夏目漱石「それから」1-1①

◇本文
 誰(だれ)か慌(あは)たゞしく門前(もんぜん)を馳(か)けて行く足音がした時、代助(だいすけ)の頭の中には、大きな俎下駄(まないたげた)が空(くう)から、ぶら下がつてゐた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退(とほの)くに従つて、すうと頭から抜け出して消えて仕舞つた。さうして眼(め)が覚めた。
 枕元(まくらもと)を見ると、八重の椿(つばき)が一輪(いちりん)畳の上に落ちてゐる。代助は昨夕(ゆふべ)床(とこ)の中(なか)で慥かに此花の落ちる音(おと)を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬(ごむまり)を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更(ふ)けて、四隣(あたり)が静かな所為(せゐ)かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋(あばら)のはづれに正(たゞ)しく中(あた)る血(ち)の音(おと)を確(たし)かめながら眠(ねむ)りに就いた。
 ぼんやりして、少時(しばらく)、赤ん坊の頭程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当(あ)てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈(みやく)を聴(き)いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて確(たし)かに打つてゐた。彼は胸に手を当てた儘、此鼓動の下に、温(あたたか)い紅(くれなゐ)の血潮の緩く流れる様(さま)を想像して見た。是が命(いのち)であると考へた。自分は今流れる命を掌(てのひら)で抑へてゐるんだと考へた。それから、此掌に応(こた)へる、時計の針に似た響(ひゞ)きは、自分を死に誘(いざな)ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生きてゐられたなら、――血を盛(も)る袋が、時(とき)を盛る袋の用を兼ねなかつたなら、如何(いか)に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に生(せい)を味はひ得るだらう。けれども――代助は覚えず悚(ぞつ)とした。彼は血潮によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生きたがる男である。彼は時々寐ながら、左の乳(ちゝ)の下(した)に手を置いて、もし、此所(こゝ)を鉄槌(かなづち)で一つ撲(どや)されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。

(青空文庫より)

◇評論
 この物語は、いきなり夢落ちで始まる点に特徴がある。素直な読み手は、初め「代助」の空想かと思いながら読んでいると、それは夢だったと突然知らされる。語り始めがこの調子では、語り手の語りの手法についていくためには、用心・注意が必要だと、読み手は警戒するだろう。従って、緊張感をもってこの後の語りを読み進めることになる。
 また、長編小説の最後の部分に再び夢落ちが使われるのではないかとか、登場人物が夢のような世界へ迷い込むのではないかといった想像が容易につく。結末部分のページを開くことはしばし我慢して、初めから順に読み進めていく。

 夢の中で「代助の頭の中には、大きな俎下駄(まないたげた)が空(くう)から、ぶら下がつてゐた」。語り手は、夢を代助の代わりに説明する。そうして、その夢を見ていた時、現実の世界では、実際に「誰(だれ)か慌(あは)たゞしく門前(もんぜん)を馳(か)けて行」っており、その「足音」が代助の耳にも届いていたとする。こうして語り手は、現実の物事・物音と代助の夢の世界を、関連付けて読み手に説明する。実際には「誰(だれ)か慌(あは)たゞしく門前(もんぜん)を馳(か)けて行」く音がし、それを夢のイメージとしては、「代助(だいすけ)の頭の中には、大きな俎下駄(まないたげた)が空(くう)から、ぶら下がつてゐた」と表現する。この、実際と夢のイメージの乖離に妙がある。現実には誰かが下駄で走っているのに対し、代助の頭の下駄は、「空からぶら下がって」いる。下駄は普通、「空からぶら下が」らない。だから、とても奇妙で印象的なイメージだ。ありふれた下駄の、イメージとしての存在の奇妙さ。この異物は、何かを表象・象徴しているだろう。
 夢ではあるが、現実をこのようにイメージする人物として、代助は描かれている。そうして、彼は目覚める。
 「けれども、その俎下駄は、足音の遠退(とほの)くに従つて、すうと頭から抜け出して消えて仕舞つた。さうして眼(め)が覚めた」。まるでお化けが人に認められた途端にすうっと姿を消したかのように、下駄は退場する。何者かに引っ張られたのか、自ら代助の夢の世界から立ち去ったのか。そうして代助の意識は、現実世界に戻る。

 それにしても、とても含意に富んだ書き出しだ。代助という人のイメージの奇妙さ、面白さ。代助とは何者なのか。下駄が何を表しているのか。なぜ彼はそのような夢を見たのか。現実世界と彼のかかわりがどのようになっているのか。このように、さまざまな疑念がわき、また興味が掻き立てられる。読者になぞをかける、漱石のいつもの手法だ。

    次に登場するのは、「八重の椿」だが、これもまた突然の感がある。なぜなら、先ほどの下駄からはとても想像・関連がつかないものだからだ。下駄と八重の椿を関連させてイメージする人は、あまり無いのではないか。この取り合わせの妙が面白く、また不思議な物語の世界観を表している。読み手の興味はいや増す。
    椿が落ちた音が下駄の音と共鳴する。読み手は、もしかすると先ほどの誰かが駆けていく音も夢だったのではないかと疑う。しかしこのすぐ後に「代助は昨夕床の中で慥かに此花の落ちる音を聞いた」と説明され、それは間違いだと気付く。このようにして読み手は、たびたび語り手の肩すかしに合う。読み手に非常に緊張を強いる書き出しだ。

