夏目漱石「それから」2-4
◇評論
「酒の勢で変な議論をしたものだから、肝心の一身上の話はまだ少しも発展せずにゐる」
代助の最大の関心事は平岡の「一身上の話」だ。
そうして、やっと、代助の思惑通り、「思ふあたりへ談柄(だんぺい)が落ちた」。
平岡の京阪生活の説明が始まる。
・「赴任の当時」は「事務見習のため、地方の経済状況取調のため、大分忙がしく働らいて見た。出来得るならば、学理的に実地の応用を研究しやうと思つた位であつたが、地位が夫程高くないので、已を得ず、自分の計画は計画として未来の試験用に頭の中に入れて置いた」。
大学を出て1年経過し京阪支店へ赴任した青年の意気込みが感じられる。「未来の試験」が何を意味するかが不明だが、昇進や転職の試験か、大学に戻り研究する位置を占めるための試験か。
・「始めのうちは色々支店長に建策した事もあるが、支店長は冷然として、何時(いつ)も取り合はなかつた。六(む)づかしい理窟抔を持ち出すと甚だ御機嫌が悪い。青二才に何が分るものかと云ふ様な風をする。其癖自分は実際何も分つて居ないらしい」。
支店長にしてみれば、まだ勤務1年目の東京の言葉を話す生意気な奴と感じられただろう。また、これまでのやり方を変えること自体、手間がかかり労力のいることなので、平岡の意見を取り入れることには消極的なのだろう。通常業務に忙しい支店長にとって、「理屈」を振り回されるのは迷惑だ。
・「平岡から見ると、其相手にしない所が、相手にするに足らないからではなくつて、寧ろ相手にするのが怖いからの様に思はれた。其所(そこ)に平岡の癪はあつた。衝突しかけた事も一度や二度ではない」。
まだ若い平岡は、大学で学んだことを実地に応用することができないかと考えており、それに取り合わないばかりか、ただ恐れという感情で自分が遠ざけられてしまうことへの不満があった。平岡は支店長に、自分を一人前の社会人として認めてほしかったのだ。自分は恐れの対象などではなく、その意見を取り上げるべきは取り上げ、ダメなものはダメだと言ってほしかったのだろう。平岡は、当たり前のコミュニケーションを、支店長に望んだのだ。彼の希望は、「青二才」の傲慢な意見を通すことにあるのではなく、ちゃんと自分を「相手に」して欲しかった。平岡はただのプライドの高い男ではない。
やがて平岡に変化が訪れる。
・「けれども、時日(じじつ)を経過するに従つて、肝癪が何時(いつ)となく薄らいできて、次第に自分の頭が、周囲の空気と融和する様になつた。又成るべくは、融和する様に力(つと)めた」。
次第に角が取れてまるくなっていくのだった。
・「それにつれて、支店長の自分に対する態度も段々変つて来た。時々は向ふから相談をかける事さへある。すると学校を出でたての平岡でないから、先方(むかふ)に解らない、且つ都合のわるいことは成るべく云はない様にして置く」。
平岡の変化に伴い、支店長の態度も穏やかなものとなる。するとさらに平岡は、支店長への気遣いを見せる。ただそれは、「無暗に御世辞を使つたり、胡麻を摺るのとは違ふ」という態度だった。
ここまでの平岡の態度とその変化は、世によくあるものだろう。まだ世の中のことをよく知らない若者が自説を強く主張してもなかなか相手にされることはない。世渡りのコツを平岡は学んでいったのだ。その方が角が立たず、スムーズに事が運ぶ。
・支店長と平岡は、次第に懇意になっていく。支店長は平岡の「未来の事に就て、色々心配してくれた。近いうちに本店に帰る番に中(あた)つてゐるから、其時は一所に来給へ抔(など)と冗談半分に約束迄した」。
現在だけでなく、今後も一緒に力をあわせて働こうという意思の表れ。支店長は平岡の能力を認め、自分の下でこれからも働いてほしいと思っているという「約束」。
・「其頃は事務にも慣れるし、信用も厚くなるし、交際も殖えるし、勉強をする暇が自然となくなつて、又勉強が却つて実務の妨げをする様に感ぜられて来た」。
はじめは学問と実地の融合を図ろうとしていた平岡だったが、次第にその情熱が冷めてきたということ。勤務地での人間関係も拡大し、実務に多忙になる平岡。
これに続く平岡の説明は要領を得ず、そこにごまかしや嘘が感じられる。
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