夏目漱石「それから」2-4

割引あり

◇本文
 両人(ふたり)は酔つて、戸外(おもて)へ出た。酒の勢で変な議論をしたものだから、肝心の一身上の話はまだ少しも発展せずにゐる。
「少し歩かないか」と代助が誘つた。平岡も口程忙しくはないと見えて、生返事をしながら、一所に歩(ほ)を運んで来た。通りを曲つて横町へ出て、成る可く、話の為好(しい)い閑(しづ)かな場所を撰んで行くうちに、何時(いつ)か緒口(いとくち)が付いて、思ふあたりへ談柄(だんぺい)が落ちた。
 平岡の云ふ所によると、赴任の当時彼は事務見習のため、地方の経済状況取調のため、大分忙がしく働らいて見た。出来得るならば、学理的に実地の応用を研究しやうと思つた位であつたが、地位が夫程高くないので、已を得ず、自分の計画は計画として未来の試験用に頭の中に入れて置いた。尤も始めのうちは色々支店長に建策した事もあるが、支店長は冷然として、何時(いつ)も取り合はなかつた。六(む)づかしい理窟抔を持ち出すと甚だ御機嫌が悪い。青二才に何が分るものかと云ふ様な風をする。其癖自分は実際何も分つて居ないらしい。平岡から見ると、其相手にしない所が、相手にするに足らないからではなくつて、寧ろ相手にするのが怖いからの様に思はれた。其所(そこ)に平岡の癪はあつた。衝突しかけた事も一度や二度ではない。
 けれども、時日(じじつ)を経過するに従つて、肝癪が何時(いつ)となく薄らいできて、次第に自分の頭が、周囲の空気と融和する様になつた。又成るべくは、融和する様に力(つと)めた。それにつれて、支店長の自分に対する態度も段々変つて来た。時々は向ふから相談をかける事さへある。すると学校を出でたての平岡でないから、先方(むかふ)に解らない、且つ都合のわるいことは成るべく云はない様にして置く。
「無暗に御世辞を使つたり、胡麻を摺(す)るのとは違ふが」と平岡はわざ/\断つた。代助は真面目な顔をして、「そりや無論さうだらう」と答へた。
 支店長は平岡の未来の事に就て、色々心配してくれた。近いうちに本店に帰る番に中(あた)つてゐるから、其時は一所に来給へ抔(など)と冗談半分に約束迄した。其頃は事務にも慣れるし、信用も厚くなるし、交際も殖えるし、勉強をする暇が自然となくなつて、又勉強が却つて実務の妨げをする様に感ぜられて来た。
 支店長が、自分に万事を打ち明ける如く、自分は自分の部下の関といふ男を信任して、色々と相談相手にして居つた。所が此男がある芸妓と関係(かゝ)りあつて、何時(いつ)の間にか会計に穴を明けた。それが曝露(ばくろ)したので、本人は無論解雇しなければならないが、ある事情からして、放つて置くと、支店長に迄多少の煩(わづら)ひが及んで来さうだつたから、其所(そこ)で自分が責を引いて辞職を申し出た。
 平岡の語る所は、ざつと斯うであるが、代助には彼が支店長から因果を含められて、所決を促がされた様にも聞えた。それは平岡の話しの末に「会社員なんてものは、上になればなる程旨い事が出来るものでね。実は関なんて、あれつ許(ばかり)の金を使ひ込んで、すぐ免職になるのは気の毒な位なものさ」といふ句があつたのから推したのである。
「ぢや支店長は一番旨い事をしてゐる訳だね」と代助が聞いた。
「或はそんなものかも知れない」と平岡は言葉を濁して仕舞つた。
「それで其男の使ひ込んだ金は何(ど)うした」
「千(せん)に足らない金だつたから、僕が出して置いた」
「よく有つたね。君も大分旨い事をしたと見える」
 平岡は苦(にが)い顔をして、ぢろりと代助を見た。
「旨い事をしたと仮定しても、皆な使つて仕舞つてゐる。生活(くらし)にさへ足りない位だ。其金は借りたんだよ」
「さうか」と代助は落ち付き払つて受けた。代助は何(ど)んな時でも平生の調子を失はない男である。さうして其調子には低く明(あき)らかなうちに一種の丸味(まるみ)が出てゐる。
「支店長から借りて埋めて置いた」
「何故(なぜ)支店長がぢかに其関とか何とか云ふ男に貸して遣(や)らないのかな」
 平岡は何とも答へなかつた。代助も押しては聞かなかつた。二人は無言の儘しばらくの間並んで歩いて行つた。