    このように冒頭部は、どこまでが夢で、どこからが現実なのかが曖昧で、夢の世界がずっと続くような、不安定な感覚を抱く。そう考えると、もしかしたらこの物語は、円環を描くのではないか。つまり、「誰か」とは代助であり、彼自身が「大きな俎下駄」を履き、「慌(あは)たゞしく門前(もんぜん)を馳(か)けて行く」ことになるのではないか。ということを想像させる。さらに言うと、自ら振ったサイコロの目によって、振り出しに戻された代助を予兆しているように読める。つまり、代助は、その運命からは決して逃れることはできず、また、自らの宿命を永遠にぐるぐる回りつづけることを表している。
    この予測を検証しながら、これ以降を読んでいきたい。

    「椿」に戻る。八重の椿はこの後に出てくる心臓を想起させる。椿の落下は、とても不吉な予兆だ。それは、赤く脈打つ心臓の落下・停止・「死」をイメージさせるからだ。
    なお、椿は2月から4月にかけて咲くので、この場面の季節は春先ということになる。

 「俎下駄」が、「足音の遠退(とほの)くに従つて、すうと頭から抜け出して消えて仕舞」い、代助は「「眼(め)が覚めた」。「枕元(まくらもと)」に「八重の椿(つばき)が一輪(いちりん)畳の上に落ちてゐる」のに気付く。「昨夕(ゆふべ)床(とこ)の中(なか)で慥かに此花の落ちる音(おと)を聞いた」記憶がある。「彼の耳には、それが護謨毬(ごむまり)を天井裏から投げ付けた程に響いた」。「夜が更(ふ)けて、四隣(あたり)が静かな所為(せゐ)かとも思つた」。夜の静寂の中に突然響く八重の椿の落ちる音。「天井裏から投げ付けた」「護謨毬(ごむまり)」の音は、一人寝の彼の耳には突然大きく響いただろう。まるで子供がいたずらに投げつけたかのようだ。これは確かに心臓に悪い出来事だ。だから代助は、「念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋(あばら)のはづれに正(たゞ)しく中(あた)る血(ち)の音(おと)を確(たし)かめながら眠(ねむ)りに就いた」のだ。代助はとても繊細な男として描かれる。特異な夢のイメージを抱き、また大きな音に反応し心臓がドキドキする。繊細な人は、周囲の動きや音、変化に敏感に反応する。そうして、夢と現実のあわいが時に溶解する。
 別件だが、代助は自分の部屋に椿を飾る人だということがわかる。

 落ちた椿は、「赤ん坊の頭程もある大きな花」という不吉な比喩表現がなされ、人間の心臓や命を想起させる。それが落ちたということは、命の消滅を暗示させ、だから代助は、「その」赤い「色を見詰め」、「急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当(あ)てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた」のだ。自分の胸にある椿=心臓の動きは大丈夫なのかということだ。「寐ながら胸の脈(みやく)を聴(き)いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる」とあるから、もしかすると時には不整脈となることがあったのかもしれない。もしくは、そうでなくとも、命の危険・危機を感じていたのかもしれない。代助の過敏な神経に反して、「動悸は相変らず落ち付いて確(たし)かに打つてゐた」。代助は「胸に手を当てた儘、此鼓動の下に、温(あたたか)い紅(くれなゐ)の血潮の緩く流れる様(さま)を想像して見た」。そうして、「是が命(いのち)であると考へた。自分は今流れる命を掌(てのひら)で抑へてゐるんだと考へた」。自分の体の中にある心臓が命そのものであり、それが拍動しているということは、自分が生きている証拠となる。このようにして自分の命を握りしめる感覚が、代助にはあったのだろう。彼はさらに、「此掌に応(こた)へる、時計の針に似た響(ひゞ)きは、自分を死に誘(いざな)ふ警鐘の様なものであると」も考える。やはり彼は、自分の命が危ういことを予感しているようだ。それがすぐかもしれない。拍動が「自分を死に誘(いざな)ふ警鐘」と考える代助。脈が進めば進むほど、死に近づいていく。だからと言って脈を止めるわけにもいかない。その矛盾の狭間に彼は立っている。従って、それ以外の選択肢としては、「此警鐘を聞くことなしに生きてゐられたなら」ということになる。しかしそれはかなわぬことだ。「血を盛(も)る袋」はやはり厳然として「時(とき)を盛る袋の用を兼ね」ており、だから彼は、「気楽」になれないし、「絶対に生(せい)を味はひ得る」こともできない。
 先ほども述べたとおり、脈が進めば進むほど、死に近づく。だからと言って脈を止めるわけにもいかない。代助は思わず「悚(ぞつ)と」する。「血潮によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓」は、つまり死を意味するからだ。彼は、それを「想像する」ことすら不快だ。彼は、「生きたがる男」だった。「左の乳(ちゝ)の下(した)」を「鉄槌(かなづち)で一つ撲(どや)され」たらただでは済まないだろうことを想像する。代助は「健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある」男だった。
 代助は自分の心臓=命がいつか(近いうちに)突然止まってしまうのではないかと恐れている。だから生が「僥倖」だと感じるのだ。「動悸は相変らず落ち付いて確(たし)かに打つてゐた」はずなのに、死を身近に感じ、極度に恐れる男。

 死について考え、自分が消えてなくなることへの恐怖は、少年期にあることだ。次回は、「生きたがる男」・代助の人物像を探っていく。

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