夏目漱石「それから」本文と評論4-2

◇本文
 代助は机の上の書物を伏せると立ち上がつた。縁側の硝子戸(がらすど)を細目(ほそめ)に開けた間から暖かい陽気な風が吹き込んで来た。さうして鉢植のアマランスの赤い瓣(はなびら)をふら/\と揺(うご)かした。日は大きな花の上に落ちてゐる。代助は曲(こゞ)んで、花の中を覗(のぞ)き込んだ。やがて、ひよろ長い雄 蕊(ずゐ)の頂(いたゞき)から、花粉を取つて、雌蕊(しずゐ)の先へ持つて来て、丹念に塗り付けた。
「蟻(あり)付きましたか」と門野が玄関の方から出て来た。袴を穿(は)いてゐる。代助は曲んだ儘顔を上げた。
「もう行つて来たの」
「えゝ、行つて来ました。何ださうです。明日 御引移(おひきうつ)りになるさうです。今日是から上がらうと思つてた所だと仰(おつしゃ)いました」
「誰が? 平岡が?」
「えゝ。――どうも何ですな。大分御忙しい様ですな。先生た余つ程違つてますね。――蟻なら種油(たねあぶら)を御注(おつぎ)なさい。さうして苦しがつて、穴から出て来る所を一々(いち/\)殺すんです。何なら殺しませうか」
「蟻ぢやない。斯(か)うして、天気の好い時に、花粉を取つて、雌蕊へ塗り付けて置くと、今に実が結(な)るんです。暇だから植木屋から聞いた通り、遣(や)つてる所だ」
「なある程。どうも重宝な世の中になりましたね。――然し盆栽は好いもんだ。奇麗で、楽しみになつて」
 代助は面倒臭いから返事をせずに黙つてゐた。やがて、
「悪戯(いたづら)も好加減(いゝかげん)に休(よ)すかな」と云ひながら立ち上がつて、縁側へ据付(すゑつ)けの、籐(と)の安楽椅子に腰を掛けた。夫れ限(ぎ)りぽかんと何か考へ込んでゐる。門野は詰らなくなつたから、自分の玄関傍(わき)の三畳敷(じき)へ引き取つた。障子を開けて這入らうとすると、又縁側へ呼び返された。
「平岡が今日来ると云つたつて」
「えゝ、来る様な御話しでした」
「ぢや待まつてゐやう」
 代助は外出を見合せた。実は平岡の事が此間から大分気に掛ゝつてゐる。
 平岡は此前(このぜん)、代助を訪問した当時、既に落ち付いてゐられない身分であつた。彼自身の代助に語つた所によると、地位の心当りが二三ヶ所あるから、差し当り其方面へ運動して見る積りなんださうだが、其二三ヶ所が今どうなつてゐるか、代助は殆んど知らない。代助の方から神保町の宿を訪ねた事が二返あるが、一度は留守であつた。一度は居つたには居つた。が、洋服を着た儘、部屋の敷居の上に立つて、何か急(せ)わしい調子で、細君を極(き)め付けてゐた。――案内なしに廊下を伝つて、平岡の部屋の横へ出た代助には、突然ながら、たしかに左様(さう)取れた。其時平岡は一寸(ちよつと)振り向いて、やあ君かと云つた。其顔にも容子にも、少しも快(こゝろよ)さゝうな所は見えなかつた。部屋の内から顔を出した細君は代助を見て、蒼白(あをじろ)い頬(ほゝ)をぽつと赤くした。代助は何となく席に就(つ)き悪(にく)くなつた。まあ這入れと申し訳に云ふのを聞き流して、いや別段用ぢやない。何どうしてゐるかと思つて一寸と来て見た丈だ。出掛けるなら一所に出様(でやう)と、此方(こつち)から誘ふ様にして表(おもて)へ出て仕舞つた。
 其時平岡は、早く家を探して落ち付きたいが、あんまり忙しいんで、何(ど)うする事も出来ない、たまに宿のものが教へてくれるかと思ふと、まだ人が立ち退(の)かなかつたり、あるひは今壁を塗つてる最中だつたりする。などと、電車へ乗つて分れる迄諸事苦情づくめであつた。代助も気の毒になつて、そんなら家は、宅(うち)の書生に探させやう。なに不景気だから、大分 空(あ)いてるのがある筈だ。と請合(うけあ)つて帰つた。
 夫(それ)から約束通り門野を探しに出した。出すや否や、門野はすぐ恰好(かつこう)なのを見付けて来た。門野に案内をさせて平岡夫婦に見せると、大抵 可(よ)からうと云ふ事で分れたさうだが、門野は家主の方へ責任もあるし、又 其所(そこ)が気に入らなければ外を探す考もあるからと云ふので、借りるか借りないか判然(はつきり)した所を、もう一遍確かめさしたのである。
「君、家主の方へは借りるつて、断わつて来たんだらうね」
「えゝ、帰りに寄つて、明日引越すからつて、云つて来きました」

