絲山秋子「ベル・エポック」を読む3(最終回)~みちかの「小さな恋のメロディ」

2時50分に引っ越し屋が二人で登場する。
「鮮やか!」に、「手際よく」「たちまち」「手品のように」「うそみたい」に、すべての荷物は「運び出されていった」。
みちかと誠の大切な思い出も「たちまち消え失せ」る運命にある。
そして、みちか自身も。
さまざまなものであふれていた部屋の荷物が無くなると、その部屋で過ごした自分の思い出も一緒に消え去ってしまったようで、心も空っぽになる気がする。
引越しを経験した人であれば、この寂寥感や空虚感は、誰もが経験することだろう。
みちかの場合は、さらに強い感情で満たされているはずだ。彼女は、すべてを捨て去ろうとしている。部屋にあったものばかりでなく、誠のことも、その思い出も、全部だ。だから彼女は最後に、「玄関から部屋を振り返」る。思い出が詰まった部屋との別れだけではなく、思い出すべてとの別れだからだ。

次のふたりの会話は、どちらがみちかで「私」なのかが分からない。わざとそのように書かれている。

「背の高い方の人、誰かに似てなかった?」
「えーと誰だっけあの人、出てこない」
「……江口洋介?」
「ええー全然似てないよー」
「じゃあ誰かなあ」

?、ー、……などの記号がたくさん出てくる。いかにも若い女性らしい雰囲気と内容の会話が、やっとここで交わされる。だからここは、セリフの主が誰でもいいのだ。

雑巾をかけ終えた部屋は、「まるで今まで誰も住んだことがないみたいになった」。
みちかの人生も、ゼロ・振り出しに戻ったのだ。

管理人に部屋の確認をしてもらった後、みちかは「この部屋、気に入ってたんだよね。風通しよくてさ」と言う。「私」は、「みちかちゃんの匂いも、誠さんの匂いも、ゆっくりこの部屋から抜けて空に昇っていくんだろう」と思う。

今、突然気が付いたのだが、「空に昇っていくんだろう」というのはとても不吉な表現だ。誠は既に空に昇っていった。みちかもその後を追うということか。その文脈での読み取りも確かに可能だ。みちかは本当に、どこに「昇っていくんだろう」か。(後に、「新しい暮らしの最初の段ボール箱」が出てくるので、すぐに死へと向かうことは無いだろうが)

みちかと誠のふたりが暮らした思い出の詰まった部屋は、いま、空っぽになってしまった。誠は既にいない。ふたりの思い出もやがて消えていく。
どんなに「いい部屋」であっても、ひとりでは「広すぎる」。ふたりだから、ちょうどいいのだ。

部屋の片づけを済ませ、古い「雑巾をゴミ袋に放り込んで」、ふたりは「手を洗」う。「放り込む」という表現が、いかにも捨て去る感じが出ている。なお、新しい雑巾は、段ボールの中に入れてある。

ベル・エポックのババロアが、みちかと「私」の最後の晩餐。それを自分の中に飲み込むというのは、とても象徴的だ。「良き時代」はもう終ろうとしている。みちかはそれを消化し、これからを生きていかなければならない。

みちかはとても「丁寧に紅茶をいれる」。皿の梱包の場面でもそうだったが、家事が上手な子。それに対して「私」は、紅茶の濃さが一定でなく、雑な人だ。みちかの紅茶は、「香りも味もいい」。誠もそれをおいしく飲んだことだろう。

ふたりはあぐらをかいて座る。誠がいないから、みちかはそのようにできるのだ。女性ふたりのざっくばらんな様子。
また、妊婦が床に直に座るには、あぐらがいいとされる。

ふたりは「いつまでも、最後のひとすくいを残してしゃべった」。別れが「名残惜し」く、つらいのだ。
しかし「私にみちかちゃんを引き止める権利はない」。みちかちゃんは、実家に帰るのだ。と、この時の「私」は思っている。

「物がなくなった部屋ではやけに声が響いた」。ふたりの声を吸収するものがないからだ。だからここでのふたりの会話は、思い出として残らない。積み重ならない。固い壁とフローリングによって、感傷ははじき返されてしまう。

