宮澤賢治「なめとこ山の熊」について2

冒頭部について、再度検討してみたい。

 なめとこ山の熊のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。淵沢(ふちざわ)川はなめとこ山から出て来る。なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ。山のなかごろに大きな洞穴(ほらあな)ががらんとあいている。そこから淵沢川がいきなり三百尺ぐらいの滝になってひのきやいたやのしげみの中をごうと落ちて来る。
 中山街道はこのごろは誰も歩かないから蕗(ふき)やいたどりがいっぱいに生えたり牛が遁(に)げて登らないように柵(さく)をみちにたてたりしているけれどもそこをがさがさ三里ばかり行くと向うの方で風が山の頂を通っているような音がする。気をつけてそっちを見ると何だかわけのわからない白い細長いものが山をうごいて落ちてけむりを立てているのがわかる。それがなめとこ山の大空滝だ。そして昔はそのへんには熊がごちゃごちゃ居たそうだ。ほんとうはなめとこ山も熊の胆(い)も私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ。とにかくなめとこ山の熊の胆(い)は名高いものになっている。
 腹の痛いのにもきけば傷もなおる。鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありという昔からの看板もかかっている。だからもう熊はなめとこ山で赤い舌をべろべろ吐いて谷をわたったり熊の子供らがすもうをとっておしまいぽかぽか撲(なぐ)りあったりしていることはたしかだ。熊捕りの名人の淵沢小十郎がそれを片っぱしから捕ったのだ。

(青空文庫より)

「ほんとうはなめとこ山も熊の胆(い)も私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ。」
この部分は、重要な意味を持っている。これから話すこのお話は、「私」が「自分で見たのではな」く、「人から聞いたり考えたりしたことばかりだ」。だから「間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ」、と「私」は述べる。
この物語は、「人から聞いた」話をもとに、「私」が「考えた」「ことばかり」ということ。だから、「間ちがっているかもしれない」が、「私」はそう想像するのだ、ということを表している。伝聞をもとに自由に想像した話を、これから語りますよということだ。だから、多少の間違いは気にしないでね、間違いもあるかもね、これは「私」の空想だよ、ということ。
このいわば「宣言」によって、「私」には自由な想像と、自由な語りが保障されることとなった。
また、これにより、逆に聞き手にも、自由が与えられることになる。「私」の自由な想像の世界を、多少の「間ちがい」を気にせずに楽しむことができるからだ。「私」の空想に、心に余裕をもって付き合うことができる。聞き手も、空想を自由にふくらませることが可能となる。聞き手の「間ちがい」も許されるからだ。「私も自由な想像を語るから、聞いている皆さんも自由にイメージして楽しんでね」ということ。
このように、語り手と聞き手両者の自由は、双方の心の交歓をより可能にし、物語の世界を、さらに大きくふくらませることにつながる。
だからこの語り手の「宣言」は、語り手と聞き手の幸福な関係を築く重要な土台・基盤となったのだった。

語り手には、フリーハンドが与えられた。語り手は、自分の思うがままに物語ることができる。

このことは例えば、紀貫之「土佐日記」の冒頭「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」(男の人って、「日記」っていうものを漢文で書いてるみたい。私は女だけど、それをまねして「日記」らしきものを仮名で書いてみようかなって思って書くよ)もそうだし、兼好法師の「つれづれなるままに、日暮らし、硯すずりにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」(暇つぶしに、机の前に座って、心に溢れるつまらんイメージを、なんとなく書いてたら、なんか変な気分になって頭がおかしくなってきた)というのもそうだ。男性なのに女性に仮託し(女のふりをし)、これから書く文章は、頭がおかしい人が書いたものだから気軽な気持ちで読んでねという韜晦(とうかい)は、語り手に自由をもたらす。

