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夏目漱石「それから」本文と評論8-5

◇本文
 中二日(なかふつか)置いて、突然平岡が来た。其日は乾いた風が朗(ほが)らかな天(そら)を吹いて、蒼(あを)いものが眼に映(うつ)る、常(つね)よりは暑い天気であつた。朝の新聞に菖蒲の案内が出てゐた。代助の買つた大きな鉢植の君子蘭(くんしらん)はとう/\縁側で散つて仕舞つた。其代り脇差(わきざし)程も幅(はゞ)のある緑の葉が、茎を押し分けて長く延びて来た。古い葉は黒ずんだ儘(まゝ)、日に光つてゐる。其一枚が何かの拍子に半分から折れて、茎を去る五寸 許(ばかり)の所ろで、急に鋭く下がつたのが、代助には見苦しく見えた。代助は鋏(はさみ)を持つて椽に出た。さうして其葉を折れこんだ手前から、剪(き)つて棄てた。時に厚い切り口が、急に煮染(にじ)む様に見えて、しばらく眺めてゐるうちに、ぽたりと椽に音がした。切口に集まつたのは緑色の濃い重い汁であつた。代助は其香(そのにほひ)を嗅(か)がうと思つて、乱れる葉の中に鼻を突つ込んだ。椽側の滴(したゝ)りは其儘にして置いた。立ち上がつて、袂(たもと)から手帛(ハンケチ)を出して、鋏の刃を拭(ふ)いてゐる所へ、門野が平岡さんが御出でですと報(し)らせて来たのである。代助は其時平岡の事も三千代の事も、丸で頭の中に考へてゐなかつた。只(たゞ)不思議な緑色の液体に支配されて、比較的世間に関係のない情調の下(もと)に動いてゐた。それが平岡の名を聞くや否や、すぐ消えて仕舞つた。さうして、何だか逢ひたくない様な気持がした。
「此方(こつち)へ御通し申しませうか」と門野から催促された時、代助はうんと云つて、座敷へ這入つた。あとから席に導かれた平岡を見ると、もう夏の洋服を着てゐた。襟(えり)も白襯衣(しろしやつ)も新しい上に、流行の編襟飾(あみえりかざり)を掛(か)けて、浪人とは誰にも受け取れない位、ハイカラに取り繕(つくろ)つてゐた。
 話して見ると、平岡の事情は、依然として発展してゐなかつた。もう近頃は運動しても当分駄目だから、毎日 斯(か)うして遊んで歩く。それでなければ、宅(うち)に寐てゐるんだと云つて、大きな声を出して笑つて見せた。代助もそれが可(よ)からうと答へたなり、後は当たらず障らずの世間話に時間を潰してゐた。けれども自然に出る世間話といふよりも、寧ろある問題を回避する為の世間話だから、両方共に緊張を腹の底に感じてゐた。
 平岡は三千代の事も、金の事も口へ出さなかつた。従つて三日前へ代助が彼の留守宅を訪問した事に就ても何も語らなかつた。代助も始めのうちは、わざと、その点に触れないで澄ましてゐたが、何時(いつ)迄経つても、平岡の方で余所(よそ)々々しく構へてゐるので、却つて不安になつた。
「実は二三日前君の所へ行つたが、君は留守だつたね」と云ひ出した。
「うん。左様(さう)だつたさうだね。其節は又難有う。御 蔭(かげ)さまで。――なに、君を煩はさないでも何(ど)うかなつたんだが、彼奴(あいつ)があまり心配し過ぎて、つい君に迷惑を掛けて済まない」と冷淡な礼を云つた。それから、
「僕も実は御礼に来た様(やう)なものだが、本当の御礼には、いづれ当人が出るだらうから」と丸で三千代と自分を別物にした言分(いひぶん)であつた。代助はたゞ、
「そんな面倒な事をする必要があるものか」と答へた。話は是で切れた。が又両方に共通で、しかも、両方のあまり興味を持たない方面に摺(ず)り滑(すべ)つて行つた。すると、平岡が突然、
「僕はことによると、もう実業は已(や)めるかも知れない。実際内幕を知れば知る程 厭(いや)になる。其上 此方(こつち)へ来て、少し運動をして見て、つくづく勇気がなくなつた」と心底(しんそこ)かららしい告白をした。代助は、一口(ひとくち)、
「それは、左様(さう)だらう」と答へた。平岡はあまり此返事の冷淡なのに驚ろいた様子であつた。が、又あとを付けた。
「先達ても一寸(ちよつと)話したんだが、新聞へでも這入らうかと思つてる」
「口があるのかい」と代助が聞き返した。
「今、一つある。多分出来さうだ」
 来た時は、運動しても駄目だから遊んでゐると云ふし、今は新聞に口があるから出様(でやう)と云ふし、少し要領を欠いでゐるが、追窮するのも面倒だと思つて、代助は、
「それも面白からう」と賛成の意を表して置いた。

(青空文庫より)

◇評論
「中二日置いて、突然平岡が来た」
…「中二日置いて」とは、代助が三千代のもとに200円の小切手を持って行ってからという意味。なお、「中二日置いて」とは三日後の意。

