ。今の仕事では早晩生きていけぬ。そのために友人にも金を借りることになる。寺尾は理想を求めつつ、その継続がかなわぬジレンマに陥っている。
寺尾の言う「真面目」の意味が不明瞭だ。文学者をやめて堅気になるという意味か。それともマニアックなものを捨てて、世に入れられ易い文学者になるという意味か。これに対する代助の、「君が今の様な事をして、夫(それ)で真面目だと思ふ様になつたら、其時借してやらう」も、代助が「真面目」をどの意味でとっているのかが不明瞭だ。表面的には寺尾の現在の文学活動は「不真面目」な態度であり、それを改める必要があると言っている。
寺尾がこの後、物語においてどのような役割を果たすのかが、読者は気になるところだ。

「一閑張(いっかんばり)」…漆器の一種。紙で貼ったものに漆を塗った製品。中国から寛永期(1624-1644)ごろ日本に帰化した飛来一閑(ひらいいっかん)の創始といわれる。(角川文庫注釈)

一閑張の机とくず入れ
(https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1998/00415/contents/034.htm より)

「帝国文学」…明治28年(1895)1月に創刊された東京帝国大学文科系の機関紙。大正9年(1920)1月で廃刊。(角川文庫注釈)

〇1円の価値 (昔の「1円」は今のいくら?明治・大正・昭和・現在、貨幣価値(お金の価値)の推移|気になるお金のアレコレ〜老後の資産形成・相続に向けて〜三菱UFJ信託銀行 (mufg.jp)より)
「1901年(明治34年)の企業物価指数は0.469、2019年(令和元年)は698.8です。つまりおよそ1,490倍の差があることがわかります。そのため1円は1,490円の価値があるといえます。
しかし、違うものさしで考えてみると1円の価値は変わってきます。当時の給料をもとにして考えてみましょう。明治時代は小学校の教員の初任給が1ヶ月で8~9円だったといわれています。現在の初任給はおよそ20万円程度であることを考えると、1円は2万円もの価値があったとも考えられます。
また、食べ物を例にして考えてみてもよいでしょう。明治元年、白米10kgの価格は55銭、円に換算すると0.55円といわれています。現在、全国の全銘柄平均の白米10kgの価格はおよそ2,618円なので、1円は4,760円程度の価値があるといえます。」

豪放な友人を訪ねても、「惓怠(アンニユイ)の感は依然として故(もと)の通りである」。代助は「物足りな」さを感じる。「身体全体が、大きな胃病の様な心持がした」。「車中で揺られるたびに、五尺何寸かある大きな胃 嚢(ぶくろ)の中で、腐つたものが、波を打つ感じがあつた。三時過ぎにぼんやり宅(うち)へ帰つた」。気分・心理の停滞・落ち込みは、体調にも影響する。疲労や自律神経の疲れは、胃の作用に悪影響を及ぼす。何かうまくいかない心・胸の痞(つか)え。

停滞の後には、物語に新たな展開があらわれる。
「先刻(さつき)御宅から御使いでした。手紙は書斎の机の上に載せて置きました」という門野の言葉により、それが導かれる。
代助の留守中に次の展開が仕込まれるという、とても上手な物語の作り方だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?