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夏目漱石「それから」本文と評論9-3

◇本文
 廊下伝ひに中庭を越して、奥へ来て見ると、父は唐机(とうづくえ)の前へ坐つて、唐本(とうほん)を見てゐた。父は詩が好きで、閑(ひま)があると折々支那人の詩集を読んでゐる。然し時によると、それが尤も機嫌のわるい索引になる事があつた。さう云ふときは、いかに神経のふつくら出来上つた兄でも、成るべく近寄らない事にしてゐた。是非顔を合はせなければならない場合には、誠太郎か、縫子か、何方(どつち)か引張つて父の前へ出る手段を取つてゐた。代助も椽側迄来て、そこに気が付いたが、夫程(それほど)の必要もあるまいと思つて、座敷を一つ通り越して、父の居間に這入つた。
 父はまづ眼鏡を外した。それを読み掛けた書物の上に置くと、代助の方に向き直つた。さうして、たゞ一言、
「来たか」と云つた。其語調は平常よりも却つて穏やかな位であつた。代助は膝の上に手を置きながら、兄が真面目な顔をして、自分を担(かつ)いたんぢやなからうかと考へた。代助はそこで又苦い茶を飲ませられて、しばらく雑談に時を移した。今年は芍薬(しやくやく)の出が早いとか、茶摘歌(ちやつみうた)を聞いてゐると眠くなる時候だとか、何所とかに、大きな藤があつて、其花の長さが四尺足らずあるとか、話は好加減(いゝかげん)な方角へ大分長く延びて行つた。代助は又其方が勝手なので、いつ迄も延ばす様にと、後から後を付けて行つた。父も仕舞には持て余して、とう/\、時に今日御前を呼んだのはと云ひ出した。
 代助はそれから後は、一言も口を利かなくなつた。只謹んで親爺の云ふことを聴いてゐた。父も代助から斯う云ふ態度に出られると、長い間自分一人で、講義でもする様に、述べて行かなくてはならなかつた。然し其半分以上は、過去を繰り返す丈であつた。が代助はそれを、始めて聞くと同程度の注意を払つて聞いてゐた。
 父の長(なが)談義のうちに、代助は二三の新らしい点も認めた。その一つは、御前は一体是からさき何うする料簡なんだと云ふ真面目な質問であつた。代助は今迄父からの注文ばかり受けてゐた。だから、其注文を曖昧に外す事に慣れてゐた。けれども、斯う云ふ大質問になると、さう口から出任せに答へられない。無暗な事を云へば、すぐ父を怒らして仕舞ふからである。と云つて正直を自白すると、二三年間父の頭を教育した上でなくつては、通じない理窟になる。何故と云ふと、代助は今此大質問に応じて、自分の未来を明瞭に道破(いひやぶ)る丈の考も何も有つてゐなかつたからである。彼はそれが自分に取つては尤もな所だと思つてゐた。から、父が、其通りを聞いて、成程と納得する迄には、大変な時間がかゝる。或は生涯通じつこないかも知れない。父の気に入る様にするのは、何でも、国家の為とか、天下の為とか、景気の好い事を、しかも結婚と両立しない様な事を、述べて置けば済むのであるが、代助は如何に、自己を侮辱する気になつても、是ばかりは馬鹿気てゐて、口へ出す勇気がなかつた。そこで已(やむ)を得ないから、実は色々計画もあるが、いづれ秩序立てゝ来て、御相談をする積であると答へた。答へた後で、実に滑稽だと思つたが仕方がなかつた。
 代助は次に、独立の出来る丈の財産が欲しくはないかと聞かれた。代助は無論欲しいと答へた。すると、父が、では佐川の娘を貰つたら好からうと云ふ条件を付けた。其財産は佐川の娘が持つて来るのか、又は父が呉れるのか甚だ曖昧であつた。代助は少し其点に向つて進んで見たが、遂に要領を得なかつた。けれども、それを突き留める必要がないと考へて已(や)めた。
 次に、一層(いつそ)洋行する気はないかと云はれた。代助は好いでせうと云つて賛成した。けれども、これにも、矢っ張り結婚が先決問題として出て来た。
「そんなに佐川の娘を貰ふ必要があるんですか」と代助が仕舞に聞いた。すると父の顔が赤くなつた。

(青空文庫より)

◇評論
「廊下伝ひに中庭を越して、奥へ来て見ると、父は唐机(とうづくえ)の前へ坐つて、唐本(とうほん)を見てゐた。父は詩が好きで、閑(ひま)があると折々支那人の詩集を読んでゐる」
…「父の居間」は、他の家族とは少し離れた奥にある。「唐机」、「唐本」、「支那人の詩集」が、父の趣味を表す。
「唐机」…1 中国製の机。2 中国風の机。多くは紫檀(したん)製。(デジタル大辞泉)
「唐本」…中国で作られ(わが国に伝えられ)た漢籍。(三省堂「新明解国語辞典」)

「然し時によると、それが尤も機嫌のわるい索引になる事があつた。さう云ふときは、いかに神経のふつくら出来上つた兄でも、成るべく近寄らない事にしてゐた。是非顔を合はせなければならない場合には、誠太郎か、縫子か、何方(どつち)か引張つて父の前へ出る手段を取つてゐた」
…どんな頑固おやじもかわいい孫にはかなわない。相好を崩す。

