夏目漱石「それから」2-2

◇本文
 代助と平岡とは中学時代からの知り合で、殊に学校を卒業して後、一年間といふものは、殆んど兄弟の様に親しく往来した。其時分は互に凡てを打ち明けて、互に力に為(な)り合ふ様なことを云ふのが、互に娯楽の尤もなるものであつた。この娯楽が変じて実行となつた事も少なくないので、彼等は双互の為めに口にした凡ての言葉には、娯楽どころか、常に一種の犠牲を含んでゐると確信してゐた。さうして其犠牲を即座に払へば、娯楽の性質が、忽然苦痛に変ずるものであると云ふ陳腐な事実にさへ気が付かずにゐた。一年の後平岡は結婚した。同時に、自分の勤めてゐる銀行の、京坂地方のある支店詰になつた。代助は、出立の当時、新夫婦を新橋の停車場に送つて、愉快さうに、直(ぢ)き帰つて来給へと平岡の手を握つた。平岡は、仕方がない、当分辛抱するさと打遣る様に云つたが、其眼鏡の裏には得意の色が羨ましい位動いた。それを見た時、代助は急に此友達を憎らしく思つた。家へ帰つて、一日部屋に這入つたなり考へ込んでゐた。嫂(あによめ)を連れて音楽会へ行く筈(はづ)の所を断わつて、大いに嫂に気を揉ました位である。
 平岡からは断えず音信(たより)があつた。安着の端書、向ふで世帯を持つた報知、それが済むと、支店勤務の模様、自己将来の希望、色々あつた。手紙の来るたびに、代助は何時(いつも)丁寧な返事を出した。不思議な事に、代助が返事を書くときは、何時(いつ)でも一種の不安に襲はれる。たまには我慢するのが厭(いや)になつて、途中で返事を已めて仕舞ふ事がある。たゞ平岡の方から、自分の過去の行為に対して、幾分か感謝の意を表して来る場合に限つて、安々(やす/\)と筆が動いて、比較的なだらかな返事が書けた。
 そのうち段々手紙の遣(や)り取りが疎遠になつて、月に二遍が、一遍になり、一遍が又 二(ふた)月、三(み)月に跨がる様に間を置いて来ると、今度は手紙を書かない方が、却つて不安になつて、何の意味もないのに、只この感じを駆逐する為に封筒の糊を湿す事があつた。それが半年ばかり続くうちに、代助の頭も胸も段々組織が変つて来る様に感ぜられて来きた。此変化に伴つて、平岡へは手紙を書いても書かなくつても、丸で苦痛を覚えない様になつて仕舞つた。現(げん)に代助が一戸を構へて以来、約一年余と云ふものは、此春(このはる)年賀状の交換のとき、序を以て、今の住所を知らした丈である。
 それでも、ある事情があつて、平岡の事は丸で忘れる訳には行かなかつた。時々思ひ出だす。さうして今頃は何(ど)うして暮してゐるだらうと、色々に想像して見る事がある。然したゞ思ひ出す丈で、別段問ひ合せたり聞き合せたりする程に、気を揉む勇気も必要もなく、今日迄過して来た所へ、二週間前に突然平岡からの書信が届いたのである。其手紙には近々当地を引き上げて、御地へまかり越す積りである。但し本店からの命令で、栄転の意味を含んだ他動的の進退と思つてくれては困る。少し考があつて、急に職業替をする気になつたから、着京の上は何分(なにぶん)宜しく頼むとあつた。此何分宜しく頼むの頼むは本当の意味の頼むか、又は単に辞令上の頼むか不明だけれども、平岡の一身上に急劇な変化のあつたのは争ふべからざる事実である。代助は其時はつと思つた。
 それで、逢ふや否や此変動の一部始終を聞かうと待設けて居たのだが、不幸にして話が外(それ)て容易に其所(そこ)へ戻つて来ない。折を見て此方(こつち)から持ち掛けると、まあ緩(ゆつ)くり話すとか何とか云つて、中々(なかなか)埒(らち)を開(あ)けない。代助は仕方なしに、仕舞に、
「久し振りだから、其所(そこ)いらで飯(めし)でも食はう」と云ひ出した。平岡は、それでも、まだ、何(いづ)れ緩(ゆつく)りを繰返したがるのを、無理に引張つて、近所の西洋料理へ上(あが)つた。

