森鷗外「舞姫」(本文・口語訳・評論)11~嗚呼、何等の悪因ぞ。少女は、我読書の窓下に、一輪の名花を咲かせてけり。

◇本文
 嗚呼、何等の悪因ぞ。この恩を謝せんとて、自ら我 僑居(けうきよ)に来(こ)し少女は、シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日(ひねもす)兀坐(こつざ)する我読書の窓下(さうか)に、一輪の名花を咲かせてけり。この時を始として、余と少女との交(まじは)り漸く繁くなりもて行きて、同郷人にさへ知られぬれば、彼等は速了(そくれう)にも、余を以(も)て色を舞姫の群に漁(ぎよ)するものとしたり。われ等 二人(ふたり)の間にはまだ痴騃(ちがい)なる歓楽のみ存したりしを。
 その名を斥(さ)さんは憚(はゞか)りあれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余がしば/\芝居に出入して、女優と交るといふことを、官長の許(もと)に報じつ。さらぬだに余が頗(すこぶ)る学問の岐路(きろ)に走るを知りて憎み思ひし官長は、遂に旨を公使館に伝へて、我官を免じ、我職を解いたり。公使がこの命を伝ふる時余に謂(い)ひしは、御身(おんみ)若し即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、若し猶こゝに在らんには、公の助をば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我生涯にて尤(もつと)も悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某(なにがし)が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書(ふみ)なりき。余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り来て筆の運(はこ)びを妨ぐればなり。

(青空文庫より)

◇口語訳
 ああ、何という悪因だ。この恩に感謝しようと、自分から私の下宿を訪れた少女は、ショーペンハウエルを右に置き、シルレルを左に置いて、一日中じっと座り読書する私の部屋の窓辺に、一輪の美しい花を咲かせてしまった。この時を初めとして、私と少女との交際は次第に頻繁になっていき、同郷人にまで知られたので、彼らは早合点にも、私を、ダンサーの中から遊び相手を漁ったと判断した。私たち二人には、まだ子供っぽい楽しさしかなかったのに。
 その名をはっきり言うのははばかられるが、同郷人の中に事件を好む者がいて、私がしばしば劇場に出入りしバレリーナと交際するということを、官長のもとに報告した。それでなくとも私が極端に学問の枝葉末節に向かうのを知り憎く思っていた官長は、とうとうその情報を公使館に伝え、私を罷免し、解職した。公使が解雇命令を伝える時に私に言ったことは、「もしあなたがすぐに日本に帰るならば旅費を支給するが、まだここにとどまるのであれば、公費による支援を望んではいけない」ということだった。私は一週間の猶予を願い出て、どうしようとあれこれ思い悩むうちに、私の生涯において私に最も悲痛を覚えさせた二通の手紙を受け取った。この二通はほとんど同時に出されたものだが、一通は母の自筆で、もう一通はある親族が、母の死を、私がこの上なく慕う母の死を知らせる手紙だった。私は手紙に書かれた母の言葉をここに記述することに堪えられない、(なぜかというと)涙があふれてきて(この後)筆記できなくなるからだ。

◇評論
 「嗚呼、何等の悪因ぞ。この恩を謝せんとて、自ら我 僑居(けうきよ)に来(こ)し少女は、シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日(ひねもす)兀坐(こつざ)する我読書の窓下(さうか)に、一輪の名花を咲かせてけり。」
 ここを読むたびに、「悪因」という語と、「一輪の名花」という語が、このように近いところに用いられていることに違和感を覚える。エリスは「あだ花」だった。彼女の真剣な恋愛は、子を儲けたにもかかわらず、儚(はかな)く散る。
 「てけり」という語句は、単なる完了や過去の意味ではなく、「~してしまった」という意味を表す。従ってここは、「嗚呼、何等の悪因ぞ」と呼応して「一輪の名花を咲かせてけり」で結び、エリスという「一輪の花」・「悪因」が、自分の世界に入り込んできてしまったことへの嘆息を、太田は漏らしている。
 この場面を想像してみる。
 東洋人である太田の下宿に、16、7歳のエリスが一人でやってくる。亡き父の葬儀代を肩代わりしてくれたお礼のためだ。太田は彼女を自分の部屋に招き入れる。9歳ほどの年齢差があるが、自分の身体を求めずに援助してくれた外国人に、エリスの気持ちは高まっただろう。それは太田も同じこと。エリスの可憐な美しさと自分への好意を感じ、太田も嫌な気持ちであるはずがない。せっかく来たのだから、少し休んでいきなさいと太田が言い、エリスは窓のそばに座る。出会いの場面から互いに好感を持っていたふたりは、雑談する過程で、相手の身の上を知ることになる。やがて会話は途切れ、太田は読書を始める。それをエリスは微笑みながら静かに眺める。
 読書をする太田。その隣で静かにたたずむエリス。ふたりは初めから、もう何年も交際していたかのようだ。

