夏目漱石「それから」本文と評論3-7

◇本文
 代助の父には一人の兄があつた。直記(なほき)と云つて、父とはたつた一つ違ひの年上だが、父よりは小柄なうへに、顔付眼鼻立が非常に似てゐたものだから、知らない人には往々双子と間違へられた。其折は父も得(とく)とは云はなかつた。誠之進といふ幼名で通(とほ)つてゐた。
 直記と誠之進とは外貌のよく似てゐた如く、気質(きだて)も本当の兄弟であつた。両方に差支のあるときは特別、都合さへ付けば、同じ所に食(く)つ付き合つて、同じ事をして暮してゐた。稽古も同時同刻に往き返りをする。読書にも一つ燈火(ともしび)を分つた位親しかつた。
 丁度直記の十八の秋であつた。ある時二人は城下外れの等覚寺といふ寺へ親の使に行つた。これは藩主の菩提寺で、そこにゐる楚水といふ坊さんが、二人の親とは昵近(じつこん)なので、用の手紙を、此楚水さんに渡しに行つたのである。用は囲碁の招待か何かで返事にも及ばない程簡略なものであつたが、楚水さんに留(と)められて、色々話してゐるうちに遅くなつて、日の暮れる一時間程前に漸く寺を出た。その日は何か祭のある折で、市中(しちう)は大分雑沓してゐた。二人は群集のなかを急いで帰る拍子に、ある横町を曲らうとする角で、川向ひの方限(ほうぎり)の某(なにがし)といふものに突き当つた。此某と二人とは、かねてから仲が悪かつた。其時某は大分酒気を帯びてゐたと見えて、二言三言いひ争ふうちに刀を抜いて、いきなり斬り付けた。斬り付けられた方は兄であつた。已を得ず是も腰の物を抜いて立ち向つたが、相手は平生から極めて評判のわるい乱暴もの丈あつて、酩酊してゐるにも拘はらず、強かつた。黙つてゐれば兄の方が負ける。そこで弟も刀を抜いた。さうして二人で滅茶苦茶に相手を斬り殺して仕舞つた。
 其頃の習慣として、侍が侍を殺せば、殺した方が切腹をしなければならない。兄弟は其覚悟で家へ帰つて来た。父も二人を並べて置いて順々に自分で介錯をする気であつた。所が母が生憎祭で知己(ちかづき)の家へ呼ばれて留守である。父は二人に切腹をさせる前、もう一遍母に逢(あ)はしてやりたいと云ふ人情から、すぐ母を迎にやつた。さうして母の来る間、二人に訓戒を加へたり、或は切腹する座敷の用意をさせたり可成愚図々々してゐた。
 母の客に行つてゐた所は、その遠縁にあたる高木といふ勢力家であつたので、大変都合が好(よ)かつた。と云ふのは、其頃は世の中の動き掛けた当時で、侍の掟(おきて)も昔の様には厳重に行はれなかつた。殊更殺された相手は評判の悪い無頼の青年であつた。ので高木は母とともに長井の家へ来て、何分の沙汰が公向(おもてむき)からある迄は、当分其儘にして、手を着けずに置くやうにと、父を諭(さと)した。
 高木はそれから奔走を始めた。さうして第一に家老を説き付けた。それから家老を通して藩主を説き付けた。殺された某の親は又、存外訳の解(わか)つた人で、平生から倅(せがれ)の行跡(ぎやうせき)の良くないのを苦に病んでゐたのみならず、斬り付けた当時も、此方(こつち)から狼藉をしかけたと同然であるといふ事が明瞭になつたので、兄弟を寛大に処分する運動に就ては別段の苦情を持ち出さなかつた。兄弟はしばらく一間(ひとま)の内(うち)に閉ぢ籠つて、謹慎の意を表して後、二人とも人知れず家を捨てた。
 三年の後兄は京都で浪士に殺された。四年目に天下が明治となつた。又五六年してから、誠之進は両親を国元から東京へ呼び寄せた。さうして妻を迎へて、得(とく)といふ一字名(な)になつた。其時は自分の命を助けてくれた高木はもう死んで、養子の代になつてゐた。東京へ出て仕官の方法でも講じたらと思つて色々勧めて見たが応じなかつた。此養子に子供が二人あつて、男の方は京都へ出て同志社へ這入(はい)つた。其所(そこ)を卒業してから、長らく亜米利加に居つたさうだが、今では神戸で実業に従事して、相当の資産家になつてゐる。女の方は県下の多額納税者の所へ嫁に行つた。代助の細君の候補者といふのは此多額納税者の娘である。
「大変込み入つてるのね。私驚ろいちまつた」と嫂が代助に云つた。
「御父さんから何返も聞いてるぢやありませんか」
「だつて、何時(いつ)もは御嫁の話が出ないから、好い加減に聞いてるのよ」
「佐川にそんな娘があつたのかな。僕も些(ちつ)とも知らなかつた」
「御貰ひなさいよ」
「賛成なんですか」
「賛成ですとも。因念つきぢやありませんか」
「先祖の拵らえた因念よりも、まだ自分の拵えた因念で貰ふ方が貰ひ好(い)い様だな」
「おや、左様(そん)なのがあるの」
 代助は苦笑して答へなかつた。