(青空文庫より)

◇評論
 今話は、代助と平岡のこれまでの関係が述べられる。
・「代助と平岡とは中学時代からの知り合」
・「殊に学校を卒業して後、一年間といふものは、殆んど兄弟の様に親しく往来」。「其時分は互に凡てを打ち明けて、互に力に為(な)り合ふ様なことを云ふのが、互に娯楽の尤もなるものであつた。この娯楽が変じて実行となつた事も少なくないので、彼等は双互の為めに口にした凡ての言葉には、娯楽どころか、常に一種の犠牲を含んでゐると確信してゐた。さうして其犠牲を即座に払へば、娯楽の性質が、忽然苦痛に変ずるものであると云ふ陳腐な事実にさへ気が付かずにゐた」。
 このあたりは、「こころ」の先生とkを想起させる。ふたりもこれと同じ関係だった。だから「こころ」を知る者は、代助と平岡の関係にも破局が訪れるのではないかという予感を抱く。そうして「こころ」の破局はお嬢さんがその原因であり、「それから」もそれと同じ形になるのではないかと思うだろう。
 ただし、実際の作品の成立は、「それから」が先で「こころ」はその4年後になる。「こころ」という物語の舞台設定の原型が「それから」にはあると言ってもいいほどの人間関係の類似だ。
 「学校」は東京大学だろう。

※参考 「こころ」下十九
「Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。これは彼の父の感化なのか、または自分の生れた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、解りません。ともかくも彼は普通の坊さんよりは遥かに坊さんらしい性格をもっていたように見受けられます。元来Kの養家では彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。しかるに頑固な彼は医者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです。私は彼に向って、それでは養父母を欺くと同じ事ではないかと詰りました。大胆な彼はそうだと答えるのです。道のためなら、そのくらいの事をしても構わないというのです。その時彼の用いた道という言葉は、おそらく彼にもよく解っていなかったでしょう。私は無論解ったとはいえません。しかし年の若い私たちには、この漠然とした言葉が尊く響いたのです。よし解らないにしても気高い心持に支配されて、そちらの方へ動いて行こうとする意気組に卑しいところの見えるはずはありません。私はKの説に賛成しました。私の同意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。一図な彼は、たとい私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられます。しかし万一の場合、賛成の声援を与えた私に、多少の責任ができてくるぐらいの事は、子供ながら私はよく承知していたつもりです。よしその時にそれだけの覚悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起った場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが至当になるくらいな語気で私は賛成したのです。」

〇この本文の「責任」が、「それから」の「犠牲」と同意。

・「一年の後平岡は結婚」。「同時に、自分の勤めてゐる銀行の、京坂地方のある支店詰になつた」。
・「代助は、出立の当時、新夫婦を新橋の停車場に送つて、愉快さうに、直(ぢ)き帰つて来給へと平岡の手を握つた。平岡は、仕方がない、当分辛抱するさと打遣る様に云つたが、其眼鏡の裏には得意の色が羨ましい位動いた。それを見た時、代助は急に此友達を憎らしく思つた。」
 親友の旅立ちをはじめは祝福した代助だったが、その別れの場面での「仕方がない、当分辛抱するさと打遣る様に云つた」平岡に対し、羨望と憎悪が心にうごめく。それは、「家へ帰つて、一日部屋に這入つたなり考へ込」み、また、「嫂(あによめ)を連れて音楽会へ行く筈(はづ)の所を断わつて、大いに嫂に気を揉ました位」だった。

 以上をまとめると、代助と平岡は中学時代からの親友であり、大学も同じ東京大学だろう。まるで兄弟のような心の交流と結束力があり、平岡は銀行に勤めて1年後に京阪支店詰に転勤になる。そこでの働きが認められれば再び東京に戻り、出世することができる。結婚も済ませた彼の晴れ姿は、代助の羨望を呼ぶことになる。平岡に対し、嫉妬・憎悪したのだ。