(青空文庫より)

◇評論
 アンドレーフの「七刑人」の最終場面のページを閉じ、代助は立ち上がる。気を紛らそうとしたのだ。縁側から「暖かい陽気な風が吹き込んで来た」。その風は、「鉢植のアマランスの赤い瓣(はなびら)」「をふら/\と揺(うご)かした。日は大きな花の上に落ちてゐる」。代助は「ひよろ長い雄 蕊(ずゐ)の頂(いたゞき)から、花粉を取つて、雌蕊(しずゐ)の先へ持つて来て、丹念に塗り付けた」。こうすることで、「今に実が結(な)る」と考えたからだ。代助のこの行為は、死が描かれた書物といわば決別し、生へと心が動くさまを表す。これに対し門野は、「蟻なら種油(たねあぶら)を御注(おつぎ)なさい。さうして苦しがつて、穴から出て来る所を一々(いち/\)殺すんです。何なら殺しませうか」と、毒々しいことを平気で言う。死を身近に感じない門野との対比が鋭く表現される。身体が健康な代助には、なぜか死の予感がある。この後彼の人生は大きく転換することになる。

「蟻(あり)付きましたか」と門野が玄関の方から出て来た。袴を穿(は)いてゐる。代助は曲んだ儘顔を上げた。
「もう行つて来たの」
「えゝ、行つて来ました。何ださうです。明日 御引移(おひきうつ)りになるさうです。今日是から上がらうと思つてた所だと仰(おつしゃ)いました」
「誰が? 平岡が?」

 平岡のもとを訪れた門野から、今日これから平岡が来訪することを告げられる。「誰が? 平岡が?」という部分は、平岡自身とその妻の三千代のどちらが来るのかを確認した場面。代助の脳裏には常に三千代が存在することの表れ。

「えゝ。――どうも何ですな。大分御忙しい様ですな。先生た余つ程違つてますね。――蟻なら種油(たねあぶら)を御注(おつぎ)なさい。さうして苦しがつて、穴から出て来る所を一々(いち/\)殺すんです。何なら殺しませうか」
「蟻ぢやない。斯(か)うして、天気の好い時に、花粉を取つて、雌蕊へ塗り付けて置くと、今に実が結(な)るんです。暇だから植木屋から聞いた通り、遣(や)つてる所だ」
「なある程。どうも重宝な世の中になりましたね。――然し盆栽は好いもんだ。奇麗で、楽しみになつて」
 代助は面倒臭いから返事をせずに黙つてゐた。

