夏目漱石「それから」本文と評論3-6

◇本文
 代助は一寸(ちよつと)話を已(や)めて、梅子(うめこ)の肩越(かたご)しに、窓掛(まどかけ)の間(あひだ)から、奇麗な空を透(す)かす様に見てゐた。遠くに大きな樹(き)が一本ある。薄茶色の芽を全体に吹いて、柔らかい梢の端が天(てん)に接(つゞ)く所は、糠雨(ぬかあめ)で暈(ぼか)されたかの如くに霞(かす)んでゐる。
「好(い)い気候になりましたね。何所(どこ)か御花見にでも行きませうか」
「行きませう。行くから仰(おつ)しやい」
「何を」
「御父さまから云はれた事を」
「云はれた事は色々あるんですが、秩序立てて繰り返すのは困るですよ。頭(あたま)が悪(わる)いんだから」
「まだ空(そら)つとぼけて居(ゐ)らつしやる。ちやんと知つてますよ」
「ぢや、伺ひませうか」
 梅子は少しつんとした。
「貴方(あなた)は近頃余つ程減らず口が達者におなりね」
「何、姉(ねえ)さんが辟易する程ぢやない。――時に今日は大変静かですね。どうしました、小供達は」
「小供は学校です」
 十六七の小間使(こまづか)ひが戸を開けて顔を出した。あの、旦那様が、奥様に一寸(ちよつと)電話口迄と取り次いだなり、黙つて梅子の返事を待つてゐる。梅子はすぐ立つた。代助も立つた。つゞいて客間を出やうとすると、梅子は振り向いた。
「あなたは、其所(そこ)に居(ゐ)らつしやい。少し話しがあるから」
 代助には嫂のかう云ふ命令的の言葉が何時(いつ)でも面白く感ぜられる。御緩(ごゆつ)くりと見送つた儘、又腰を掛けて、再び例の画を眺め出した。しばらくすると、其色が壁の上に塗り付けてあるのでなくつて、自分の眼球(めだま)の中から飛び出して、壁の上へ行つて、べた/\喰つ付く様に見えて来た。仕舞には眼球から色を出す具合一つで、向ふにある人物樹木が、此方(こちら)の思ひ通りに変化出来る様になつた。代助はかくして、下手な個所々々を悉く塗り更(か)へて、とう/\自分の想像し得る限りの尤も美くしい色彩に包囲されて、恍惚と坐つてゐた。所へ梅子が帰つて来たので、忽ち当り前の自分に戻つて仕舞つた。
 梅子の用事と云ふのを改まつて聞いて見ると、又例の縁談の事であつた。代助は学校を卒業する前から、梅子の御蔭で写真実物色々な細君の候補者に接した。けれども、何(いづ)れも不合格者ばかりであつた。始めのうちは体裁の好(い)い逃げ口上で断わつてゐたが、二年程前からは、急に図迂(づう)々々しくなつて、屹度相手にけちを付ける。口と顎(あご)の角度が悪いとか、眼の長さが顔の幅に比例しないとか、耳の位置が間違つてるとか、必ず妙な非難を持つて来る。それが悉く尋常な言草(いひぐさ)でないので、仕舞には梅子も少々考へ出した。是は必竟世話を焼き過ぎるから、付け上つて、人を困らせるのだらう。当分 打遣(うつちや)つて置いて、向ふから頼み出させるに若しくはない。と決心して、夫からは縁談の事をついぞ口にしなくなつた。所が本人は一向困つた様子もなく、依然として海のものとも、山のものとも見当が付かない態度で今日迄暮して来た。
 其所(そこ)へ親爺(おやぢ)が甚だ因念の深いある候補者を見付けて、旅行先から帰つた。梅子は代助の来る二三日前に、其話を親爺から聞かされたので、今日の会談は必ずそれだらうと推したのである。然し代助は実際老人から結婚問題に付いては、此日(このひ)何にも聞かなかつたのである。老人は或はそれを披露する気で、呼んだのかも知れないが、代助の態度を見て、もう少し控えて置く方が得策だといふ了見を起した結果、故意(わざ)と話題を避けたとも取れる。
 此候補者に対して代助は一種特殊な関係を有(も)つてゐた。候補者の姓は知つてゐる。けれど名は知らない。年齢、容貌、教育、性質に至つては全く知らない。何故(なぜ)その女が候補者に立つたと云ふ因念になると又能く知つて居る。

(青空文庫より)

◇評論
 父親の外出後に嫂と会話している場面の続き。義父と義弟の不仲を心配する嫂は、代助に、それとなく働くことを勧める。嫂との会話により、仕事をしていないことに関しては、自分も門野も大差ないことに代助は思い至る。

