森鷗外「舞姫」(本文・口語訳・評論)14~我学問は荒みぬ

◇本文
 我学問は荒(すさ)みぬ。屋根裏の一燈微に燃えて、エリスが劇場よりかへりて、椅子に寄りて縫ものなどする側の机にて、余は新聞の原稿を書けり。昔しの法令条目の枯葉を紙上に掻寄(かきよ)せしとは殊にて、今は活溌々たる政界の運動、文学美術に係る新現象の批評など、彼此と結びあはせて、力の及ばん限り、ビヨルネよりは寧ろハイネを学びて思を構へ、様々の文(ふみ)を作りし中にも、引続きて維廉(ヰルヘルム)一世と仏得力(フレデリツク)三世との崩殂(ほうそ)ありて、新帝の即位、ビスマルク侯の進退 如何(いかん)などの事に就ては、故(ことさ)らに詳(つまびら)かなる報告をなしき。さればこの頃よりは思ひしよりも忙はしくして、多くもあらぬ蔵書を繙(ひもと)き、旧業をたづぬることも難く、大学の籍はまだ刪(けづ)られねど、謝金を収むることの難ければ、唯だ一つにしたる講筵だに往きて聴くことは稀なりき。
 我学問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにといふに、凡(およ)そ民間学の流布(るふ)したることは、欧洲諸国の間にて独逸に若(し)くはなからん。幾百種の新聞雑誌に散見する議論には頗(すこぶ)る高尚なるもの多きを、余は通信員となりし日より、曾(かつ)て大学に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、読みては又読み、写しては又写す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自(おのづか)ら綜括的になりて、同郷の留学生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。彼等の仲間には独逸新聞の社説をだに善くはえ読まぬがあるに。

(青空文庫より)

◇口語訳
 私の学問は荒廃した。(私たちが暮らす)屋根裏部屋の一灯はかすかに燃え、エリスが劇場から帰り、椅子に座って縫物などをするそばの机で、私は新聞の原稿を書いた。以前、枯葉のように無味乾燥な法令条目をかき集めてノートに書き写した時とはまったく違い、今は活発な政界の運動や、文学、美術に関わる新現象の批評など、あれこれと(情報と知識を)結び合わせて、力の及ぶ限り、ビヨルネよりはむしろハイネを学んで構想を深め、さまざまな文章を書き記した中でも、ウィルヘルム1世とフレデリック3世の崩殂が続き、新帝の即位や、ビスマルク候の進退の今後についてなどのことについては、特に詳しい報告をした。だからこの頃から思った以上に忙しく、少ない蔵書を開き、以前学んでいた学問を深めることも難しく、大学はまだ除籍になってはいなかったが、授業料を収めることが難しかったので、ただ一つにした講義でさえ聴講することはまれであった。
 私の学問は荒廃した。しかし私は一種の見識を育て身に付けた。それは何かというと、欧州諸国の中で、ドイツほど民間学が流布している国はないだろう。何百種類の新聞や雑誌に散見される議論には、とても高尚なものも多いが、私は通信員となった日から、かつて大学に足しげく通った時に学び得た物事の本質を見抜く力で、読んではまた読み、記述してはまた記述するうちに、いままで一本の道だけを走っていた知識は自然と総括的になり、同郷の留学生などの大半は想像もできない境地に至った。彼らの中には、ドイツ新聞の社説でさえ、読んで十分に理解できない者がいるのに。

◇評論
 この部分では、「我学問は荒みぬ」が二度繰り返される。
 一度目の部分は、エリスとの生活を成り立たせるために必要な通信員としての仕事がとても忙しく、留学の本来の目的だった法学を学ぶ機会が失われたことを嘆いている。
 これに対し、二度目の部分は、確かに法学の研究は疎かになってしまったが、「別」の「見識」=「民間学」・「綜括的」教養を身に付けることができたという自負を述べる。

 「屋根裏の一燈微に燃えて、エリスが劇場よりかへりて、椅子に寄りて縫ものなどする側の机にて、余は新聞の原稿を書けり」からは、エリスと太田がつましいながらも身を寄せ合って暮らす様子が伺われる。エリスにとっては貧しいながらも愛する人との幸せな暮らしだ。これに対し、「我学問は荒みぬ」でわかるとおり、太田にとっては、不本意で不安定な暮らしということになる。ふたりの意識の違いが浮き彫りになる部分だ。「屋根裏の一燈微に燃えて」は、ふたりの生活のわびしさと、エリスの喜び、その反面、彼女の命の灯の儚さが読み取れる。

 もう一度説明したい。
 エリスにとっては、「屋根裏」でよいのだ。ふたりを照らす明かりは、「一燈微に燃えて」いればいい。そうして彼女は、「新聞の原稿を書」いている太田のそばにいるだけで、十分に幸せなのだ。どんなに貧しくとも、自分を愛してくれる存在がいる。そう感じていたこの時のエリスは、幸せだったろう。

 「昔しの法令条目の」以降の部分は、読点により長々と続けられ、この時の太田が忙しく通信員の仕事に励む様子を表している。実際この時、国際関係の変化や、それに伴うドイツの情勢についての情報は、日本にとっても必要・有益なものだったろう。その点においてここでの太田の仕事は、彼自身はそれほどの価値を見出していないようだが、日本にとって決して小さなものではなかっただろう。また彼は、政治や国際関係についてだけでなく、「文学美術に係る新現象の批評」も、ものしている。多分野に関する幅広い知識と教養が求められる役割を、彼は立派に果たしていた。
 これらの太田の仕事ぶりを、相沢が日本で観察していたことは容易に想像できる。そうしてそれらの情報を上司である天方伯に示すことで、太田の復活を目論んでいたと考えても不思議ではない。

 「旧業」は、法律の研究を指す。太田はおそらく明治憲法を作る参考とすべくプロシャ憲法を研究するために派遣されたことを以前示したが、近代日本の礎をかたちづくる役割の喪失は、やはり彼に虚無感を抱かせただろう。日々の仕事の忙しさに、たった一つの講義すら聞くことができなくなってしまった太田。自分はどうなってしまうのだろうと、彼は思っている。

 太田は、民間学・「綜括的」教養を身に付けることができたという自負を示すが、この部分は、やや太田の強がりにも読める。本来の学問は荒んだが、それに代わってより有益なものを自分は身に付けることができた、とする太田。 

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