 蟻に目が行っている代助を見て、「――どうも何ですな。大分御忙しい様ですな。先生た余つ程違つてますね」と言う門野は、代助の精神の発達とその脳の高等な活動をまったく理解しない。外観だけからその人を推し量ることしかできない愚な人間だ。代助は彼に合わせるように「蟻ぢやない。斯(か)うして、天気の好い時に、花粉を取つて、雌蕊へ塗り付けて置くと、今に実が結(な)るんです。暇だから植木屋から聞いた通り、遣(や)つてる所だ」と説明する。門野の答えは、「なある程。どうも重宝な世の中になりましたね。――然し盆栽は好いもんだ。奇麗で、楽しみになつて」と、とてものんきだ。代助が暇を持て余していると誤解している門野は、自分の愚を他所に、まるで暇そうに見える代助に合わせたような物言いをする。だから代助はバカバカしくなり、こいつには何を言ってもてんで理解できないのだと考え、「面倒臭いから返事をせずに黙つてゐた」のだ。
 愚者から自分も同等だと見られるだけでなく、逆に下に見られることは、愚者に対する評価をさらに低める結果となる。相手への理解力がない愚者は、相手の真実を見抜くことができず、簡単に相手をバカにする。それがゆえにさらに愚者なのだ。どうにも手の施しようがない。

「悪戯(いたづら)も好加減(いゝかげん)に休(よ)すかな」と云ひながら立ち上がつて、縁側へ据付(すゑつ)けの、籐(と)の安楽椅子に腰を掛けた。夫れ限(ぎ)りぽかんと何か考へ込んでゐる。門野は詰らなくなつたから、自分の玄関傍(わき)の三畳敷(じき)へ引き取つた。障子を開けて這入らうとすると、又縁側へ呼び返された。
「平岡が今日来ると云つたつて」
「えゝ、来る様な御話しでした」
「ぢや待まつてゐやう」
 代助は外出を見合せた。実は平岡の事が此間から大分気に掛ゝつてゐる。

 「悪戯(いたづら)も好加減(いゝかげん)に休(よ)すかな」いうセリフは、門野に合わせた物言いだ。代助が自分を卑下したセリフ。
 縁側に藤製の安楽椅子が据付けてある。
それに腰を掛けた代助は、「夫れ限(ぎ)りぽかんと何か考へ込んでゐる」。「平岡の事が此間このあひだから大分気に掛かゝつてゐる」からだった。

 平岡来訪を待ち受けるため、代助は外出を見合せる。「実は平岡の事が此間から大分気に掛ゝつてゐる」からだった。

 この後代助は既に三千代に会っていたことが述べられる。
 平岡は「地位の心当りが二三ヶ所あるから、差し当り其方面へ運動して見る積り」だと言っていた。しかし「其二三ヶ所が今どうなつてゐるか、代助は殆んど知らない」。
 代助は2度神保町の宿を訪ねた。1度目は留守で、2度目は平岡が「洋服を着た儘、部屋の敷居の上に立つて、何か急(せ)わしい調子で、細君を極(き)め付けてゐた」。「其時平岡は一寸(ちよつと)振り向いて、やあ君かと云つた。其顔にも容子にも、少しも快(こゝろよ)さゝうな所は見えなかつた」。「部屋の内から顔を出した細君は代助を見て、蒼白(あをじろ)い頬(ほゝ)をぽつと赤くした」。ここで代助と三千代は久しぶりの再会を果たす。しかしそれは平岡夫婦のいさかいの場面だった。だから「代助は何となく席に就(つ)き悪(にく)く」なり、「いや別段用ぢやない。何どうしてゐるかと思つて一寸と来て見た丈だ。出掛けるなら一所に出様(でやう)と、此方(こつち)から誘ふ様にして表(おもて)へ出て仕舞つた」。ふたりの再開は非常に気まずい状況の時であり、その感激は吹き飛んでしまう。わずかに三千代は「蒼白(あをじろ)い頬(ほゝ)をぽつと赤くした」だけだった。

 平岡は、「早く家を探して落ち付きたいが、あんまり忙しいんで、何(ど)うする事も出来ない」と言う。「電車へ乗つて分れる迄諸事苦情づくめであつた」。気の毒になった代助は、家は門野に手配させると請け合う。
 身体だけはよく動く門野は、「すぐ恰好(かつこう)なのを見付けて来た。門野に案内をさせて平岡夫婦に見せると、大抵 可(よ)からうと云ふ事で分れた」。
 平岡たちは、「明日引越」となる。

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