梶井基次郎「檸檬」を読む3

◇本文
 ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていたのだが――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取り残された。私はまたそこから彷徨(さまよ)い出なければならなかった。何かが私を追いたてる。そして街から街へ、先に言ったような裏通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立ち留(ど)まったり、乾物屋の乾蝦(ほしえび)や棒鱈(ぼうだら)や湯葉(ゆば)を眺めたり、とうとう私は二条の方へ寺町を下(さ)がり、そこの果物屋で足を留(と)めた。ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗(うるしぬ)りの板だったように思える。何か華やかな美しい音楽の快速調(アッレグロ)の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝(こ)り固まったというふうに果物は並んでいる。青物もやはり奥へゆけばゆくほど堆(うず)高く積まれている。――実際あそこの人参葉(にんじんば)の美しさなどは素晴しかった。それから水に漬(つ)けてある豆だとか慈姑(くわい)だとか。
 またそこの家の美しいのは夜だった。寺町通はいったいに賑(にぎや)かな通りで――と言って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが――飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。もともと片方は暗い二条通に接している街角になっているので、暗いのは当然であったが、その隣家が寺町通にある家にもかかわらず暗かったのが瞭然(はっきり)しない。しかしその家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思う。もう一つはその家の打ち出した廂(ひさし)なのだが、その廂が眼深(まぶか)に冠った帽子の廂のように――これは形容というよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げているぞ」と思わせるほどなので、廂の上はこれも真暗なのだ。そう周囲が真暗なため、店頭に点(つ)けられた幾つもの電燈が驟雨(しゅうう)のように浴びせかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。裸の電燈が細長い螺旋棒(らせんぼう)をきりきり眼の中へ刺し込んでくる往来に立って、また近所にある鎰屋(かぎや)の二階の硝子(ガラス)窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀(まれ)だった。

(青空文庫より)

◇評論
 この「私」が何者なのかが描かれないのだが、「友達が学校へ出て」いるということは、「私」も学生である可能性が高い。それなのになぜか彼は、友人が去った後の「空虚な空気のなかにぽつねんと一人取り残され」る。もし彼が学生だとすると、学校へ行くことを忌避する要因があることになる。彼は学校を避け、それでも「またそこから彷徨(さまよ)い出なければならな」いと感じる。「何かが私を追いたてる。そして街から街へ、先に言ったような裏通りを歩いたり~」というように、街中を「浮浪」するのだった。彼は自分に巣食う「えたいの知れない不吉な塊」を取り払うすべを探すため、街を放浪する。「駄菓子屋の前で立ち留(ど)まったり、乾物屋の乾蝦(ほしえび)や棒鱈(ぼうだら)や湯葉(ゆば)を眺めたり」して「私」は、「とうとう」「二条の方へ寺町を下(さ)がり、そこの果物屋で足を留(と)めた」。ここで彼は、運命の檸檬と出会うのだ。

 「ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが」からは、「私」が誰かに向かって話しかけている様子がうかがわれる。この手記の読み手の問題が、ここで生ずる。読み手が何者かは推測が難しいのだが、少なくとも手記の最終場面で読み手は、「私」の檸檬爆弾の共犯者となる。

 次に、「果物屋」が紹介される。そこは、「私の知っていた範囲で最も好きな店」である。「決して立派な店ではなかった」、「果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた」、「果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗(うるしぬ)りの板だった」、「何か華やかな美しい音楽の快速調(アッレグロ)の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝(こ)り固まったというふうに果物は並んでいる」、「青物もやはり奥へゆけばゆくほど堆(うず)高く積まれている」、等々。急勾配の台の上にうずたかく無理やり置かれた果物たち。「黒い漆塗(うるしぬ)りの」下地の板の上に、ごてごてした色彩と過剰な質感をもって果物が飾られている様子は、油絵のようだ。「色彩」や「ボリューム」が毒々しく目の中に飛び込んでくるのだろう。ひと言でいえば下品で悪趣味な陳列棚だ。しかしその「露骨」な「美しさ」が、ここでは「私」の心をとらえる。

 「それから水に漬(つ)けてある豆だとか慈姑(くわい)だとか。」
 この物語では、このように文の後半を省略する手法が多用される点に特徴がある。

 この部分までを読むと、地方の「市」の清浄さを除けば、通常であれば人を不快にさせるものたちに「私」の心が引かれている様子がうかがわれる。

 次は、「私」の心を引き寄せる「果物屋」の「美しい」「夜」の様子が描かれる。「そこの家の美しいのは夜だった」。「寺町通はいったいに賑(にぎや)かな通りで」「飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている」のだが「それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ」。「もともと片方は暗い二条通に接している街角になっているので、暗いのは当然であったが、その隣家が寺町通にある家にもかかわらず暗かったのが瞭然(はっきり)しない」。「しかしその」暗さゆえに、「私」は「誘惑」されたのだった。
 「その家の打ち出した廂(ひさし)」はまるで、「眼深(まぶか)に冠った帽子の廂のよう」で、「廂の上はこれも真暗なのだ」。このように、「周囲が真暗」なため、かえって「店頭に点(つ)けられた幾つもの電燈が驟雨(しゅうう)のように浴びせかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ」った。暗闇に浮かぶ怪しい果物屋。その不思議な魅力が、「私を興がらせ」る。「裸の電燈が細長い螺旋棒(らせんぼう)をきりきり眼の中へ刺し込んでくる」一方で、「近所にある鎰屋(かぎや)の二階の硝子(ガラス)窓をすかして眺めた」眺めも面白いのだ。

 毒々しい光。ごてごてと飾り付けられた果物。それは絵であって、もはや食べるものではないだろう。

 

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