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夏目漱石「それから」本文と評論9-1

◇本文
 代助は又(また)父から呼ばれた。代助には其用事が大抵分つてゐた。代助は不断から成るべく父を避けて会はない様にしてゐた。此頃になつては猶更奥へ寄り付かなかつた。逢ふと、叮嚀な言葉を使つて応対してゐるにも拘はらず、腹の中では、父を侮辱してゐる様な気がしてならなかつたからである。
 代助は人類の一人(いち)にんとして、互ひを腹の中で侮辱する事なしには、互ひに接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでゐた。さうして、これを、近来急に膨脹した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がしたものと解釈してゐた。又これを此等新旧両慾の衝突と見傚してゐた。最後に、此生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた海嘯(つなみ)と心得てゐた。
 この二つの因数(フアクトー)は、何処(どこ)かで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な日本が、欧洲の最強国と、財力に於て肩を較(なら)べる日の来る迄は、此平衡は日本に於て得られないものと代助は信じてゐた。さうして、斯(か)ゝる日は、到底日本の上を照らさないものと諦めてゐた。だからこの窮地に陥つた日本紳士の多数は、日毎に法律に触れない程度に於て、もしくはたゞ頭の中に於て、罪悪を犯さなければならない。さうして、相手が今如何なる罪悪を犯しつゝあるかを、互に黙知しつゝ、談笑しなければならない。代助は人類の一人(いちにん)として、かゝる侮辱を加ふるにも、又加へらるゝにも堪へなかつた。
 代助の父の場合は、一般に比べると、稍(やや)特殊的傾向を帯びる丈に複雑であつた。彼は維新前の武士に固有な道義本位の教育を受けた。此教育は情意行為の標準を、自己以外の遠い所に据ゑて、事実の発展によつて証明せらるべき手近かな真(まこと)を、眼中に置かない無理なものであつた。にも拘(かゝ)はらず、父は習慣に囚へられて、未(いま)だに此教育に執着してゐる。さうして、一方には、劇烈な生活慾に冒され易い実業に従事した。父は実際に於て年々此生活慾の為に腐蝕されつゝ今日に至つた。だから昔の自分と、今の自分の間には、大いな相違のあるべき筈である。それを父は自認してゐなかつた。昔の自分が、昔通りの心得で、今の事業を是迄に成し遂げたとばかり公言する。けれども封建時代にのみ通用すべき教育の範囲を狭める事なしに、現代の生活慾を時々刻々に充(み)たして行ける訳がないと代助は考へた。もし双方を其儘に存在させ様とすれば、之を敢てする個人は、矛盾の為に大苦痛を受けなければならない。もし内心に此苦痛を受けながら、たゞ苦痛の自覚丈明らかで、何の為の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍い劣等な人種である。代助は父に対する毎(ごと)に、父は自己を隠蔽(いんぺい)する偽君子(ぎくんし)か、もしくは分別の足らない愚物(ぐぶつ)か、何方(どつち)かでなくてはならない様な気がした。さうして、左(さ)う云ふ気がするのが厭(いや)でならなかつた。
 と云つて、父は代助の手際で、何(ど)うする事も出来ない男であつた。代助には明らかに、それが分つてゐた。だから代助は未(いま)だ曾(かつ)て父を矛盾の極端迄追ひ詰めた事がなかつた。
 代助は凡ての道徳の出立点は社会的事実より外にないと信じてゐた。始めから頭の中に硬張(こわば)つた道徳を据ゑ付けて、其道徳から逆に社会的事実を発展させ様とする程、本末を誤つた話はないと信じてゐた。従つて日本の学校でやる、講釈の倫理教育は、無意義のものだと考へた。彼等は学校で昔し風の道徳を教授してゐる。それでなければ一般欧洲人に適切な道徳を呑み込ましてゐる。此劇烈なる生活慾に襲はれた不幸な国民から見れば、迂遠の空談に過ぎない。此迂遠な教育を受けたものは、他日社会を眼前に見る時、昔の講釈を思ひ出して笑つて仕舞ふ。でなければ馬鹿にされた様な気がする。代助に至つては、学校のみならず、現に自分の父から、尤も厳格で、尤も通用しない徳義上の教育を受けた。それがため、一時非常な矛盾の苦痛を、頭の中に起した。代助はそれを恨めしく思つてゐる位であつた。
 代助は此前(このまへ)梅子に礼を云ひに行つた時、梅子から一寸(ちよつと)奥へ行つて、挨拶をしてゐらつしやいと注意された。代助は笑ひながら御父さんはゐるんですかと空(そら)とぼけた。ゐらつしやるわと云ふ確答を得た時でも、今日はちと急ぐから廃(よ)さうと帰つて来た。

(青空文庫より)