(青空文庫より)

◇評論
 「酒の勢で変な議論をしたものだから、肝心の一身上の話はまだ少しも発展せずにゐる」
 代助の最大の関心事は平岡の「一身上の話」だ。
 そうして、やっと、代助の思惑通り、「思ふあたりへ談柄(だんぺい)が落ちた」。

 平岡の京阪生活の説明が始まる。
・「赴任の当時」は「事務見習のため、地方の経済状況取調のため、大分忙がしく働らいて見た。出来得るならば、学理的に実地の応用を研究しやうと思つた位であつたが、地位が夫程高くないので、已を得ず、自分の計画は計画として未来の試験用に頭の中に入れて置いた」。
 大学を出て1年経過し京阪支店へ赴任した青年の意気込みが感じられる。「未来の試験」が何を意味するかが不明だが、昇進や転職の試験か、大学に戻り研究する位置を占めるための試験か。
・「始めのうちは色々支店長に建策した事もあるが、支店長は冷然として、何時(いつ)も取り合はなかつた。六(む)づかしい理窟抔を持ち出すと甚だ御機嫌が悪い。青二才に何が分るものかと云ふ様な風をする。其癖自分は実際何も分つて居ないらしい」。
 支店長にしてみれば、まだ勤務1年目の東京の言葉を話す生意気な奴と感じられただろう。また、これまでのやり方を変えること自体、手間がかかり労力のいることなので、平岡の意見を取り入れることには消極的なのだろう。通常業務に忙しい支店長にとって、「理屈」を振り回されるのは迷惑だ。
・「平岡から見ると、其相手にしない所が、相手にするに足らないからではなくつて、寧ろ相手にするのが怖いからの様に思はれた。其所(そこ)に平岡の癪はあつた。衝突しかけた事も一度や二度ではない」。
 まだ若い平岡は、大学で学んだことを実地に応用することができないかと考えており、それに取り合わないばかりか、ただ恐れという感情で自分が遠ざけられてしまうことへの不満があった。平岡は支店長に、自分を一人前の社会人として認めてほしかったのだ。自分は恐れの対象などではなく、その意見を取り上げるべきは取り上げ、ダメなものはダメだと言ってほしかったのだろう。平岡は、当たり前のコミュニケーションを、支店長に望んだのだ。彼の希望は、「青二才」の傲慢な意見を通すことにあるのではなく、ちゃんと自分を「相手に」して欲しかった。平岡はただのプライドの高い男ではない。

 やがて平岡に変化が訪れる。
・「けれども、時日(じじつ)を経過するに従つて、肝癪が何時(いつ)となく薄らいできて、次第に自分の頭が、周囲の空気と融和する様になつた。又成るべくは、融和する様に力(つと)めた」。
 次第に角が取れてまるくなっていくのだった。
・「それにつれて、支店長の自分に対する態度も段々変つて来た。時々は向ふから相談をかける事さへある。すると学校を出でたての平岡でないから、先方(むかふ)に解らない、且つ都合のわるいことは成るべく云はない様にして置く」。
 平岡の変化に伴い、支店長の態度も穏やかなものとなる。するとさらに平岡は、支店長への気遣いを見せる。ただそれは、「無暗に御世辞を使つたり、胡麻を摺るのとは違ふ」という態度だった。
 ここまでの平岡の態度とその変化は、世によくあるものだろう。まだ世の中のことをよく知らない若者が自説を強く主張してもなかなか相手にされることはない。世渡りのコツを平岡は学んでいったのだ。その方が角が立たず、スムーズに事が運ぶ。

・支店長と平岡は、次第に懇意になっていく。支店長は平岡の「未来の事に就て、色々心配してくれた。近いうちに本店に帰る番に中(あた)つてゐるから、其時は一所に来給へ抔(など)と冗談半分に約束迄した」。
 現在だけでなく、今後も一緒に力をあわせて働こうという意思の表れ。支店長は平岡の能力を認め、自分の下でこれからも働いてほしいと思っているという「約束」。
・「其頃は事務にも慣れるし、信用も厚くなるし、交際も殖えるし、勉強をする暇が自然となくなつて、又勉強が却つて実務の妨げをする様に感ぜられて来た」。
 はじめは学問と実地の融合を図ろうとしていた平岡だったが、次第にその情熱が冷めてきたということ。勤務地での人間関係も拡大し、実務に多忙になる平岡。

 これに続く平岡の説明は要領を得ず、そこにごまかしや嘘が感じられる。

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