宮澤賢治「なめとこ山の熊」について3「どうしても雪だよ、おっかさん谷のこっち側だけ白くなっているんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん」

 小十郎はもう熊のことばだってわかるような気がした。ある年の春はやく山の木がまだ一本も青くならないころ小十郎は犬を連れて白沢をずうっとのぼった。夕方になって小十郎はばっかぃ沢へこえる峯(みね)になった処(ところ)へ去年の夏こさえた笹小屋へ泊ろうと思ってそこへのぼって行った。そしたらどういう加減か小十郎の柄にもなく登り口をまちがってしまった。
 なんべんも谷へ降りてまた登り直して犬もへとへとにつかれ小十郎も口を横にまげて息をしながら半分くずれかかった去年の小屋を見つけた。小十郎がすぐ下に湧水(わきみず)のあったのを思い出して少し山を降りかけたら愕(おどろ)いたことは母親とやっと一歳になるかならないような子熊と二 疋(ひき)ちょうど人が額に手をあてて遠くを眺めるといったふうに淡い六日の月光の中を向うの谷をしげしげ見つめているのにあった。小十郎はまるでその二疋の熊のからだから後光が射すように思えてまるで釘付けになったように立ちどまってそっちを見つめていた。すると小熊が甘えるように言ったのだ。
「どうしても雪だよ、おっかさん谷のこっち側だけ白くなっているんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん」
 すると母親の熊はまだしげしげ見つめていたがやっと言った。
「雪でないよ、あすこへだけ降るはずがないんだもの」
 子熊はまた言った。
「だから溶けないで残ったのでしょう」
「いいえ、おっかさんはあざみの芽を見に昨日あすこを通ったばかりです」
 小十郎もじっとそっちを見た。
 月の光が青じろく山の斜面を滑っていた。そこがちょうど銀の鎧(よろい)のように光っているのだった。しばらくたって子熊が言った。
「雪でなけぁ霜だねえ。きっとそうだ」
 ほんとうに今夜は霜が降るぞ、お月さまの近くで胃(コキエ)もあんなに青くふるえているし第一お月さまのいろだってまるで氷のようだ、小十郎がひとりで思った。
「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花」
「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕知ってるよ」
「いいえ、お前まだ見たことありません」
「知ってるよ、僕この前とって来たもの」
「いいえ、あれひきざくらでありません、お前とって来たのきささげの花でしょう」
「そうだろうか」子熊はとぼけたように答えました。小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになってもう一ぺん向うの谷の白い雪のような花と余念なく月光をあびて立っている母子の熊をちらっと見てそれから音をたてないようにこっそりこっそり戻りはじめた。風があっちへ行くな行くなと思いながらそろそろと小十郎は後退(あとずさ)りした。くろもじの木の匂いが月のあかりといっしょにすうっとさした。

(青空文庫より)

「小十郎はもう熊のことばだってわかるような気がした。」
このパートの結論が、初めに述べられる。小十郎は、熊の言葉を理解し、熊の心を理解することができる。敵同士であっても、互いが互いの状況、背景、心情を理解しているというやるせなさ。

「春はやく山の木がまだ一本も青くならないころ」に、「笹小屋」に泊まるのは寒かったろう。

「そしたらどういう加減か小十郎の柄にもなく登り口をまちがってしまった。」
日常からの逸脱には、事件が待っている。

陰暦「六日の月」は、半月の一日前なので、半月とほぼ同じ形と明るさだ。山の斜面に母熊と子熊が並んでおり、ふたりで一緒にしげしげ向こうの谷を眺めている。
「春はやく山の木がまだ一本も青くならないころ」、山の斜面に「母親とやっと一歳になるかならないような子熊と二 疋(ひき)ちょうど人が額に手をあてて遠くを眺めるといったふうに」「向うの谷をしげしげ見つめている」。あたりには、「淡い六日の月光」が降り注ぐ。「二疋の熊のからだから」はまるで、「後光が射すよう」だ。
これだけですでに一枚の絵になっている。これだけですでに泣ける。母が子を思う心。子が母を慕う心。何も言わずとも、母子の姿からそれを感じ取ることができる。(賢治さん、設定が卑怯です)
それだけですでに泣けるのに、賢治さんはさらに涙のダメ押しをする。このふたりに、会話をさせるのだ。
この母熊と子熊の会話は、日本文学史上最高傑作(私が知る限りにおいて)の母子の会話だと思う。
とにかく泣ける。泣かずにはいられない。初めはどうして泣くのだろうと我ながら思いつつ、わけもなく泣いた。それで、分析してみた。