「私」の、「名残惜しいね」に対し、みちかは「でも、行かなくちゃね」と言葉を発し、「私に笑いかけ」る。「それで、私たちは」「立ち上がった」。みちかの言葉と笑顔をきっかけ・促しとして、ふたりは動作を始めたのだ。これは、誰も知らないところへの旅立ちを、みちかは自分で考え、行動に移したことを表す。

次に、「ポットに残ったお茶の葉を捨てた」とあるから、みちかはポットで紅茶を入れたことが分かる。引越しで忙しい時に、わざわざポットを用いたのは、「私」との最後の晩餐であったことと、みちかの「丁寧」さや家事へのこだわりを表しているだろう。誠は惜しいことをしたものだ。

10月に会社帰りの駅で、突然心筋梗塞で亡くなる34歳。その予兆はなかったのか。自分にできることはなかったのか。もし生活習慣が発症の原因であったとすれば、健康管理に改善の余地があったかもしれない。
誠と一緒に住んでいたみちかは、そのように自分を責めただろう。

「急性心筋梗塞」
生活習慣病(高血圧症、糖尿病、高脂血症、肥満)のある方、喫煙やストレスの影響が心筋梗塞発症のリスクを高めます。また遺伝的素因等も認められる為、血縁のかたで心筋梗塞既往がある場合はリスクが高くなります。
(急性心筋梗塞|国立循環器病研究センター冠疾患科 (ncvc.go.jp) より)

お茶の葉を捨てた後、カップ、ポット、スプーン、やかんを洗い、「みちかちゃんはきちんと拭いてから一つだけ残してあった段ボールに入れた」。
これは、みちか自身の車に乗せて運ぶ、最後の荷物となる。みちかは、「車とってくるから、と言って部屋を出」る。

その「段ボールを何気なくのぞくとそれはカーテンの箱だった。さっきしまった食器の他に、タオルと、新しい雑巾とトイレットペーパーが一巻入っていた」。「私」は「はっとして箱のフタを閉じた」。そうして、「みちかちゃんは実家には帰らない」と察する。
最後に残された段ボールの中身は、さまざまな種類のものが仕分けされずに入っており、しかもそれが、明らかに「新しい暮らしの最初の段ボール箱」だったからだ。実家に帰るのであれば、トイレットペーパーの用意は要らない。カーテンは、女性が新しい部屋に入居して、一番に掛けるものだろう。新しい雑巾で、新しい部屋を掃除する。食器類は、新居ですぐに使うものばかりだ。
一目見ただけで、みちかは実家に帰るのではなく、どこか別の新しい場所・部屋へと旅立つのだと見抜いた慧眼も鋭いが、しかしどこかしら不自然なものを、それまでに「私」は感じていたのではないか。先ほどの秘密の場所の会話などから。

「最後の段ボール箱」が、「最初の段ボール箱」になるアイロニー。
「みちかちゃんはゴミ袋を持って玄関から部屋を振り返った」。
忘れ物の確認の体だが、誠との思い出との決別だ。

「三月のきりのいいところで辞めて、田舎に帰ると言う」みちかの噓を、「いかにも頼りなげな裏切り」と、「私」は定義する。エンジンがかかった車から流れるのは、ブランキー・ジェット・シティの「小さな恋のメロディ」。「こんなやるせない曲を聴きながら、みちかちゃんは私の知らないどこかへ行こうとしている」。

ブランキー・ジェット・シティの「小さな恋のメロディ」の歌詞を紹介する。

「行くあてはないけど ここにはいたくない
 イライラしてくるぜ あの街ときたら
 幸せになるのさ 誰も知らない 知らないやりかたで」
「行くあてはないけど ここにはいたくない
 イライラしてくるぜ あの街ときたら
 黒革のコート 裂けたポケットに詰め込んだ 愛は蒸発したのさ」

まるでこれを元として、この物語を作ったかのような歌だ。

誠との愛は「蒸発」して、どこかに消えていった。
「ポケット」の中に「詰め込んだ」はずの思い出も、突然ポケットが「裂け」てしまい、どこかに落ちて行ってしまった。
誠との愛の住処(すみか)、愛の街だったはずの場所は、突然その姿を変えてしまった。
ほんとうにイライラしてくる。
だからもう「ここにはいたくない」。「行くあてはないけど」。
自分は「誰も知らない」新しい場所で、「誰も知らないやり方で」、「幸せになる」。
「やるせない曲」が、みちかの嘘を確信させる。