 代助は一寸(ちよつと)話を已(や)めて、梅子(うめこ)の肩越(かたご)しに、窓掛(まどかけ)の間(あひだ)から、奇麗な空を透(す)かす様に見てゐた。遠くに大きな樹(き)が一本ある。薄茶色の芽を全体に吹いて、柔らかい梢の端が天(てん)に接(つゞ)く所は、糠雨(ぬかあめ)で暈(ぼか)されたかの如くに霞(かす)んでゐる。

 働くという現実世界との接触に、代助は気が進まない。気の置けない梅子との会話にその話題が上ったことから、代助は、精神的な逃避行動に出る。梅子を見ずに、その向こう側にある「奇麗な空」を眺めることで、鬱屈を解消しようとする。またこの部分は、代助の心を和ませるもの・目的物や記憶を表しているだろう。

「好(い)い気候になりましたね。何所(どこ)か御花見にでも行きませうか」
「行きませう。行くから仰(おつ)しやい」
「何を」
「御父さまから云はれた事を」
「云はれた事は色々あるんですが、秩序立てて繰り返すのは困るですよ。頭(あたま)が悪(わる)いんだから」

 気候と花見の話でごまかそうとする義弟を、梅子は「行くから仰(おつ)しやい」と逃がさない。「何を」ととぼけ続けようとする代助に、「御父さまから云はれた事を」と畳みかける。代助はとうとう、自分は愚だからそう詰め寄られても困ると自虐するしかなくなる。嫂の鋭い追及を前に、代助はほうほうの体だ。「困るですよ」という舌足らずな言い方や、「頭(あたま)が悪(わる)いんだから」という言い訳は、嫂には通用しない。鋭く追及する嫂と、それを何とかすり抜けようとする代助。このあたりのやり取りは、とても面白い。嫂の発言が、述部が先で主部が後に述べられる倒置法になっている。また、発言が短いところから、嫂の男性的な様子がうかがわれる。一方これを代助は許しているともいえる。ざっくばらんな関係の二人なのだ。

「まだ空(そら)つとぼけて居(ゐ)らつしやる。ちやんと知つてますよ」
「ぢや、伺ひませうか」
 梅子は少しつんとした。
「貴方(あなた)は近頃余つ程減らず口が達者におなりね」
「何、姉(ねえ)さんが辟易する程ぢやない。――時に今日は大変静かですね。どうしました、小供達は」
「小供は学校です」

 あくまでも「とぼけ」ようとする義弟に対し、自分は事情を「ちやんと知つてます」と言う嫂。普通であれはこのセリフで降参し、父親との会話の内容を白状するところだが、代助は「ぢや、伺ひませうか」と、秘密の暴露を無関係の嫂に迫る。これはやってはいけないことだ。相手に対し、「知っているなら言ってみろ」と喧嘩を仕掛けているともとれる言葉だからだ。だから嫂は、「少しつんとした」のだ。二人の関係だから、嫂の怒りは「少し」で止まった。
 嫂の「貴方(あなた)は近頃余つ程減らず口が達者におなりね」という皮肉に対し、代助は「何、姉(ねえ)さんが辟易する程ぢやない」と意地悪な悪口で返す。このセリフこそまさに、「減らず口」であり、普通ならあきれるところだ。ここでの嫂の表情は描かれないが、彼女は怒っているはずだ。ここでの代助は、やや悪ふざけが過ぎる。
 代助は、「――時に今日は大変静かですね。どうしました、小供達は」と、再び話題を変えようとする。これは、嫂の怒りを感じたからかもしれない。「小供は学校です」と、短く他人行儀な表現で答える嫂だった。

 十六七の小間使(こまづか)ひが戸を開けて顔を出した。あの、旦那様が、奥様に一寸(ちよつと)電話口迄と取り次いだなり、黙つて梅子の返事を待つてゐる。梅子はすぐ立つた。代助も立つた。つゞいて客間を出やうとすると、梅子は振り向いた。
「あなたは、其所(そこ)に居(ゐ)らつしやい。少し話しがあるから」
 代助には嫂のかう云ふ命令的の言葉が何時(いつ)でも面白く感ぜられる。御緩(ごゆつ)くりと見送つた儘、又腰を掛けて、再び例の画を眺め出した。

 二人の対決が水入りとなった場面。これ以上二人の会話が続くと、本格的な喧嘩になりかねなかった。ちょうど良い時にこの小間使いは顔を出したのだ。
 しかし嫂はまだ納得していない。親子の会話の内容を聞き、自分の意見を義弟に伝えなければならない。だから嫂は「其所(そこ)に居(ゐ)らつしやい。少し話しがあるから」と代助に留まるよう指示する。代助は素直に嫂の指示に従う。しかし彼は心の中で「嫂のかう云ふ命令的の言葉」を「面白」いと感じている。嫂の態度は真率だ。それに対し代助は面白がっている。まじめな人とふざけている人の会話は、なかなか成立しにくい。「御緩(ごゆつ)くり」はふざけた嫌味だ。
 とにかく嫂は退場し、後に代助が残る。代助の心はまた、美的世界へと旅立つ。