 「この時を始として、余と少女との交(まじは)り漸く繁くなりもて行きて、同郷人にさへ知られぬれば、彼等は速了(そくれう)にも、余を以(も)て色を舞姫の群に漁(ぎよ)するものとしたり。われ等 二人(ふたり)の間にはまだ痴騃(ちがい)なる歓楽のみ存したりしを。」
 太田の心はひと目見た時からエリスに完全に射抜かれている。そうでなければ、いかにかわいそうな少女だからといって、高価な時計を彼女に与えたりはしないだろう。まだ女性と交際した経験がない太田には、エリスが初恋の相手だったのだ。だから心の高揚とともに、エリスを助け、彼女に近づきたいと思っていたはずだ。つまり、太田の心の奥底には、エリスと親しい関係になりたいという気持ちはあった。しかし初めからそのような態度に出ることははばかられる。従って太田は、紳士を気取るのだ。「色を舞姫の群に漁(ぎよ)するもの」というのは確かに言い過ぎだが、太田の心には、「痴騃(ちがい)なる歓楽」だけでは済まされない熱い思いがあったはずだ。恋愛経験がない太田は、この後、エリスとの交際を手探りしながら進めることになる。 
 つまり太田がエリスを助けたのは、慈善活動ではないということだ。そこには確かに恋愛感情があった。同郷人たちの噂話は、あながち間違いだとは言い切れない。誇張されてはいるが、太田が恋に落ちていることは事実だからだ。25歳の男である。目の前にいる好感を持つ少女を抱きしめたいと思わない方がおかしい。

 「その名を斥(さ)さんは憚(はゞか)りあれど」は、太田は今、同郷人側の立場・立ち位置にいることを表す。

 「さらぬだに余が頗る学問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、遂に旨を公使館に伝へて、我官を免じ、我職を解いたり。」
 ここの「旨」は、一つは太田が「学問の岐路に走」り、上司である自分の言うことを聞かない反抗的な態度であることと、もう一つはバレリーナなどという卑賎な職の女と交際している不品行ということ。官長はこれ幸いと、太田を解雇してしまう。上司への反抗と、同僚たちとの付き合いの悪さから、太田は解雇されてしまった。留学先での日本人社会の狭さや人間関係の難しさが表れた形だ。気に入らぬ者は排除されてしまうのだ。
 これは一方で、当時の社会では、バレリーナとの交際が職を失う要因となったことを表している。芸能は、職も身分も低く見られていたのだった。