以下、「なめとこ山の熊」における語り手と聞き手の交歓の様子をイメージしてみる。

「なめとこ山の熊のことならおもしろい。」
聞き手…うんうん、語り手さんは、そう思ったんだね。かなり突然だけど。ところで、何が「おもしろい」の? 「なめとこ山」って、どこにあるの? どんな山?
「なめとこ山は大きな山だ。淵沢(ふちざわ)川はなめとこ山から出て来る。」
聞き手…「~は…だ」的な肯定文の説明は、断定的でぎこちないけど、まるで絵を描くように、一つずつ順番に物語の設定をしているのだね。それでは自分も語り手に付き合って、まず「大きな山」を頭のキャンバスに描き、そこから流れ出る「淵沢川」をクレパスで描こうか。どんな川にしよう。大きな川かな? 曲がりくねっているのかな?
「なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。」
聞き手…なめとこ山って、生きてるんだね。曇ってる日が多いのかな? 山を取り巻くように白い霧や雲は描けるけど、「吸ったり吐いたり」を実際に描くのは、なかなか難しいなぁ。これは、絵よりも言葉のほうが良く伝わる表現法だ。言葉が絵に勝つ例。
「まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ。」
聞き手…山の説明なのに、急に海にいるもののたとえが出てきた! 語り手さんのイメージについていくのがやっとでタイヘン。でも、自分なりに、想像のキャンバスに描いてみよう。「なまこ」はなんとなくわかるけど、「海坊主」ってどんなだっけ。検索。なんか、めっちゃ怖いんだけど。ナマズの化け物? オバQ? でももしこんな形の山があったら、こうたとえるしかないかも。
「山のなかごろに大きな洞穴(ほらあな)ががらんとあいている。そこから淵沢川がいきなり三百尺ぐらいの滝になってひのきやいたやのしげみの中をごうと落ちて来る。」
聞き手…山のおなかのあたりに大きな穴を開けてっと。そこから流れ出る淵沢川。「三百尺」? 検索。一尺=30㎝だから、三百尺=90m! ずいぶん大きな滝だ。そりゃ、「ごうと落ちて来る」よな。そうすると、なめとこ山も、もっと大きく描かなくちゃ。
「中山街道はこのごろは誰も歩かないから蕗(ふき)やいたどりがいっぱいに生えたり牛が遁(に)げて登らないように柵(さく)をみちにたてたりしているけれどもそこをがさがさ三里ばかり行くと向うの方で風が山の頂を通っているような音がする。」
聞き手…誰も歩かないから、街道の地面はあまり見えてないか。その脇に、蕗といたどり・柵、牛さんを描いて、次はなかなか難しい。三里=12㎞ほど行った向こうで風が山の頂を吹き通る様子。
(ここは語り手がまるで実際に山を登っているように感じる。それは、情景描写が細かい事と、「がさがさ」や風の音でそう感じるのだろう。視覚+聴覚の描写が、聞き手の目の前にその風景を展開させるのだ)
「気をつけてそっちを見ると何だかわけのわからない白い細長いものが山をうごいて落ちてけむりを立てているのがわかる。」
(まるで語り手が「そっち」を実際に見ているような描写。しかもそれを「何だかわけのわからないもの」とあいまいに表現することによって、かえってそれらしく聞こえる)
聞き手…でもそれって何?
「それがなめとこ山の大空滝だ。」
聞き手…あぁ、滝のことね。「大空滝」というくらいだから、やっぱり大きいのだろう。検索。
「高さ83m幅6mの滝。滝川は3km上流の、自然豊かなブナの純林から流れて来ます。「なめとこ山の熊」に「白い細長いものが山を動いて落ちてけむりを立てている」と描かれた滝です。」(大空滝 | 遊ぶ【花巻観光協会公式サイト】 (kanko-hanamaki.ne.jp))
「そして昔はそのへんには熊がごちゃごちゃ居たそうだ。」
聞き手…クマさんが「ごちゃごちゃ」大渋滞。
「熊捕りの名人の淵沢小十郎がそれを片っぱしから捕ったのだ。」
聞き手…「片っぱしから」がキツイ。いくら「熊捕りの名人」とはいえ、クマさんかわいそう。小十郎って悪いヤツ?

途中でも何度か触れたが、改めて振り返ると、これらはみな語り手が「人から聞いたり考えたりしたことばかり」だ。語り手がまるで実際にそこにいて体験しているような語り口なので、聞き手はいつの間にかそのことを忘れてしまう。次々に展開される語り手のイメージの世界に、聞き手は知らぬ間に引きずり込まれ、やがて没入する。この物語は、そのような構造になっている。

「腹の痛いのにもきけば傷もなおる。鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありという昔からの看板もかかっている。」
聞き手…クマさんの胆て、何にでも効くので昔から名物なんだね。それで「片っぱしから」捕られたのか? 温泉行ってみたい。
「だからもう熊はなめとこ山で赤い舌をべろべろ吐いて谷をわたったり熊の子供らがすもうをとっておしまいぽかぽか撲(なぐ)りあったりしていることはたしかだ。」
聞き手…「だから~たしかだ」は、この前の部分とうまくつながっていない気がするけど、まぁいいか。この語り手は、そういう人だものね。「ぽかぽか」カワイイ。

以上のような感じになるだろうか。

「昔はそのへんには熊がごちゃごちゃ居たそうだ」という「人から聞いた」ことや、「とにかくなめとこ山の熊の胆(い)は名高いものになっている」こと、さらには「鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありという昔からの看板もかかっている」ことなどを根拠に、「だからもう熊はなめとこ山で赤い舌をべろべろ吐いて谷をわたったり熊の子供らがすもうをとっておしまいぽかぽか撲(なぐ)りあったりしていることはたしかだ」と空想し断定する語り手の強引さ。これにつきあう聞き手には忍耐力が求められるが、ここに「間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ」という妙薬があるからこそ、「まっ、いいか。語り手はそういう人だから。諦めてもう少しつきあおう」ということになる。やや語り手にフリーハンドを与えすぎた感はあるが、語り手と聞き手の自由は、こうして保障されている。

考えてみると、そもそも物語とは、わがまま・自分勝手なものだ。そうして、マニアック・偏狭なものだ。それに付き合わされる読者がどこまで我慢できるかに、その成否はかかっているともいえる。

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