まず、「小熊が甘えるように言ったのだ」。
甘えさせてはいけません。子熊の甘える声なんか、聞きたくありません。だって、涙が出ちゃうんだもの。
「どうしても(やっぱり)雪だよ、おっかさん谷のこっち側だけ白くなっているんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん」
この子熊の意地の張り方がカワイイ。あの白いものは、自分には雪にしか見えない。この子熊のセリフの前に、あの白いものは何だろうかと、ふたりは話をしていた。「谷のこっち側だけ白くなっている」ことが、「雪」であることの根拠となりうるのかは定かではないが(北斜面だろうか)、とにかく子熊は「あれは雪だ」と心に決めている。その断定がカワイイ。「僕がさっき言ったとおりでしょ」ということ。

「すると母親の熊はまだしげしげ見つめていたがやっと言った。
「雪でないよ、あすこへだけ降るはずがないんだもの」」
ママは強し。(「母」か?) 子の間違いは、厳しく訂正するのだった。雪は空から降ってくる。場所を限定してそこだけ降ることは不可能だという、科学的根拠(?)に基づく反論だ。時間をかけて判断した結果を伝える、冷静な対応ということになる。子熊の説をちゃんと受けとめて確認しているのだ。

「子熊はまた言った。
「だから溶けないで残ったのでしょう」」
あくまで自説を譲らず、意地を張るカワイイ子熊。愛らしい。ちょっと頬を膨らませ、唇がとがっている様子が目に浮かぶ。(熊に唇あったっけ?)
「だから」の語と、それで始まる言い方がナマイキ。でもそれがカワイイ。卑怯だ。

「「いいえ、おっかさんはあざみの芽を見に昨日あすこを通ったばかりです」
 小十郎もじっとそっちを見た。
 月の光が青じろく山の斜面を滑っていた。そこがちょうど銀の鎧(よろい)のように光っているのだった。」
「雪でない」理由は、「あすこへだけ降るはずがない」からだと言ったにもかかわらず、それでもあくまで「だから溶けないで残ったのでしょう」と言い張る子供に対し、「おっかさんはあざみの芽を見に昨日あすこを通ったばかりです」と、さらなる反論の根拠を示す母熊。言葉で子供に教え諭し、納得させようとする優しい母親の姿がうかがえる。また母熊は、論理的思考の大切さを示している。
この母熊に促されるように、小十郎も「じっとそっちを」見る。この時小十郎は、まだ若かった日の母を思い出しているかもしれない。自分がまるで子供時代に戻ったような、不思議な感覚。
また、それとは逆に、家にいる5人の幼い孫たちを、子熊に重ねてもいるだろう。自分にもまだ幼い子供たちがいる。その子たちを自分は育て上げなければならない。そのためには、まだまだ仕事を頑張らねばならない。そのような、母熊への共感が、小十郎の心を満たしていた。子を思う気持ち。親としての責任感。

母熊が「あすこ」を指した時、「小十郎もじっとそっちを」見る。
「月の光が青じろく山の斜面を滑っていた。そこがちょうど銀の鎧(よろい)のように光っているのだった。」
まだ春は始まったばかりだ。空には半月が浮かんでいる。その「青じろ」い「月の光」は、「山の斜面を滑」るように撫(な)でている。それにより、斜面は光沢を帯び、まるで「銀の鎧のよう」だった。

母親から、自分が実際にそこを通ったから間違いはないと説明され、子熊は「しばらく」考えて言う。
「雪でなけぁ霜だねえ。きっとそうだ」
雪でも霜でも、大して変わりはない。しかし子熊の知識と想像力では、それが限界だ。「きっとそうだ」と言い切る幼さがカワイイ。

母子の心温まるメルヘンの世界を共有し、小十郎は思う。
「ほんとうに今夜は霜が降るぞ、お月さまの近くで胃(コキエ)もあんなに青くふるえているし第一お月さまのいろだってまるで氷のようだ、小十郎がひとりで思った。」
この時小十郎はもう、母子を見守る観客ではない。自分も、「あれは何」問題の参加者の一人なのだ。
子熊が「雪でなけぁ霜だねえ」と考えるのにも一理あると小十郎は思う。なぜなら、「ほんとうに今夜は霜が降るぞ」と感じるほどの寒さだからだ。「お月さまの近くで胃(コキエ)もあんなに青くふるえているし第一お月さまのいろだってまるで氷のようだ」からだ。子熊は季節を感じ理解する心を持っている。子熊の成長がみられる発言と見ている。
小十郎はその子の父親になったような気さえしているかもしれない。小さいなりに自分で考え、それを母に伝えることができる子熊。その愛らしさと同時に、日々成長の過程にあることを感じさせる発言だ。愛する熊たちは、小十郎にとって家族であり、大切な存在なのだ。
しかし現実は厳しい。「小十郎」は、「ひとり」、そう「思」うしかない。できない。自分の存在がもし母熊に知られたら、そこには凄惨な悲劇が生まれるからだ。