みちかが戻ってくる。
「ほんとにありがと」。
別れと旅立ちの場面にしては、フランクであり、ふだん「丁寧」なみちかの最後の別れの言葉としては雑である。本来であれば、省略せずに、「今まで、ほんとうに、ありがとう」と言う場面だ。最後は湿っぽくならないようにするための、みちかの配慮だろう。
なお、このセリフには①「今日は引っ越しを手伝ってくれて」と、②「今まで」の、二つの意味が含まれている。

みちかのフランクな別れの言葉に対し、「私」もそれに倣って、「後ろ、閉めちゃうよ」と言う。「このドアを閉めたら、もうこれでお別れね」という意味だ。

この後に、みちかの車の話題が続き、「あいつの趣味」と「私はもっと小さい車がよかった」と、ここでも誠とみちかの趣味・性格の違いが述べられる。
また、車の運転技術に関しても、「私、あいつよりうまかったかも」と比較される。車の趣味も運転能力も違うふたり。泣き虫な誠と泣かないみちか。「外面」とは全く違う内面を持つ誠との結婚生活は、どうなっただろう。

なお、ここで初めて「私」は、「みちかちゃん」と呼びかける。「みちかちゃんって運転、得意なの?」と尋ねる場面だ。みちかに、はたして運転は可能なのかという気持ちからの問いだが、みちかは「私、あいつよりうまかったかも」と、意外な答えを返す。
日本語は主語が省略されることが多いが、みちかとの最後の別れの場面であり、また、みちかはこれからどこに行ってしまうのだろうという心配する気持ちから、その名を呼んだのだろう。
「私」は地の文で「みちかちゃん」と呼び続けているので気が付きにくいのだが、ここにはそのような意味がある。

いよいよ最後の場面。
(みちか)「典ちゃん、連絡するからね、絶対遊びに来てね」
みちかが「私」の名を「典ちゃん」と呼ぶのは2回目だ。
前に、部屋の話題になった時に、「典ちゃんは、猫みたいに狭いとこが好きだもんね」と呼んでいた。
このことの意味は、最後の場面でことさらに名で呼ぶ必要性があったということだ。友人だと思っていた人への最後の呼びかけと最後の嘘。みちかは、もう二度と「典ちゃん」と呼びかけることはないし、「連絡することもない」。だから、「私」が「遊びに」行くことは、「絶対」ないのだ。

逆にみちかの方も、「私」が三重に来ることは決してないと分かっている。それにも関わらず、「遊びに来てね」とむなしい言葉を向けるみちかの心は、淋しいものだったろう。むなしい言葉だが、それをかけざるを得ないのは、自分に無関心な「私」に対して、その程度の復讐は許されると思ったからだ。自分がいない「秘密の場所」に立つ「私」の姿を想像することで、せめてもの心やりにするみちか。

このように、ふたりは最後の場面で互いの名を呼びあう。読者には、まるで相手の名を確認するように呼んでいるように聞こえる。もう再会することは決してないふたりの呼び合いが悲しい。

みちかの「絶対遊びに来てね」の返事が、「私」の、「うん、おいしい水、一緒に飲もうね」だった。みちかとの再会はないことを十分にわかった上でのこのセリフは、嘘に嘘で返したことになるが、しかしこれは、「私」からみちかへの、最後のはなむけの言葉だったのではないだろうか。自分は何も知らぬ・気づいていないふりをすることで、みちかを快く送り出すことができる。みちかの旅立ちを祝福することができる。そう、「私」は思ったのだろう。自分はだまされたままでいい。それが、自分とみちかの別れにふさわしいと。
ここに至って「私」は、やっと気づいたのだ。いままでみちかの孤独や悲しみを、自分は真には理解し寄り添ってあげていなかった。自分がみちかをどう考えていたかや、それをみちかはどう受け止めていたかに、気づくことができなかった。ずいぶん心無い扱いを、みちかにしていた。それを全く自覚していなかった。

だからみちかは復讐するのだ。
これまでの時間を取り戻すために。
見知らぬ場所でお腹の子供と新しい生活を始めるために。

まだ結婚していないみちかと誠は、みちかの妊娠が、親になかなか言い出せなかった可能性がある。そして誠の突然の死。困ったみちかだったが、誰にも知らせず、お腹の中の子とともに生きていこうと決意する。
もうすぐ臨月だ。その前に保育士をやめ、住処(すみか)を移し、誰も知らない場所で新しい生活を始めようと考えた。
誠の親とも縁が切れる。誠との思い出も、やがて消えていく。いつまでも死んだ人を思ってめそめそするわけにもいかない。であるならば、誠も誠の思い出にも、区切りをつけよう。この子のためにも、誠の思い出は葬り、心機一転、誰も知らぬ街で頑張って生きてみよう。
そのようにみちかは考えたのではないだろうか。