 「公使がこの命を伝ふる時余に謂(い)ひしは、御身(おんみ)若し即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、若し猶こゝに在らんには、公の助をば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我生涯にて尤(もつと)も悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某(なにがし)が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書(ふみ)なりき。」
 この部分の構造を整理する。
 太田への解雇宣告の場面で、今回の件を反省してすぐに帰国するのであれば交通費は国が持つが、ドイツにとどまるという勝手なことをするのであればあとは面倒を見ない、と、公使は太田に伝える。太田は一週間の判断猶予を願い出て許され、どうしようと思いあぐねているちょうどその時に、二通の手紙が日本から届く。一通は母の自筆で、もう一通は母の死を知らせる手紙だった。太田はこの手紙について、「我生涯にて尤(もつと)も悲痛を覚えさせたる」や、「我がまたなく慕ふ母の死」と説明する。
 わずか一週間で帰国するか否かを決断しなければならない。この時の太田の心には、既にエリスが存在している。帰国は初恋の相手との別れを意味する。それは惜しい。しかしここベルリンにとどまる理由もない。エリートコースからは外れ、近代日本の建国を担うという役割も失ってしまった。しかし、ダンサーとの交際による解雇という汚名を負ったまま帰国しても、日本でどう母親に顔向けができようか……。これらのことをあれこれ思い悩んでいた太田だった。
 「とやかうと思ひ煩ふうち」に届いた「二通の書状」は、「我」に、「生涯にて尤(もつと)も悲痛を覚えさせ」た。母とは青雲の志を胸に別れたはずだった。その母の期待を今自分は完全に裏切ってしまっている。母への申し訳がまったく立たない状態だ。父亡き後、親ひとり子ひとりだった自分を勇気づけ、大学まで卒業させてくれた母。息子をドイツ留学に出し、老境を日本でたった一人過ごしていた母。太田が、「我がまたなく慕ふ母」と述べ、また、「生涯にて尤(もつと)も悲痛を覚えさせ」たと述べるのも、共感できる。

 「この二通は殆ど同時にいだしゝもの」からは、「母の自筆」の手紙と、「母の死を報じたる書(ふみ)」がほとんど同時に書かれたものであることがうかがわれ、その両者ともに、太田を涙させるものだったということだ。

 「余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り来て筆の運(はこ)びを妨ぐればなり。」
 ここからは、やはりこの手記は、誰かに向けて書かれたものであることが分かる。日記のように、未来の自分にあてた手紙ではない。また、誰ともわからぬこの手記の読者に対し、太田は、母親の死因を隠している。隠すには理由があるはずだ。
 セイゴンの港の船上で、当時を思い出して手記を綴る太田。今、その目には、涙が浮かんでいるだろう。

 ところで、母の自筆の手紙の内容を想像すると、異国の地で活躍する息子への応援の言葉、帰国を待ち一人で頑張っている様子、などが考えられる。老いた母をひとり残してドイツにいる太田には、その期待を裏切ってしまったことをつらく感じる文言だっただろう。また、そのような母が何かの理由で亡くなったことに対しては、母の希望をかなえられずに終わってしまった自分の不甲斐なさに、太田は自責の念でいっぱいになっただろう。

 これに対し、母の手紙には、解職された息子を責める言葉が綴られていたとする考えがある。官吏の解雇がいつ広報に載ったのかや、母にどう伝えられたのか、また当時、日本からドイツに手紙が届けられるために必要な時間(数日では届かなかっただろう)、などから、これを疑問視する意見もある。ただ、これらの現実・時間的余裕を考慮に入れないとすると、物語としてはそのような読み方も可能かとは思う。
 この考え方をさらに発展させると、夢や希望を失った母は、自殺してしまったと考えることもできる。しかし、もしこうであるならば、太田は、すぐに帰国したのではないか。そうしなかったということは、そのような状況ではなかったと考えるのがよいだろう。

 もう一度、「我生涯にて尤(もつと)も悲痛を覚えさせたる二通の書状」について考えたい。
 この部分の「覚えさせたる」という表現についてだが、細かく見ていくと、「覚え」「させ」「たる」=「覚えさせた」(感じさせた)という使役の形になっている。「二通の書状」が太田に、「生涯にて尤(もつと)も」なる「悲痛を覚えさせ」たのだ。ここを読むと、まるで太田は、「二通の書状」によって、「悲痛」を感じさせられたという受け身・受動の立場であるかのように読める。ここはふつうは、「覚えたる」にならないか。二通の手紙によって悲痛がもたらされたかのように読めるのだ。他者の働きかけによって感じる悲痛。それをそれまで自分では感じていなかった、と読める。古文ではこのような表現が用いられるのだが、なにか引っ掛かりを感じる。

 太田は、母の死によって天涯孤独の身となる。また、官吏の職も解かれている。その二つの意味で、彼が日本に帰る理由はなくなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?