「父はまづ眼鏡を外した。それを読み掛けた書物の上に置くと、代助の方に向き直つた」
…話者によるこの丁寧な説明は、代助も父の様子をじっとうかがっていることを表す。
「さうして、たゞ一言、「来たか」と云つた。其語調は平常よりも却つて穏やかな位であつた。代助は膝の上に手を置きながら、兄が真面目な顔をして、自分を担(かつ)いたんぢやなからうかと考へた」
…代助は嫁の話の展開を予測しながら父の話を謹聴する。
「代助はそこで又苦い茶を飲ませられて、しばらく雑談に時を移した。今年は芍薬(しやくやく)の出が早いとか、茶摘歌(ちやつみうた)を聞いてゐると眠くなる時候だとか、何所とかに、大きな藤があつて、其花の長さが四尺足らずあるとか、話は好加減(いゝかげん)な方角へ大分長く延びて行つた。代助は又其方が勝手なので、いつ迄も延ばす様にと、後から後を付けて行つた。父も仕舞には持て余して、とう/\、時に今日御前を呼んだのはと云ひ出した」
…父にとってもなかなか言い出しにくい話題なのだろう。その理由はやがて明らかになる。

「代助はそれから後は、一言も口を利かなくなつた。只謹んで親爺の云ふことを聴いてゐた。父も代助から斯う云ふ態度に出られると、長い間自分一人で、講義でもする様に、述べて行かなくてはならなかつた。然し其半分以上は、過去を繰り返す丈であつた。が代助はそれを、始めて聞くと同程度の注意を払つて聞いてゐた」
…代助は、ひとまず父の話をしっかり聞いたうえで自分の考えを伝えようとする。

「父の長(なが)談義のうちに、代助は二三の新らしい点も認めた」。
①「御前は一体是からさき何うする料簡なんだと云ふ真面目な質問」
…「斯う云ふ大質問になると、さう口から出任せに答へられない。無暗な事を云へば、すぐ父を怒らして仕舞ふから」だ。しかし、「正直を自白すると、二三年間父の頭を教育した上でなくつては、通じない」。「代助は今此大質問に応じて、自分の未来を明瞭に道破(いひやぶ)る丈の考も何も有つてゐなかつたから」だ。「それが自分に取つては尤もな所だと思つてゐた」が、それを父が聞いて、「成程と納得する迄には、大変な時間がかゝる。或は生涯通じつこないかも知れない」。「そこで已(やむ)を得ないから、実は色々計画もあるが、いづれ秩序立てゝ来て、御相談をする積であると答へた。答へた後で、実に滑稽だと思つたが仕方がなかつた」。
②「独立の出来る丈の財産が欲しくはないか」
…「代助は無論欲しいと答へた。すると、父が、では佐川の娘を貰つたら好からうと云ふ条件を付けた。其財産は佐川の娘が持つて来るのか、又は父が呉れるのか甚だ曖昧であつた。代助は少し其点に向つて進んで見たが、遂に要領を得なかつた」。
「けれども、それを突き留める必要がないと考へて已(や)めた」というのは、代助は三千代が好きだったし、佐川の娘と結婚する可能性は無いと考え、無駄な議論を避けたため。
③「一層(いつそ)洋行する気はないか」
…「代助は好いでせうと云つて賛成した。けれども、これにも、矢っ張り結婚が先決問題として出て来た」。

代助の②「独立」と、③「洋行」の前提条件として、佐川の娘との結婚を示す父親。独立も洋行も良いが、佐川の娘との結婚が代助は承知できない。①の将来像についてはまだ未定だ。それで良しとする代助と父親の考えは相容れない。①の質問についても、「息子の未来を考えて結婚を勧めるのだ」と父親は考えていると、代助は受け取っている。つまり①も、佐川の娘との結婚を勧めるための質問だ。
父親は自分に様々な耳障りの良い提案をするが、結局すべては佐川の娘との結婚を代助に認めさせる方便でしかないことになる。
いかにも自分の将来を心配しているかのような言葉を並べる父親。しかしその結論は、佐川と自分を結婚させることにある。だから「「そんなに佐川の娘を貰ふ必要があるんですか」と代助が仕舞に聞いた」のだ。「すると父の顔が赤くなつた」。

これほどまでに佐川の娘をピンポイントで薦めることには、何かわけがあるのだろう。それを明かさずにただ結婚しろというだけでは、代助も納得しない。父親は父親の威厳として子は親に従うものだという考えでいる。しかし代助はそのような子ではない。それが父にはわからない。

一方代助の、「そんなに佐川の娘を貰ふ必要があるんですか」という言い方もトゲがある。ありすぎる。同じ言うにも、佐川の娘を薦める理由を柔らかく聞けばいい。そのあたりが、聡い代助の悪いところだ。「確かに私ももういい歳です。結婚を考えなくもありません。その相手として佐川の娘が適任である理由は何ですか?」となぜ聞けない。世慣れぬボンボンと言われても仕方がない。代助は父親を侮蔑しているところが、このような場面に出てくる。

父親を怒らせても何もいいことはない。次話で事態は混乱するばかりだ。

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