死んだ婚約相手の子。
しかも結婚前の妊娠の事実を、実家にも義父母にも知らせていない。
たとえ、知らせていたとしても、そのような子を産むことは、かなりの迷いや困難を伴うだろう。
その子を産むことに対する他者からの反対意見も考えられる。
だからみちかは誰にも知らせず、誰も知らない場所に行こうとする。
これからは、自分とこの子とふたりで生きて行こう。
過去からの旅立ちだ。

みちかにこの決心をさせたのは、お腹の子だろう。
その子がいたから、みちかは決意することができた。
みちかひとりでは、決断できなかった。

みちかと「私」は、真の友人にはなりえなかった。ふたりのすれ違いが、引っ越しの会話からあらわになった。その意味では、みちかは、「私」と一緒に引っ越しの作業をすることで、「私」とのさよならの儀式をしたともいえる。引越し業者を二人頼んである。だから、引っ越しの作業は、自分一人で行ってもよかった。

なぜみちかは友人であるはずの「私」に真実を告げないのか?
それは、友人への裏切りではないか?

みちかはすべて捨てるのだ。
トラックで送った荷物は、おそらく新居先ですべて捨ててしまうだろう。「あいつの趣味」の車も、買い替える。
誰も知らない新しい場所に向かうみちか。
指輪も、「私」と別れた後、車窓から放り投げるだろう。
先に外してしまうと、誠からの決別を「私」に悟られてしまう。だから今日は、「私」の手前つけていた。

みちかは、すべての過去を捨てる決心をした。
それは、自分の故郷・親をも捨てることになる。
たったひとりでみちかはどこに向かうのか。
みちかに幸あれと、私たちは願う。

〇あとがき
婚約者の死後、表面的には実家に帰るふりをして、みんなの知らない新しい場所へ向かおうとするみちか。この物語を読んで、私には、その納得できる動機付け・理由が、どうしても見当たらなかった。
①実家に帰っても何の問題もない。(「わたし」からは「都落ち」と蔑まれるが)
②「新しいところで、もう一度いちから始めようと思うんだ」、と周囲の人に伝えても、何の問題もない。
この①、②であれば、周囲の者は、「次の場所で、頑張ってね」と、快くみちかを送り出すことができる。また、みちか自身、その励ましは、次の場所で再出発するモチベーションになっただろう。つまり、みちかの再出発が祝福されるのだ。
それなのに、なぜみちかは嘘までついて、姿をくらまそうとするのか。
その答えが、「みちか妊娠説」だった。
自分でも荒唐無稽だと思われるが、これくらいしか理由付けができない。
実際にみちかはふっくらとしており、みぞおちに感じる何かがある。

お腹の子供のことは、誰にも言えない。
だから、誰も知らない場所で、「ふたり」で生きていこう。
そう、みちかは決意したのではないだろうか。

〇あとがき(その2)
「私」は、みちかとの出会いと別れを振り返り、このお話を語っている。
自分とみちかとの交流の過程や、別れの場面でなぜ互いに嘘を付き合わなければならなかったのか。その過去に、認識の光を当てようとしている。
そうであるならば、みちかに嘘をつかせずに別れる方法はなかったのかと自問すべきだ。「私」には、その態度がない。そこが、この物語の不満なところだ。たとえ自分に変えることはできなかったとしても、せめてあの時ああすればよかったと方策を模索したり、みちかとともに悩むことができなかったことを後悔したりする場面が欲しい。つまり、この物語を通した「私」の成長があまりみられないのだ。
たとえば、最後の一文は次のように物語を締めくくる。
「手を振って、青いワゴン車が遠ざかるのを見送りながら、きっとみちかちゃんは携帯の番号さえも変えてしまうのだろうと思った。」
ここからは、みちかが去ったことへの諦念だけがうかがわれる。
そうして実際、このお話を語る現在の時点で、みちかの携帯の番号はもう、変わってしまっているだろう。

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