「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花」
「なぁんだ、ひきざくらの花だい(だね)。僕知ってるよ」
「いいえ、お前まだ見たことありません(まだ1歳にならないからね)」
「知ってるよ、僕この前とって来たもの(僕の実体験さ。確かな証拠でしょ!)」
「いいえ、あれひきざくらでありません、お前とって来たのきささげの花でしょう(違う花なのよ)」
「そうだろうか」子熊はとぼけたように答えました。

こころを許しあい、信頼しきった母子でなければ成立しない会話。子熊は母熊に突っかかるように、自説を主張する。母熊はそれをやわらかく受け止め、しかし正しいことは何かを教え諭す。
そうして最後に子熊は、「そうだろうか」と「とぼけたように」母の言葉に従う。「そうだね」じゃない。「そうだろう」でもない。「そうだろうか」がとぼけていてカワイイ。子熊はまだ自説にこだわっている。しかしここは母の言葉が正しいようにも感じる。でもそれを素直に認めたくもない。なんか、負かされた気がする。それはいやだ。それが、「そうだろうか」にあらわれている。
「そうだね」は、肯定。「そうだろう」は推量。「そうだろうか」は疑問。子熊は疑問形にすることによって、最後の小さな反抗をしているのだ。カワイイ。母熊はすべてわかっている。子熊の意地を理解してあげている。だから、「そうだろうか」の後に、母熊の言葉はないのだ。子熊の最後の小さな反抗を温かく受け止め、見逃してあげたのだ。

「あれは何」問題の参加者である小十郎は、「胸がいっぱいに」なる。母熊の思いも、子熊の気持ちも、痛いほどよくわかるからだ。途中に挿入されている「なぜか」は、「熊の言葉や気持ちを人間の小十郎が理解できるはずがないのに」という意味だが、熊たちへの小十郎の共感は深い。

そうして小十郎は、「もう一ぺん向うの谷の白い雪のような花と余念なく月光をあびて立っている母子の熊をちらっと見てそれから音をたてないようにこっそりこっそり戻りはじめた。風があっちへ行くな行くなと思いながらそろそろと小十郎は後退(あとずさ)りした。くろもじの木の匂いが月のあかりといっしょにすうっとさした。」
小十郎は、母子のメルヘンの世界を壊したくないと思っている。ここで自分の存在が知られたら、たちまち殺し合いが始まってしまう。子連れの母熊は子を守るために神経が過敏になっているという。人間から見れば、凶暴で危険な存在だ。

しかしここでは小十郎の作戦が成功する。「くろもじの木の匂い」が小十郎の気配を消し、彼が去った後に「月のあかり」がさす。

親子の深い信頼関係の尊さ。自然に対する畏敬の念。他者への共感。それらが聞き手の感動を生む。


○余録
「どうしても雪だよ、おっかさん谷のこっち側だけ白くなっているんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん」
私はここが、「どうしても」気になる。
何かというと、この句読点通りに素直に読むと、「おっかさん谷」にならざるをえない。「白くなっているんだもの。」や、「どうしても雪だよ。」には、ちゃんと「。」が付されている。ここを音読すると、自然と、「おっかさん」と「谷」の間に「。」を入れてしまう。しかし、本来、「。」はない。
ということは、やはり、「おっかさん谷」ということになる。
一見、おかしな表現に思えるが、だんだん、「おっかさん谷」もなかなかいいと思えてくるのが不思議だ。
「おっかさん谷」であれば、やはり小熊が名付けたのだろう。その姿がおっかさんに似ているか、何かそこにおっかさん由来の物や思い出があるかだろうが、いずれにしても、その谷を見ると、小熊は「おっかさん」と呼びたくなる。そういう谷なのだ。
だから、これはこれでしみじみいい。むしろ、こちらの方がいいとさえ思われる。

「どうしても雪だよ。」と言ったあと、小熊はおっかさんを見上げ、「おっかさん」と呼びかける。泣ける。



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