夏目漱石「それから」3-2

◇本文
 代助の尤(もつと)も応(こた)へるのは親爺(おやぢ)である。好(い)い年をして、若い妾(めかけ)を持つてゐるが、それは構はない。代助から云(い)ふと寧ろ賛成な位なもので、彼は妾を置く余裕のないものに限つて、蓄妾(ちくしよう)の攻撃をするんだと考へてゐる。親爺は又大分の八釜(やかま)し屋である。小供のうちは心魂(しんこん)に徹(てつ)して困却した事がある。しかし成人の今日(こんにち)では、それにも別段辟易する必要を認めない。たゞ応(こた)へるのは、自分の青年時代と、代助の現今とを混同して、両方共大した変りはないと信じてゐる事である。それだから、自分の昔し世に処した時の心掛けでもつて、代助も遣(や)らなくつては、嘘だといふ論理になる。尤も代助の方では、何が嘘ですかと聞き返した事がない。だから決して喧嘩にはならない。代助は小供の頃非常な肝癪持で、十八九の時分親爺と組打をした事が一二返ある位だが、成長して学校を卒業して、しばらくすると、此肝癪がぱたりと已(や)んで仕舞つた。それから以後ついぞ怒つた試しがない。親爺はこれを自分の薫育の効果と信じてひそかに誇つてゐる。
 実際を云ふと親爺の所謂薫育は、此父子の間に纏綿する暖かい情味を次第に冷却せしめた丈である。少なくとも代助はさう思つてゐる。所が親爺の腹のなかでは、それが全く反対(あべこべ)に解釈されて仕舞つた。何をしやうと血肉の親子である。子が親に対する天賦の情合が、子を取扱ふ方法の如何に因つて変る筈がない。教育の為、少しの無理はしやうとも、其結果は決して骨肉の恩愛に影響を及ぼすものではない。儒教の感化を受けた親爺は、固く斯う信じてゐた。自分が代助に存在を与へたといふ単純な事実が、あらゆる不快苦痛に対して、永久愛情の保証になると考へた親爺は、その信念をもつて、ぐん/\押して行つた。さうして自分に冷淡な一個の息子を作り上げた。尤も代助の卒業前後からは其待遇法も大分変つて来て、ある点から云へば、驚ろく程寛大になつた所もある。然しそれは代助が生まれ落ちるや否や、此親爺が代助に向つて作つたプログラムの一部分の遂行に過ぎないので、代助の心意の変移を見抜いた適宜の処置ではなかつたのである。自分の教育が代助に及ぼした悪結果に至つては、今に至つて全く気が付かずにゐる。
 親爺は戦争に出たのを頗る自慢にする。稍(やや)もすると、御前抔はまだ戦争をした事がないから、度胸が据わらなくつて不可(いか)んと一概にけなして仕舞ふ。恰も度胸が人間至上な能力であるかの如き言草(いひぐさ)である。代助はこれを聞かせられるたんびに厭(いや)な心持がする。胆力は命の遣(や)り取りの劇(はげ)しい、親爺の若い頃の様な野蛮時代にあつてこそ、生存に必要な資格かも知れないが、文明の今日から云へば、古風な弓術撃剣の類と大差はない道具と、代助は心得てゐる。否、胆力とは両立し得ないで、しかも胆力以上に難有がつて然るべき能力が沢山ある様に考へられる。御父さんから又胆力の講釈を聞いた。御父さんの様に云ふと、世の中で石地蔵が一番偉いことになつて仕舞ふ様だねと云つて、嫂と笑つた事がある。
 斯う云ふ代助は無論臆病である。又臆病で恥づかしいといふ気は心(しん)から起らない。ある場合には臆病を以て自任したくなる位である。子供の時、親爺の使嗾で、夜中にわざ/\青山の墓地迄出掛けた事がある。気味のわるいのを我慢して一時間も居たら、たまらなくなつて、蒼青な顔をして家へ帰つて来た。其折は自分でも残念に思つた。あくる朝親爺に笑はれたときは、親爺が憎らしかつた。親爺の云ふ所によると、彼と同時代の少年は、胆力修養の為(ため)、夜半に結束(けつそく)して、たつた一人、御城の北一里にある剣(つるぎ)が峰の天頂(てつぺん)迄登つて、其所(そこ)の辻堂で夜明かしをして、日の出を拝んで帰つてくる習慣であつたさうだ。今の若いものとは心得方からして違ふと親爺が批評した。
 斯んな事を真面目に口にした、又今でも口にしかねまじき親爺は気の毒なものだと、代助は考へる。彼は地震が嫌ひである。瞬間の動揺でも胸に波が打つ。あるときは書斎で凝(じ)つと坐つてゐて、何かの拍子に、あゝ地震が遠くから寄せて来るなと感ずる事がある。すると、尻の下に敷いてゐる坐蒲団も、畳も、乃至床板も明らかに震へる様に思はれる。彼はこれが自分の本来だと信じてゐる。親爺の如きは、神経未熟の野人か、然らずんば己れを偽る愚者としか代助には受け取れないのである。