 その一方で、久しぶりに会った平岡の様子は、以前とは違っていることに、代助は気づいた。よれよれの服、しわしわのハンカチ、おそらく以前と同じ眼鏡。京阪での仕事や生活に、変調を来しているのではないかと想像しても不思議ではない。その意味も含めて、代助は平岡を観察していたのだ。

 また、この部分からは、代助が「嫂と音楽会へ行く」関係であり、またそのような経済的精神的豊かさを享受できる環境にあることがわかる。彼は仕事に就いていない。それに対して平岡の活躍の様子が際立つと同時に、なぜ代助は働かないのか、またそれが許されるのかが気になるところだ。

 「平岡からは断えず音信(たより)があつた」以降の部分から、なにやら代助が平岡に感謝してもらいたい事柄と、不安があることがわかる。

 「そのうち段々手紙の遣(や)り取りが疎遠になつて」以降の部分からは、代助と平岡の交流が次第に疎遠になっていったことが語られる。遠く離れた場所にいるからには、よくあることだろう。

・「代助が一戸を構へて」「約一年余」経っている。

 「それでも、ある事情があつて、平岡の事は丸で忘れる訳には行かなかつた。時々思ひ出だす。さうして今頃は何(ど)うして暮してゐるだらうと、色々に想像して見る事がある。然したゞ思ひ出す丈で、別段問ひ合せたり聞き合せたりする程に、気を揉む勇気も必要もなく、今日迄過すごして来た所へ、二週間前に突然平岡からの書信が届いたのである。」
 この「ある事情」が、読者はとても気になるところだ。「平岡の事は丸で忘れる訳には行かなかった」、「今頃は何(ど)うして暮してゐるだらうと、色々に想像して見る事がある」が「然したゞ思ひ出す丈で、別段問ひ合せたり聞き合せたりする程に、気を揉む勇気も必要もなく、今日迄過すごして来た」「事情」。それは当然平岡に関係する人物であり、前話で「ところで君の」とあった人ということになる。具体的には平岡の妻の三千代のことだ。やけに気になり、三年たっても忘れられない友人の妻というのは、穏やかな話ではない。やはり「こころ」の三角関係と同じ構図かと疑われる場面だ。

 次に、「二週間前に突然平岡から」届いた書信が紹介され、これによって既に平岡の来訪は予告されていたことを読者は知らされる。そうすると、物語冒頭の下駄や心臓の鼓動は、それを受けてのイメージと動揺だということになる。平岡の手紙には、
・「近々当地を引き上げて、御地へまかり越す積りである」が、「但し本店からの命令で、栄転の意味を含んだ他動的の進退」ではない。「少し考があつて、急に職業替をする気になつたから」だ。
 平岡には、「急劇な変化」があった。これは、会社の命令で退職となり、帰京し転職するということだ。平岡は何かをしでかしたのか、そうでないのか。何に転職しようとしているのか。という疑問を、代助は抱くだろう。
 代助が何を「其時はつと思つた」かというと、平岡の事もあるが、やはり三千代が心配になったからだ。
・だから、「着京の上は何分(なにぶん)宜しく頼む」。
 何を頼まれるのだろうと代助は思っている。

 以上の心配と疑問があり、「それで、逢ふや否や此変動の一部始終を聞かうと待設けて居たのだが、不幸にして話が外(それ)て容易に其所(そこ)へ戻つて来ない。折を見て此方(こつち)から持ち掛けると、まあ緩(ゆつ)くり話すとか何とか云つて、中々(なかなか)埒(らち)を開(あ)けない」。だから「代助は仕方なしに、仕舞に、「久し振りだから、其所(そこ)いらで飯(めし)でも食はう」と云ひ出した。平岡は、それでも、まだ、何(いづ)れ緩(ゆつく)りを繰返したがるのを、無理に引張つて、近所の西洋料理へ上(あが)つた」のだった。

 次話では、平岡の京阪での出来事が語られるだろう。


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