安部公房「鞄」を読む4

「私」は、「ひったくりや強盗に目をつけられたら」厄介だと話を展開するが、青年は「小さく笑」うだけで返事はしない。それは、「私の額に開いた穴をとおして、どこか遠くの風景でも見ているような、年寄りじみた笑いだった」。
この「笑い」は、貴重品が入っているのではないか、それを襲われたら大変だと心配する「私」を全く相手にしていない笑いだ。青年の視線は、「私」を見ていない。「私」を見ているふりをして、全く別のことを考えている。危険なものに軽い好奇心で近づこうとする「私」を、未熟者と受けとめている。

「年寄りじみた笑い」について。
鞄によって歩きつづけさせられた青年は、歩いている最中に、さまざまなことを考えただろう。
この鞄は、「手から手へ」と渡ることで、次々に所有者を亡ぼし、飲み込んでいく。
前の所有者から受け取った時の自分の浅はかさ。
ちょっとした好奇心が絶望へと向かうこと。
鞄によって歩きつづけさせられる自分の人生の意味。
そもそも人生とは何なのか。
選択を完全に他者に任せる楽さと恐ろしさ。
「年寄りじみた」とは、すでに困難な人生を一周し、終点を迎えようとしている青年の実相が、その一瞬、表側に現れたものだろう。若く見える青年だが、もうすでに己の人生を達観しているのだ。生きることの疲れと、変わらぬ人間の浅はかさへの諦念が表れた表情。そうして、今、目の前の人も、自分と同じ目に会おうとしている。だが誰もそれを止めることはできない。なぜなら、「自発的」だからだ。
「楽」だからという理由で、自ら望んで他者に支配されようとする人間の浅はかさ。

「ひったくりや強盗に目をつけられたら、お手上げだろう」という忠告にもかかわらず、小さな笑いしか返さず、まるで自分の話を聞いていない青年を見て、これは話を続けてもしようがないと思い、「私」は、話と自分の気持ちに一区切りつける。「ま、いいだろう」

私「べつに言い負かされたわけではないが、君の立場もなんとなく分かるような気がするな」
青年は、「私」を言い負かしていないし、そうしようともしていない。だからここは、「私」が青年にやや気圧(けお)されている場面。青年の、「私の額に開いた穴をとおして、どこか遠くの風景でも見ているような、年寄りじみた笑い」が、よほど効いたものと見える。

「君の立場もなんとなく分かるような気がするな」は、巷間、よく耳にするセリフだ。これは、相手に寄り添い共感しているふりをしているが、実は全くそうでない場合が多い。相手の味方のふりをして、相手に取り入ろうとする態度だ。青年への共感のセリフにより、青年に取り入ることで、「私」が何とか鞄を持ってみたいと思っていることが、浮き彫りになる。
続いて、「いちおう、働いてもらうことにしよう」と、「いちおう」応募の話題に戻し、それに続いて「それにしても、その鞄は大きすぎる」と、鞄の話題に再び戻るのだ。ここは、青年を雇うことで、とても気になる鞄を自分の身近に置いておきたいという「私」の魂胆が透けて見える。

「君を雇っても、鞄を雇うわけじゃない」という表現はふつうしない。「鞄を雇うわけじゃない」は、全くの不要だ。これは逆に、その鞄が気になって気になってしようがない「私」の気持ちを表している。素直に言えば、「私」は、その鞄を雇いたいのだ。「君」は、どうでもいい。

「事務所への持ち込みだけは遠慮してもらいたい」というのも変だ。どれだけ鞄が気になっているのだという感想しか浮かばない。たかが赤ん坊三人分がやっと入る大きさだ。事務所に持ち込んでも、どうということはないだろうし、今現在、すでに持ち込まれているではないか。事務所に持ち込まれると、その鞄がどうしても気になって、自分の仕事が手につかないからだ。「私」のすべての興味は、鞄に注がれている。どうしてもそれが気になる。

青年の採用は、即日決定する。
事務所に置けない鞄の置き場所を、さっそく心配する「私」。
青年は下宿に置いておくという。
前に青年は、「鞄を手放すなんて、そんな、ありえない仮説を立ててみても始まらないでしょう」と、強い口調で言ったはずだった。だから「私」は鞄を本当に手放すことができるのかと思い、「大丈夫かい」と確認する。またこれは、万が一そのとても気になる鞄が盗まれでもしないかと心配した言葉でもある。
青年「どういう意味ですか」
私「下宿から、ここまで、鞄なしでたどり着けるかな」
青年は既に、鞄なしでは移動できない体になっている。行先を決めるのは、鞄だ。従って、「私」の心配は、青年にあるのではなく、その鞄と再び会うことができなくなるのではないかという一点だ。少しの坂を嫌がる鞄だ。今日はたまたま自分の事務所にたどり着いた青年(鞄)だが、場所が下宿に変わっても同じようにここにたどり着けるとは限らない。むしろたどり着けない可能性の方が高いかもしれない。そのことを「私」は心配している。

私「身軽になりすぎて、途中で脱線したりするんじゃないのかい」
少しの冗談めいたことを言うことによって、「私」は青年に取り入ろうとしている。
「脱線」は、横道に逸(そ)れる意味で言っているが、その一方で、電車のレールをイメージさせる。下宿先から自分の事務所まで仮想のレールを敷き、そこから決して外れずに、鞄とともにまっすぐ事務所に来てほしいという「私」の願望の表れだ。

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