◇評論
今話も代助の文明論・日本の近代化論が展開される。

「代助は不断から成るべく父を避けて会はない様にしてゐた」理由は、「逢ふと、叮嚀な言葉を使つて応対してゐるにも拘はらず、腹の中では、父を侮辱してゐる様な気がしてならなかつたから」であり、それは自分が「二十世紀の堕落」に陥っていることを自覚させるからだった。
 代助は「互ひを腹の中で侮辱する事なしには、互ひに接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでゐた」。これは、「近来急に膨脹した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がした」、「新旧両慾の衝突と見傚してゐた」。また「生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた海嘯(つなみ)と心得てゐた」。欧州から押し寄せた生活欲が道義欲を崩壊させたという理解。
「この二つの因数(フアクトー・生活欲と道義欲)は、何処(どこ)かで平衡を得なければならない」が、「貧弱な日本が、欧洲の最強国と、財力に於て肩を較(なら)べる日の来る迄は、此平衡は日本に於て得られ」ず、しかも「斯(か)ゝる日は、到底日本の上を照らさないものと諦めてゐた」。欧州の強国と肩を並べるまでに至らなければ、生活欲と道義欲のバランスは保たれず、しかもその日は来ない。

「だからこの窮地に陥つた日本紳士の多数は、日毎に法律に触れない程度に於て、もしくはたゞ頭の中に於て、罪悪を犯さなければならない。さうして、相手が今如何なる罪悪を犯しつゝあるかを、互に黙知しつゝ、談笑しなければならない」
…欧州から押し寄せた生活欲と崩壊に向かう道義欲に懊悩する「日本紳士の多数」は、「罪悪」を犯す必然にあると代助は考える。また、他者の「罪悪」に気づきながらも、それを「黙知」しつつ「談笑」しなければならない状態だ。自己と他者の罪悪を認知し懊悩するにもかかわらず、表面・表情には「笑」を含むという欺瞞。他者に対してだけでなく自分自身に対する偽善。だから「代助は人類の一人(いちにん)として、かゝる侮辱を加ふるにも、又加へらるゝにも堪へなかつた」のだ。

「代助の父の場合は、一般に比べると、稍(やや)特殊的傾向を帯びる丈に複雑であつた」。父が受けた教育は、「維新前の武士に固有な道義本位の教育」であり、「情意行為の標準を、自己以外の遠い所に据ゑて、事実の発展によつて証明せらるべき手近かな真(まこと)を、眼中に置かない無理なものであつた」。
「情意」…①(知と違って)感情と意志。②「気持」の漢語的表現。(三省堂「新明解国語辞典」)
父の価値観は、自身の感情・意志・行為の基準が道義という高尚なものに縛られている無理なもので、現実・実際の活動・状況をまったく考慮していないということ。
父の道徳欲と生活欲をまとめる。
道徳欲…「父は習慣に囚へられて、未(いま)だに此教育に執着してゐる」
    「封建時代にのみ通用すべき教育」
生活欲…「劇烈な生活慾に冒され易い実業に従事」
    「実際に於て年々此生活慾の為に腐蝕されつゝ今日に至つた」
父の様子…「昔の自分と、今の自分の間には、大いな相違のあるべき筈である。それを父は自認してゐなかつた。昔の自分が、昔通りの心得で、今の事業を是迄に成し遂げたとばかり公言する」
代助の考察…道義心の範囲「を狭める事なしに、現代の生活慾を時々刻々に充(み)たして行ける訳がない」
「もし双方を其儘に存在させ様とすれば、之を敢てする個人は、矛盾の為に大苦痛を受けなければならない。もし内心に此苦痛を受けながら、たゞ苦痛の自覚丈明らかで、何の為の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍い劣等な人種である」。
従って代助には父が、「自己を隠蔽(いんぺい)する偽君子(ぎくんし)か、もしくは分別の足らない愚物(ぐぶつ)か、何方(どつち)か」に見えてしまうことになり、「左(さ)う云ふ気がするのが厭(いや)でならなかつた」。自分の父親を否定し侮蔑するのが、代助にとっても嫌なのだ。

そうであれば、息子として父に自分の考えを説明することも可能だろう。しかし彼にはそれができない。
「と云つて、父は代助の手際で、何(ど)うする事も出来ない男であつた。代助には明らかに、それが分つてゐた。だから代助は未(いま)だ曾(かつ)て父を矛盾の極端迄追ひ詰めた事がなかつた」
親子の断絶がここにある。賢い代助には可能だろうとも思うのだが、彼はそれを積極的にしようとはしない。

代助の「道徳の出立点は社会的事実」にある。だから彼は、「始めから頭の中に硬張(こわば)つた道徳を据ゑ付けて、其道徳から逆に社会的事実を発展させ様とする程、本末を誤つた話はないと信じてゐた」。「日本の学校」の「講釈の倫理教育」・「昔し風の道徳」、「一般欧洲人に適切な道徳」は、「劇烈なる生活慾に襲はれた不幸な国民から見れば、迂遠の空談に過ぎない」。

「代助は此前(このまへ)梅子に礼を云ひに行つた時、梅子から一寸(ちよつと)奥へ行つて、挨拶をしてゐらつしやいと注意された。代助は笑ひながら御父さんはゐるんですかと空(そら)とぼけた。ゐらつしやるわと云ふ確答を得た時でも、今日はちと急ぐから廃(よ)さうと帰つて来た」
…今話は、「代助は又(また)父から呼ばれた」で始まったのだが、とうとう最後まで父との面会に至らない。この構成は、それだけ彼が父に会いたくないという気持ちも表している。

近所にある実家に帰っても、会いたい人と会いたくない人がいる。

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