夏目漱石「それから」1-1②
◇評論
この部分の要点は、最後の、「彼は旧時代の日本を乗り超えてゐる」に集約される。
寝床から起き上がり、布団に座る代助は、掛布団から「両手を出して」「枕元の新聞を取り上げた」。「両手」で「大きく左右に開(ひら)」いた紙面には、「男が女を斬(き)つてゐる絵」があり、その凄惨さへの嫌悪感からか、「彼はすぐ外(ほか)の頁(ページ)へ眼(め)を移した」。「学校騒動」の記事を「しばらく」「読んでゐた」代助は、「やがて、惓怠(だる)さうな手から、はたりと新聞を夜具の上に落し」、「烟草を一本吹かしながら、五寸許り布団を摺(ず)り出し」、「畳の上の椿を取つて、引つ繰り返して、鼻の先へ持つて来」る。すると、「口と口髭(くちひげ)と鼻の大部分が全く隠れ」、「烟りは椿の瓣(はなびら)と蕊(ずい)に絡(からま)つて漂(ただよ)ふ程濃く出た」。「それを白い敷布の上に置くと、立ち上がつて風呂場へ行つた」。この一連の動きが、何の滞りもなく行われる。これが平日で、一般の勤め人であれば、朝は忙しくせわしないものだ。それに対して代助という人は、朝を悠長に過ごしている。それとも、休日の様子なのか。自分の精神と身体の状態をこれほど詳しく分析し、また、この後にも続くのだが、とても美的で豊かさに価値を置く振る舞いをする。明治期には「高等遊民」と呼ばれた存在があったが、代助はまさにその名にふさわしい人だ。「畳の上の椿を取つて、引つ繰り返して、鼻の先へ持つて来」るなどは、やけにキザなしぐさだ。ナルシスト、自己愛の強さを感じる。
次の部分では、代助の朝の風景を描くことにより、彼のものの考え方や価値観を表す。「叮嚀(ていねい)に歯を磨」く。「彼は歯並びの好(い)いのを常に嬉しく思つてゐる」。ついで、「肌を脱いで綺麗に胸と脊(せ)を摩擦」。「彼の皮膚には濃(こま)やかな一種の光沢(つや)がある」。「香油を塗り込んだあとを、よく拭き取つた様に、肩を揺(うご)かしたり、腕を上げたりする度に、局所の脂肪が薄く漲(みなぎ)つて見える。かれは夫(それ)にも満足である」。「次に黒い髪を分け」る。「油(あぶら)を塗(つ)けないでも面白い程自由になる」ことにも満足する。「髭(ひげ)も髪同様に細く且つ初々しく、口の上を品よく蔽ふてゐる」。「其ふつくらした頬を、両手で両三度撫でながら、鏡の前にわが顔を映」す。それは、「丸で女が御白粉(おしろい)を付ける時の手付と一般であつた」。「実際彼は必要があれば、御白粉さへ付けかねぬ程に、肉体に誇りを置く人である」。「彼の尤も嫌ふのは羅漢の様な骨骼と相好(さうごう)で、鏡に向ふたんびに、あんな顔に生まれなくつて、まあ可かつたと思ふ位である」。「其代り人から御洒落と云はれても、何の苦痛も感じ得ない」。
この部分はとてもわかりやすく、また的確に代助の人間像を表している。
彼は自分の身体を大切に扱い、また、それに誇りを持っている。よい歯並び、つやを帯びた美しい肌と筋肉、自由になる黒髪、上品な口ひげ、ふっくらした頬。女性的で人からおしゃれと言われても「何の苦痛も感じ得ない」。エステやサロンに通う男性が昨今話題になっているが、既に明治期にこのような人がいたのだ。外見を気にし、自分の容姿に自信と誇りを持っている。現代日本社会で認知されつつあるこのような男性を明治期に描くことは、とても挑戦的・先進的なことだったろう。
そうして以上の部分は最後に、「それ程彼は旧時代の日本を乗り超えてゐる」とまとめられる。代助は、新時代を生きる人物として規定される。
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