「其日は乾いた風が朗(ほが)らかな天(そら)を吹いて、蒼(あを)いものが眼に映(うつ)る、常(つね)よりは暑い天気であつた」
…空気は乾燥し、青空が広がる初夏の風景。この舞台背景は、普通であればよいことが起こる予感をさせる。

「朝の新聞に菖蒲の案内が出てゐた。代助の買つた大きな鉢植の君子蘭(くんしらん)はとう/\縁側で散つて仕舞つた」

菖蒲
(https://yunphoto.net/jp/photobase/hr/hr627.html より)
君子蘭
(https://yunphoto.net/jp/photobase/hr/hr6327.html  より)

この物語には漱石の他の作品に比べ植物が多く登場し、それらを代助がいじったり、三千代が鈴蘭のつけてある鉢の水を飲んだりする。ここも、菖蒲、君子蘭、「脇差(わきざし)程も幅(はゞ)のある緑の葉」などが登場し、「代助は其時平岡の事も三千代の事も、丸で頭の中に考へてゐなかつた。只(たゞ)不思議な緑色の液体に支配されて、比較的世間に関係のない情調の下(もと)に動いてゐた」。「それが平岡の名を聞くや否や、すぐ消えて仕舞つた。さうして、何だか逢ひたくない様な気持がした」。植物と触れ合っていた代助が、現実世界へ引き戻された様子。また、せっかく三千代といい感じの時間を過ごせたのに、そこに邪魔者の平岡が乱入してきたかのような感覚が、代助にはあったのだろう。蜜月が急に覚まされてしまったかのようだ。

「あとから席に導かれた平岡を見ると、もう夏の洋服を着てゐた。襟(えり)も白襯衣(しろしやつ)も新しい上に、流行の編襟飾(あみえりかざり)を掛(か)けて、浪人とは誰にも受け取れない位、ハイカラに取り繕(つくろ)つてゐた」
…職探しに奔走しているはずの平岡が、案外洒落たこぎれいな格好をしているので、代助は驚いたのだ。また、どこにそんな経済的・時間的余裕があるのだろうといぶかしく思う気持ちもある。三千代が恥を忍んで代助に借金の申し出をしたほど困窮しているはずなのに、それをまったく顧慮せずに、自分だけが「ハイカラ」な姿をしている違和感を、代助も読者も感じる場面だ。

「寧ろある問題を回避する為の世間話だから、両方共に緊張を腹の底に感じてゐた」
…先日代助が貸した200円が話題に出ないのは不自然だ。平岡がそれに触れない理由が読者は知りたくなる。

「不安」になった代助は、とうとう、「実は二三日前君の所へ行つたが、君は留守だつたね」と告げる。これに対する平岡の返事は、「うん。左様(さう)だつたさうだね。其節は又難有う。御 蔭(かげ)さまで。――なに、君を煩はさないでも何(ど)うかなつたんだが、彼奴(あいつ)があまり心配し過ぎて、つい君に迷惑を掛けて済まない」と、「冷淡な礼」だった。これは、友人から大金を借りた者の態度ではない。平岡は続いて、「「僕も実は御礼に来た様(やう)なものだが、本当の御礼には、いづれ当人が出るだらうから」と丸で三千代と自分を別物にした言分(いひぶん)であつた」。まるで自分は借金を望んでなかったし、三千代が勝手に君に頼んで借りてしまったと言わんばかりの他人行儀な言い方だ。代助は、「そんな面倒な事をする必要があるものか」と、当然の答えをするが、「話は是で切れ」てしまう。貸した相手からこのような反応をされたら、「では、あまり困っていないようなので返してくれ」と言いたくなる。友人から大金を借りた恩義を全く感じていない平岡。このような男からは、友人は離れていくだろう。一体平岡は何を考えているのか。
少し平岡の弁護をすると、実は平岡は、代助家族の財産がどのように形成されたのかを知り、であれはそこからわずかな金を自分がもらっても、気にしたり感謝したりする必要はないだろうと思っているのだろう。代助は、うまいことをやって稼いだ金を人から譲り受けただけだということ。だから彼は代助に恩義を感じない。豪放な平岡の性格というよりも、このような背景が、彼を「冷淡」にさせている。

「もう実業は已(や)めるかも知れない。実際内幕を知れば知る程 厭(いや)になる。其上 此方(こつち)へ来て、少し運動をして見て、つくづく勇気がなくなつた」との平岡の告白に対し、「代助は、一口(ひとくち)、「それは、左様(さう)だらう」と、「冷淡」な返事をする。これは金を貸した自分への「冷淡」に対抗するものだろう。
平岡は「新聞へでも這入らうかと思つてる」、「多分出来さうだ」と言う。「運動しても駄目だから遊んでゐると云ふ」一方で、「新聞に口があるから出様(でやう)と云ふ」矛盾に、「追窮するのも面倒だと思つて、代助は、「それも面白からう」と賛成の意を表して置いた」。
新聞社への入社を告げる平岡は、既に実業界の「知れば知る程 厭(いや)になる」「内幕」に触れている。そこには代助の父と兄も登場するのだ。だから代助が軽い気持ちで言った「それも面白からう」という「賛成の意」は、父と兄の立場を危うくすることとなる。

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