安部公房「鞄」を読む2

青年は鞄に視線を落としたまま語り続ける。その内容がまた、妙なのだ。
「私」には「大きすぎる」と思われる鞄だが、青年は、自分の「体力とバランスが取れすぎている」と言う。妙なことを言う青年だ。まず、「私」の問いは、「なぜ半年も前の求人広告に、いまさら応募する気になったのか」だ。その答えが「この鞄のせいでしょうね」というのがそもそもおかしい。また、鞄の説明として、自分の「体力とバランスが取れすぎている」というのも妙だ。「体力とバランスが取れている」ならまだわかる。「取れすぎている」が妙だ。何を言おうとしているのかが、初読者にはわからない。やがてこの「すぎている」の意味は、「だから手放せない」し、その過剰によって青年は支配されているという意味だと判明する。

「ただ歩いている分には、楽に運べる」が、「ちょっとでも急な坂だとか階段のある道にさしかかると、もう駄目」。「おかげで、運ぶことのできる道が、おのずから制約されてしまう」。
「ちょっとでも急な坂だとか階段のある道にさしかかると、もう駄目」という表現に耳が痛い人は多いのではないか。少しの困難も回避しようとする自分。「楽」を選択し続ける自分。
鞄がある「おかげで」、自分の怠惰を鞄のせいにすることができる。だからここには「そのせいで」ではなく、「おかげ」と言う語が用いられている。まさにその恩恵に浴しているからだ。
「おのずから」もそうだ。我知らず、いつの間にか自然とそうなってしまうことを強調するために、この語が使われている。
鞄による「制約」によって、自分の考えと行動が自然と決まる。それが青年の論理だ。
「鞄の重さが」、自分の「行先を決めてしまう」。
これは、「制約」であると同時に、とても「楽」なことなのだ。鞄の導きに、自分の「行先」・将来をすっかり委(ゆだ)ねればいいのだから。もう自分で考えなくていい。自分で考える必要がなくなる「楽」さ。そのためには、多少の「制約」も仕方がない・我慢の範囲内だ。青年に限らず、この誘いに簡単に乗ってしまう人は多いだろう。

この答えを聞き、鞄によって青年は自分の事務所に導かれたのだと、「私」は理解する。
「すると、鞄を持たずにいれば、かならずしもうちの社でなくてもよかったわけか」
この「私」のセリフは、次のどちらの意味で言っているのかが微妙だ。一つは、青年の言葉を素直に受け取り、「では、その鞄がなければ、うちの社に来ることはなかったのだね」という意味。これだと、「私」は、おかしなことを言う青年と同じレベルの人ということになる。
もう一つは、青年の答えに乗る風を装って、青年を批判する意味。それは青年への皮肉になる。鞄が行先を決めるなどバカバカしい。そんなことはあるはずがない、という立場だ。

「気勢」…意気込んだ気持ち。(三省堂「新明解国語辞典」第6版)
「そぐ」…すっかり無くすようにする。(同上)
「さんざん迷ったあげく、消去法で結局ここしかないことが分かった」と言う青年に対し、「私」は「思わせぶり」だと感じ、それをもう少しわかりやすく「具体的に言ってごらんよ」と促す。「私」は青年に、素直に言ってほしかったのだ。「御社が第一志望です」と。それに対して青年の答えは、「鞄が行先を決めてしまうのです」という何ともはぐらかされたような、ピント外れの答えだったので、期待していた答えが得られず、「私」の「気勢」は「そがれ」たのだ。
そうすると、先ほどの二つの可能性のうちの二番目が、この場面に適切だろう。「私」は青年に、皮肉を言ったのだった。

ところで、「私」はあくまでも自分の会社に応募してきた人物として青年を扱っている。だから、「必ずしも~」と「気勢をそがれ」つつも述べるのだ。ふたりの会話は、このようにズレを含んだまま進行する。
普通であれば会話はやがてうまくかみ合わなくなり、どこかで齟齬が生じ破綻するのだが、絶妙なバランスで会話は進行する。

「私」の、「鞄を持たずにいれば」に、青年はすかさず反応する。
「鞄を手放す」などという、「ありえない仮説を立ててみても始まらない」。仮説にもならない仮説だと、青年は却下する。青年にとってその鞄は、無くてはならないとても大切なものなのだ。
「私」は、青年の「手放す」を「手から離す」に置き換え、さらに「ありえない仮説」を、「爆発する」という誇張表現に変換する。これも青年に対する皮肉だ。鞄を手放しても、大した影響・損失はないだろうと言いたいのだ。
青年は、その鞄を所有することにより、自分で考える必要がなくなる。だから、鞄を手放すことはあり得ない仮説となる。もし手放してしまったら、それ以降、すべてのことについて自分で考え、判断し、行動しなければならなくなる。「楽」ではなくなるのだ。

「私」には、青年が「分からない」・理解できない。「なぜそんな無理してまで、鞄を持ち歩く必要があるのか」。
それに対し青年は、「無理なんかして」いない。「あくまでも自発的にやっていること」だ。「やめようと思えば、いつだってやめられる」と反論する。「私」から「分からない」、「そんな無理してまで」と、否定的に問われたので、それに多少反発する気持ちから言った言葉だ。青年は、「いつだってやめられるからこそ、やめないのです」と強弁してはいるが、自分でも、「ばかなこと」だと分かっている。実際に青年は、なかなか「やめられ」ないし、鞄に「強制されて」動かされている。「楽」に安住し、やめられないからやめないだけだ。
自分の進路・将来を、鞄という他者に完全に預ける・任せることは、自分で考える必要がないからとても「楽」だ。しかしその甘い蜜には猛毒が入っている。青年は自身に対し、「自発的にやっている」と思い込ませようとしている。

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