(青空文庫より)

◇評論
    今話は、代助の閉口する相手である父親が描かれる。世代の違いは考え方や価値観、人生観の違いとなってあらわれ、ふたりを隔てる。

・「好い年をして、若い妾(めかけ)を持つてゐるが、それは構はない。」
得の妻は亡くなったので法的・倫理的に支障は無し、愛人がいることはこの時代には特異なことではなかった。ただ、財力に任せて、慰みものとして若い女性を囲っていることが、世間の批判の対象だろう。
・「代助から云(い)ふと寧ろ賛成な位なもので、彼は妾を置く余裕のないものに限つて、蓄妾(ちくしよう)の攻撃をするんだと考へてゐる。」
代助が言う通り、経済的に「余裕」があるから妾を置く事が可能なのだ。世間は、その財力に嫉妬する。それがあれば自分も同じ事が出来たのにと。下衆な欲望であり、ただのひがみでしかない。その意味で代助は「妾」と、それを囲っている父親を肯定している。
・「親爺は又大分の八釜(やかま)し屋である。小供のうちは心魂(しんこん)に徹(てつ)して困却した事がある。しかし成人の今日(こんにち)では、それにも別段辟易する必要を認めない。」
父親は代助に対し、あれこれ細かく指摘していたようだ。代助も子供の頃はそれを真正面から受けとめていたのだろう。しかし大人になると、うまく聞き流し、はぐらかすこともできるようになる。
・「たゞ応(こた)へるのは、自分の青年時代と、代助の現今とを混同して、両方共大した変りはないと信じてゐる事である。それだから、自分の昔し世に処した時の心掛けでもつて、代助も遣(や)らなくつては、嘘だといふ論理になる。」
世代による価値観の違いは、現在でもありがちなことだ。父親には経験・実体験から来た世渡りの方法への確信がある。自分は確かにこのようにやってきた。だからそれは真理だと信じている。
それに対して代助は、時代が違うと感じている。時代は発展しており、価値観もやり方も異なっている。昔の考え方や旧習に従っては、現代を生きることはできないと。
・「尤も代助の方では、何が嘘ですかと聞き返した事がない。だから決して喧嘩にはならない。代助は小供の頃非常な肝癪持で、十八九の時分親爺と組打をした事が一二返ある位だが、成長して学校を卒業して、しばらくすると、此肝癪がぱたりと已(や)んで仕舞つた。それから以後ついぞ怒つた試しがない。」
親子の長年の付き合いから、代助は受け流す方法を手に入れた。無用ないさかいや怒りは、精神的疲労をするだけだ。相手を受け流し、また、自分のこころの緊張もうまくやり過ごす。
 しかしそれが父親には通じていないのが代助の悲劇だ。「親爺はこれを自分の薫育の効果と信じてひそかに誇つてゐる。」    息子の成長を知らず、自分勝手に、都合よく考える。「親爺の所謂薫育は、此父子の間に纏綿する暖かい情味を次第に冷却せしめた丈」だった。「所が親爺の腹のなかでは、それが全く反対(あべこべ)に解釈されて仕舞つた」。「血肉の親子」である以上、「親に対する天賦の情合が、子を取扱ふ方法の如何に因つて変る筈がない」。「教育の為、少しの無理はしやうとも、其結果は決して骨肉の恩愛に影響を及ぼすものではない。儒教の感化を受けた親爺は、固く斯う信じてゐた」。「自分が代助に存在を与へたといふ単純な事実が、あらゆる不快苦痛に対して、永久愛情の保証になると考へた親爺は、その信念をもつて、ぐん/\押して行つた」。子に対する古い価値観による熱血指導は、「自分に冷淡な一個の息子を作り上げ」るという「悪結果」となっただけだった。「代助の卒業前後からは其待遇法も大分変つて来て、ある点から云へば、驚ろく程寛大になつた所もある。然しそれは代助が生まれ落ちるや否や、此親爺が代助に向つて作つたプログラムの一部分の遂行に過ぎないので、代助の心意の変移を見抜いた適宜の処置ではなかつた」。
 父親の考えと性格は、代助に完全に見抜かれている。そしてその誤った教育方針によって、自分に対してだけでなく、社会に対しても「冷淡」な息子を作ってしまった。しかもそのことに父親自身は気付いていない。代助は父親に対して、距離を取る手段に出ている。