 しばらくすると、其色が壁の上に塗り付けてあるのでなくつて、自分の眼球(めだま)の中から飛び出して、壁の上へ行つて、べた/\喰つ付く様に見えて来た。仕舞には眼球から色を出す具合一つで、向ふにある人物樹木が、此方(こちら)の思ひ通りに変化出来る様になつた。代助はかくして、下手な個所々々を悉く塗り更(か)へて、とう/\自分の想像し得る限りの尤も美くしい色彩に包囲されて、恍惚と坐つてゐた。所へ梅子が帰つて来たので、忽ち当り前の自分に戻つて仕舞つた。

 美的世界に逍遥する代助の様子。ただそれはいささか特徴的だ。欄間に描かれた絵の色が、「自分の眼球(めだま)の中から飛び出して、壁の上へ行つて、べた/\喰つ付く様に見えて来た」。目で色を付け絵を描く様子。これはすぐ後に述べられる、「眼球から色を出す具合」とほぼ同じ意味だろう。見ただけで目のチューブから自在に様々な色を壁面に彩色することができる。既に付いている色を、イメージで簡単に変化させることができる。とても豊かな想像力の持ち主だ。ただそれがあまりにもアバンギャルドに行われるため、常人には理解しがたい。代助は、精神に狂いが出ているのではないかと疑われるほどだ。美的世界へ没入することのできる人が代助だった。まるでモニターの絵の色を、視線というタッチペンで簡単に変化させているようだ。「向ふにある人物樹木が、此方(こちら)の思ひ通りに変化出来る様になつた」とは、色彩だけでなく、構図まで変化させている様子だろう。
 代助は、「尤も美くしい色彩に包囲されて、恍惚と」なる。この時の自分が、自分本来の姿だという満足感に浸っている。
 しかしその幸福はいつまでもは続かない。「所へ梅子が帰つて来たので、忽ち当り前の自分に戻つて仕舞つた」。代助にとっては、「当り前の自分」の方が嘘の自分だろう。

 「梅子の用事」は、「又例の縁談の事であつた」。代助は大学卒業前から「梅子の御蔭で写真実物色々な細君の候補者に接した」。気の早い嫂だ。代助にとって、「何(いづ)れも不合格者ばかりであつた」。代助は「必ず妙な非難を持つて来る」。「それが悉く尋常な言草(いひぐさ)でないので、仕舞には梅子も少々考へ」、「夫からは縁談の事をついぞ口にしなくなつた」。「所が本人は一向困つた様子も」ない。早く結婚させたい嫂と、それに全く興味を示さない義弟。実は代助が結婚しないのには理由があった。アルバムの中にしまわれた写真の女・三千代の存在である。

 次の場面は、嫂との会話から明らかになった情報がまとめて述べられる。
・「親爺(おやぢ)が甚だ因念の深いある候補者を見付けて、旅行先から帰つた」。
・「梅子は代助の来る二三日前に、其話を親爺から聞かされた」
・だから、「今日の会談は必ずそれだらうと推したのである」。
・「然し代助は実際老人から結婚問題に付いては、此日(このひ)何にも聞かなかつた」
・「老人は或はそれを披露する気で、呼んだのかも知れないが、代助の態度を見て、もう少し控えて置く方が得策だといふ了見を起した結果、故意(わざ)と話題を避けたとも取れる」。
 まとめると、父親が旅行に出かけたのは、仕事か何かの用事があったためか、それとも代助の結婚の話をまとめるためにわざわざ出かけたのかははっきりしないが、とにかく相手は「甚だ因念の深いある候補者」のようだ。事前にその話を聞かされていた嫂は、今日の代助の来訪は、当然その話だろうと推測していた。しかしそれは代助の相変わらずの態度からまったく話題に上らなかった。ということだ。

 「此候補者に対して代助は」、「甚だ因念の深い」、「一種特殊な関係を有(も)つてゐた」。「候補者の姓は知つてゐる」が、「名は知らない」。「年齢、容貌、教育、性質に至つては全く知らない」のに、「何故(なぜ)その女が候補者に立つたと云ふ因念になると又能く知つて居る」。
 まとめると、
・候補者について知っていること…深い因縁、姓
・知らないこと…名、年齢、容貌、教育、性質
 ということになる。つまり、相手との因縁以外はほとんど何も知らないのだ。
 そのような相手がいるのだろうかという疑念を読者は持ち、次話への期待は高まるだろう。

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