安部公房「鞄」を読む6(最終回)~あなたは鞄に飲み込まれる「4人目」になりますか?

鞄による支配。いつの間にかそれを「楽」だと受け入れる自分。意志、思考、判断、それらを売り渡してしまったら、もはや人ではない。それはもう、他者に従うだけのロボットだ。
「私」は、自ら望んで、まさにその「道」を選択してしまった。

少し立ち止まって考えると、青年は、あたかも鞄に支配された物言いをしているが、実はすべて自分で決めて行っている。最終的な判断は、やはり自分の意志にあるのだから。鞄には、抗いがたい魅力がある。しかしそれに従うのは、他でもない自分自身。従うという選択をしてしまったのは、ほかならぬ自分だ。それをわざと鞄のせいにしている。何かのせいにするのは、人の常だ。

鞄から逃れるただ1つの方法。
それは、とても簡単だ。
鞄を持たなければいいだけのことだ。

青年はやっと、自分本来の意志を認め、自分の意志でその後の人生を歩きだそうとする。
しかし「私」は違う。青年の暗示にすっかり魅了された私は、青年の示した、鞄による意志決定の罠にかかってしまった。自分ではない何か他のモノによる意思決定。その楽さ加減に、そこからはもう抜けられなくなってしまう。「私」は、他者による自己決定の沼に沈みこむ。それは支配されることだとも気付かずに。

次に、丸山真男「日本の思想」の一節を紹介したい。これは、「「である」ことと「する」こと」という題で、高校の教科書によく採られているが、「鞄」の理解のためにとても参考になる文章だ。
まず、末広厳太郎の民法の講義が紹介される。「時効」という制度は、「権利の上に長く眠っている者は民法の保護に値しない」という考え方からできており、「請求する行為によって時効を中断しない限り、単に自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジック」には、「きわめて重大な意味が潜んでいる」。日本国憲法第十二条には、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と記されている。「この規定は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという憲法第九十七条の宣言と対応しており」、「自由獲得の歴史的なプロセスを、いわば将来に向かって投射したものだといえ」、「そこにさきほどの「時効」について見たものと、著しく共通する精神を読みとることは、それほど無理でも困難でもないでしょう」とする。権利の行使を怠っていると、その権利自体を失ってしまうということは、「歴史的教訓」であり、「自由を市民が日々行使する」困難さを乗り越える必要が、我々にはある。「日々自由になろうとすることによって、はじめて自由であり得るということなのです。その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえ何とか安全に過ごせたら、物事の判断などは人に預けてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々と寄りかかっていたい気持ちの持ち主などにとっては、はなはだもって荷厄介な代物だといえましょう」。
「自分は自由であると信じている人間はかえって、不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることを怠りがちになるために、実は自分自身の中に巣食う偏見から最も自由でないことがまれではないのです」。
まるでこの丸山真男の考えを物語化したものが「鞄」であるようだ。

〇まとめ
自由という大切な基本的人権を守るためには、その行使に積極的でなければならない。他者の規制に甘んじ、他者に任せておけば楽だという姿勢では、自由を手放してしまったも同然だ。厄介なのは、人の怠惰と、自由でないのにあたかも自由であるかのように錯覚してしまうことだ。我々は自由を行使しようと日々努力しなければならない。

〇あとがき
この物語に登場する鞄の特徴を再検討したい。
「大きすぎる」。「なかみ」は「大したものじゃ」ないが、不明。膨らみ具合も説明されない。「ずっしり腕にこたえ」る重さ。「行き先を決めてしまう」・「ちゃんと」「導いてくれる」。「ためら」いや「不安は感じな」い。「道」を「選ぶ」必要がない。「嫌になるほど」の「自由」を満喫できる。

この鞄は、本来自分でそうしなければならないことを、代わりに考え、判断してくれる。鞄に委(ゆだ)ねることで、その持ち主は大変「楽」になる、思考と判断の代替装置だ。
思考と判断は、時に重く・大きく感じられる。特に、人生に関わるような重大な場面では、なおさらだ。「重大」なものは、まさに「重」く「大」きい。
だから青年は、鞄の扱いに窮している。自己判断の権利が、完全に奪われているからだ。その一方で、それに導かれるままに進めばいいという「楽」さも、簡単に捨てることはできない。

しかし、いくら「楽」だからといって、思考と判断を他者に委ねるのは大変危険だ。他者に、自分の未来を譲り渡すことになるからだ。大切な自分という存在を、他者に売り渡すことになるからだ。「楽」の代償は、あまりにも大きい。

それにしても人間とは、なんと怠惰で愚かな存在なのだろう。「楽」を優先し、規制に慣れ、そのような状態の自分を「自由」だと、いとも簡単に勘違いする・思い込む。もはや「鞄なし」では、「身軽になりすぎて、途中で脱線したりするんじゃない」かとさえ危惧するようになる。
それへの警鐘が、この「鞄」という物語だ。
思考・判断の結果、自分の前に開かれる「道」。本来それは、自らによって選択されるべきものだ。

だから、「私は嫌になるほど自由だった」という最後のセリフは、自分の愚かさによって安易にその鞄の所有者となってしまったことへの自嘲だ。

「鞄」はただ、そこにある。
そうして、何も語らない。
それなのに、人は勝手に魅力を感じ、ふと手に持ってみたいという誘惑にかられる。
しかし、一度この鞄を持ち、それに慣れてしまったら、やがてあなたも、鞄に飲み込まれるひとりとなる。
この鞄は、過去にそうなってしまった人の「死体」で膨らんでいるのだ。
やけに重いのは、それらの人々の体の重さと人生の重さと後悔の重さのためだ。

未熟で愚かな「赤ん坊」のようなあなたは、鞄に飲み込まれる「4人目」になりたいですか?
あるいは既に……




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