森鷗外「舞姫」(本文・口語訳・評論)23~彼の頭(かしら)は我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははら/\と肩の上に落ちぬ

◇本文
 嗚呼(ああ)、独逸に来し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の糸は解くに由なし。先にこれを繰りしは、我が某(なにがし)省の官長にて、今はこの糸、あなあはれ、天方伯の手中に在り。余が大臣の一行と倶(とも)にベルリンに帰りしは、恰(あたか)も是れ新年の旦(あした)なりき。停車場に別を告げて、我家をさして車を駆(か)りつ。こゝにては今も除夜に眠らず、元旦に眠るが習なれば、万戸寂然たり。寒さは強く、路上の雪は稜角ある氷片となりて、晴れたる日に映じ、きら/\と輝けり。車はクロステル街に曲りて、家の入口に駐(とゞ)まりぬ。この時窓を開く音せしが、車よりは見えず。馭丁(ぎよてい)に「カバン」持たせて梯(はしご)を登らんとする程に、エリスの梯を駈け下るに逢ひぬ。彼が一声叫びて我 頸(うなじ)を抱きしを見て馭丁は呆れたる面もちにて、何やらむ髭(ひげ)の内にて云ひしが聞えず。「善くぞ帰り来玉ひし。帰り来玉はずば我命は絶えなんを。」
 我心はこの時までも定まらず、故郷を憶(おも)ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、唯だ此一 刹那(せつな)、低徊踟蹰(ていくわいちちう)の思は去りて、余は彼を抱き、彼の頭(かしら)は我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははら/\と肩の上に落ちぬ。

(青空文庫より)

◇口語訳
 ああ、ドイツに来た当初、自らの本領を悟ったと思い、また、器械的人物にはなるまいと誓ったが、これは足を縛られて放たれた鳥が、すこしの間羽を動かし自由を手に入れたと得意になったのと同じではないか。足の糸はほどくすべがない。以前これを操っていたのは、我が某省の官長で、今この糸は、ああ何ということだ、天方伯の手中にある。私が大臣の一行とともにベルリンに帰ったのは、ちょうど新年の翌朝であった。停車場に別れを告げ、我が家を目指して馬車を走らせた。ここでは今も除夜には眠らず、元旦に寝る習慣なので、すべての家々はひっそりとしていた。寒さは強く、路上の雪は鋭く尖った氷片となって、晴れた日差しにきらきらと輝いていた。馬車はクロステル街に曲がり、家の入口に留まった。この時窓を開く音がしたが、馬車からは見えなかった。御者にカバンを持たせて階段を上ろうとした時、階段を駆け下りるエリスに出会った。彼女が一声叫んで私の首を抱いたのを見て御者は呆れた表情で、何やら髭の中でつぶやいたが聞こえない。
 「よくぞお帰りなさった。もしお帰りにならなければ、私の命はきっと絶えてしまったでしょう」
 私の心はこの時もまだ決まっておらず、故郷を思う気持ちと栄達を求める心とは、時として愛情を圧倒しようとしたが、ただこの一瞬、迷いは消え、私は彼女を抱き、彼女の頭は私の肩に寄り、彼女の喜びの涙ははらはらと肩の上に落ちた。

◇評論
 「嗚呼(ああ)」とか、「あなあはれ」とかいう嘆息の言葉が繰り返されるが、太田には、嘆く前にすることがあったはずだ。「弱き心」の「本領」発揮。他者による操作・束縛を、自力で解くことができない、自分で考え自分の足で立つことができない太田。太田は傀儡(くぐつ・操り人形)であり、それを操っているのは、官長や天方伯という、公に日本を代表し担う人たちだ。そのことを述べる時の太田はひどく嘆く様子を記述するが、実はそれらに操られている点において、太田は抵抗していない。むしろ、心の底では喜んで操られているふりをしていると言ってもいいだろう。太田の「弱き心」は狡猾だ。彼には、自分の思う方向に導いてくれる人がおり、それに抗えないと嘆きながらも、結局操られるままに動く。すべてを他者のせいにし、自分で自分の責任を負うことができない男なのだ。他者にこう促されたが、自分は弱くてそれに抵抗できず、いやいやながらこうなってしまった、という言い訳は見苦しい。「我家」には、エリスが待っている。彼女のお腹には、新しい命の灯が微かに燃えている。

 「余が大臣の一行と倶(とも)にベルリンに帰りしは、恰(あたか)も是れ新年の旦(あした)なりき」というからには、ロシアでクリスマスや年末を過ごしたことになる。その雰囲気は、外交の場面での活躍の高揚とともに、太田の心を浮き立たせただろう。

 エリスは新年の朝の寒さもものともせずに窓を開け、太田の到着を確認する。彼女は太田の帰りを、今か今かと一晩中寝ずに待っていたのだ。そして、身籠っていることも顧みずに階段を駆け下りる。まるで映画の一シーンのような、エリスの太田への愛の深さが強く感じられる場面だ。
 一心に太田を目指すエリスには、御者の姿は目に入らない。それに対して太田は、エリスの行動に呆れる御者の様子が気になっている。ここにふたりの心の隔絶が感じられる。
 また、このことは、次の部分にはっきりと表れる。エリスの、「善くぞ帰り来玉ひし。帰り来玉はずば我命は絶えなんを」という真情の訴えに対し、太田は「我心はこの時までも定まらず」という、肩すかしのような感想を述べる。もしこの言葉をエリスが聞いたら、驚きで精神状態に狂いが出てしまうだろう。エリスの心は既に決まっている。であるならば、太田も決断しなければならない。いつまでも判断保留は許されない。しかも既に子供までいるのだから。

 エリスの、「善くぞ帰り来玉ひし。帰り来玉はずば我命は絶えなんを」という言葉には、太田に対する彼女の恐れがあらわれている。太田が自分を捨てて、天方伯側へと移ってしまうのではないかという不安。彼女はそれに、うすうす感づいている。

 太田は、自分の心情・考えを告げず、相談もせず、すべてを一時保留の形にしながら、相沢と天方大臣にはエリスと別れて帰国することを即座に約束してしまう。そしてその理由を、自分の「弱き心」に帰してしまう。太田のこの様子は、傍から見れば、結局相沢側に付きたかっただけではないかと捉えられるし、「弱き心」という理由付けも、まったくもって卑怯な言い訳としか受け取れない。太田はせめて、自分の今後をどうしようかについて迷っているのだということを、エリスに告げるべきだった。「我心はこの時までも定まらず、故郷を憶(おも)ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせし」と、言うべきだった。プライドか何か知らないが、太田にはその選択肢がはなからない。太田はそれを避けたのだ。

 「唯だ此一 刹那(せつな)、低徊踟蹰(ていくわいちちう)の思は去りて、余は彼を抱き、彼の頭(かしら)は我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははら/\と肩の上に落ちぬ」
 一抹の不安を抱きながらも、自分のもとに帰って来てくれた愛しい人。しかもその人は、自分を抱いてくれた。そうであるならば、太田は自分とこの子を愛し、ともに人生を歩もうとしてくれているに違いない。そう自分に信じ込ませたエリスからは、「喜びの涙」があふれる。太田のエリスへの中途半端な優しさは、余計に彼女を不幸にする。

 もしここでふたりに真のコミュニケーションが成立していれば、エリスが廃人となるという絶対的な破綻・絶望的な悲劇には至らなかったかもしれない。

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