(青空文庫より)

◇評論
 因縁のある相手の素性が明かされる。
 「代助の父には一人の兄」がおり、「直記(なほき)と云つて、父とはたつた一つ違ひの年上」。「父よりは小柄なうへに、顔付眼鼻立が非常に似てゐたものだから、知らない人には往々双子と間違へられた」。
 父の幼名は誠之進。
 「直記と誠之進とは外貌」も「気質(きだて)も本当の兄弟であつた」。ふたりは「同じ所に食(く)つ付き合つて、同じ事をして暮してゐた。稽古も同時同刻に往き返りをする。読書にも一つ燈火(ともしび)を分つた位親しかつた」。

 この後の情報をまとめる。
・直記が十八の秋に、兄弟で「城下外れの等覚寺といふ寺へ親の使に行」った帰りのこと。その日は祭があり、市中は大分雑沓しており、「群集のなかを急いで帰る拍子に、ある横町を曲らうとする角で、川向ひの方限(ほうぎり)の某(なにがし)といふものに」ぶつかってしまった。「此某と二人とは、かねてから仲が悪かつた。其時某は大分酒気を帯びてゐたと見えて、二言三言いひ争ふうちに刀を抜いて、いきなり斬り付けた」。「さうして二人で滅茶苦茶に相手を斬り殺して仕舞つた」。
 「其頃の習慣として、侍が侍を殺せば、殺した方が切腹をしなければなら」なかったが、母の「遠縁にあたる高木といふ勢力家」の「奔走」により、「寛大」な「処分」が下され、兄弟ともに切腹は免れた。「兄弟はしばらく一間(ひとま)の内(うち)に閉ぢ籠つて、謹慎の意を表して後、二人とも人知れず家を捨てた」。
 「三年の後兄は京都で浪士に殺された。四年目に天下が明治となつた。又五六年してから、誠之進は両親を国元から東京へ呼び寄せた。さうして妻を迎へて、得(とく)といふ一字名(な)になつた。其時は自分の命を助けてくれた高木はもう死んで、養子の代になつてゐた」。「此養子に子供が二人あつて」、「女の方は県下の多額納税者の所へ嫁に行つた。代助の細君の候補者といふのは此多額納税者の娘である」。
 この「因縁」に対し嫂が、「大変込み入つてるのね。私驚ろいちまつた」と代助に言ったのも肯ける。
 代助の縁談の相手は、父を切腹から助けてくれた恩人のひ孫にあたる。得にとっては命の恩人の血筋のものであるが、代助にとってはだいぶ遠い「因縁」の相手だ。「多額納税者の娘」という要素の持つ意味は、この後明らかになる。

「佐川にそんな娘があつたのかな。僕も些(ちつ)とも知らなかつた」
「御貰ひなさいよ」
「賛成なんですか」
「賛成ですとも。因念つきぢやありませんか」
「先祖の拵らえた因念よりも、まだ自分の拵えた因念で貰ふ方が貰ひ好(い)い様だな」
「おや、左様(そん)なのがあるの」
 代助は苦笑して答へなかつた。

 代助に早く身を固めてほしいと考えている嫂は、「因念つき」を理由に結婚を勧める。その流れで代助は思わず「自分の拵えた因念で貰ふ方が貰ひ好(い)い」と漏らす。嫂の、「おや、左様(そん)なのがあるの」という問いかけに「代助は苦笑して答へなかつた」のは、その相手が人妻の三千代だからだ。なお、この場面は、代助自身無意識のうちに思わず「自分の拵えた因念」と言ってしまった感がある。自分に因縁があるとすれば、それは三千代しかいない。そのことにこの時改めて気づかされたのだ。だからこの「苦笑」は、嫂に対して答えづらいという意味と、自分には三千代への執心がまだあったのだという気付きが含まれている。まさか自分の口からそのような言葉が出てくるとは、代助自身思ってもみなかったのだ。

 徐々に情報が明かされる手法は、読者の興味をそそる。ふたりの会話から、相手の名字が「佐川」と知ることができるなど、巧みな構成になっている。漱石の作品が、推理小説・探偵小説と評されるゆえんだ。 

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