 父親の話題は続く。
「親爺は戦争に出たのを頗る自慢にする」。「御前抔はまだ戦争をした事がないから、度胸が据わらなくつて不可(いか)んと一概にけなして仕舞ふ」。「度胸が人間至上な能力であるかの如」き言い方だ。
これに対し「代助はこれを聞かせられるたんびに厭(いや)な心持がする。胆力は命の遣(や)り取りの劇(はげ)しい、親爺の若い頃の様な野蛮時代にあつてこそ、生存に必要な資格かも知れないが、文明の今日から云へば、古風な弓術撃剣の類と大差はない道具と、代助は心得てゐる。否、胆力とは両立し得ないで、しかも胆力以上に難有がつて然るべき能力が沢山ある様に考へられる。」
 だから「御父さんの様に云ふと、世の中で石地蔵が一番偉いことになつて仕舞ふ様だねと云つて、嫂と笑」うことになる。「石地蔵」という比喩は、堅物で容易なことでは動かしがたいさまを表す。義父の古臭い考え方は、嫂にとっても半ば嘲笑の対象となっており、ふたりは共感関係にある。
 余談だが、このあたりの父親の説明は省略したりまとめたりすることが難しい。これは、情報の濃密さを表すとともに、このように扱われる代助はやり切れない思いだろうことも示している。父親の巌とした考えと態度が、代助にのしかかっているのだ。

 「それから」の語り手は第三者であり、彼はやや代助寄りだが、父親にも代助にも比較的公平な論評を加える。それが、「斯う云ふ代助は無論臆病である」という表現に表れる。しかし代助自身は「臆病で恥づかしいといふ気は心(しん)から起らない。ある場合には臆病を以て自任したくなる位」だった。
 子供時代の青山墓地事件では、「たまらなくなつて、蒼青な顔をして家へ帰つて来た」。「自分でも残念に思」い、また、「あくる朝親爺に笑はれたときは、親爺が憎らしかつた」。多少の負けん気を、子供時代の代助は持っていたようだ。親爺の少年時代には、胆力修養のため、「辻堂で夜明かしをして、日の出を拝んで帰つてくる習慣」があったと言うが、代助は取り合わない。「親爺は気の毒なものだと、代助は考へる」。
 続く部分は代助の過敏な神経状態が描かれる。地震が嫌いな彼は、「瞬間の動揺でも胸に波が打つ」。「何かの拍子に、あゝ地震が遠くから寄せて来るなと感ずる事がある」。そうして「彼はこれが自分の本来だと信じてゐる」。それに比すれば、「親爺の如きは、神経未熟の野人か、然らずんば己れを偽る愚者としか代助には受け取れない」ということになる。

 豪胆であることに価値を置く父親と、繊細な代助は、そりが合わないだろう。親子であってもまるで違う人格のふたりなのだった。
 しかしその相手に代助は完全に寄りかかっている。そうしなければ、彼は生きられないのだ。そうしてそこに、代助の最大の弱点がある。すでに30歳近い代助に、偉そうなことを言う資格はない。「親爺の如きは、神経未熟の野人か、然らずんば己れを偽る愚者」であると批判するためには、父親から経済的に自立しなければならない。真の精神的自立は、その後だろう。 

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