安部公房「鞄」を読む3

次の場面からは、「私」の求人広告への応募という話題と、青年の鞄の話題がそれぞれ別々に展開する。しかし両者の会話は、会話として成立しているところがおもしろい。「私」の興味が深まるにつれ、次第に鞄の話題だけになり、最後にはまた就職の話に戻る。

私「うちで採用してあげられなかったら、どうするつもり」…求人の話題
青年「振出しに戻ってから、またあらためてお願いに上がることになるでしょうね。地形に変化でも起きないかぎり……」…就職(鞄)の話題
「振出しに戻ってから」①雇用されないのであれば ②自宅に戻ること
「またあらためてお願いに上がることになるでしょうね」①再度、求人に応募することになる ②この事務所に用はないのだが、鞄が勝手にここに連れてくるだろう
「地形に変化でも起きないかぎり……」①よほどのことがない限り ②実際に地形変化が起こらない限り、行先は既にここだと決まっている

先ほど「自宅に戻る」と述べたが、実は、この青年はどこから来たかが分からない。住まいが述べられていないのだ。自宅なのか、下宿なのかがまったく書かれていない。
しかし、この謎はやがて明らかになる。結末部分を先取りして説明すると、鞄を譲り受けた「私」は、自動歩行を強いられるのだが、「そのまま事務所に引き返すつもりだったが、どうもうまくいかない」のだ。「やむをえず、とにかく歩ける方向に歩いてみるしか」なく、「そのうち、どこを歩いているのか、よく分からなくなってしまった」。
この鞄は、恐ろしい鞄だ。一度手に持ったが最後、永遠に歩きつづけさせられるのだ。しかもそれを苦だと思わせない。「不安」を消し、「自由」だけを自覚させる、まさに麻薬のような鞄だ。

私「しかし、君の体力に~新しい道を選べるようになるとかすれば……」…鞄の話題
青年「そんなにぼくを雇いたくないんですか」…急に応募の話題に戻る
私「可能性を論じているだけさ。君だって、もっと自由な立場で職選びができれば、それに越したことはないだろう」…応募の話題
「私」のこのセリフには、裏に鞄の意味がかけられている。「もっと自由な立場」が、君は欲しくないのか? その「可能性」にかける意思はないか? 選択権が得られれば、「それに越したことはないだろう」。
青年「この鞄のことは、誰よりもぼくがいちばんよく知っています」…また鞄の話題に戻る
鞄による制約によって、「自由」が奪われているのではないかという指摘に対する返事。あくまでも「自発的」にこの鞄に従っているのだから、余計な口出しは無用だということを端的に述べたもの。

私「なんなら、しばらく、あずかってみてあげようか」…鞄の話題
これはこの物語にとって非常に重要なセリフだ。
青年は、この言葉を待っていた。彼はこれにより、鞄から解放される。
「私」は、それほどまでに青年を魅了する鞄に強い興味を持ち始めている。青年に対して、「あくまでもよかったらでいいのだけれど、少しの間、預からせてもらうことも可能だよ」というやんわりとした言い方になっている。
しかしここには、「私」にとっての罠がある。「なんなら」、「しばらく」、「みてあげよう」、「か」という表現は、すべて、「とりあえず、可能であれば、そうしてみよっかなー」という形をとっている。ここには、危険なもの、それに触れてはいけないものに対し、好奇心から近づいてしまう、人の弱さ・愚かさが表現されている。きれいなバラには棘(とげ)がある。やってはいけないことは、試してもいけないのだ。ミイラ取りがミイラになる。試しにであっても、一度その鞄を持ったら最後なのだ。
「私」にしてみれば、軽い気持ち・好奇心で言ったひとことと行動が、人生の分かれ目になってしまった。

青年「まさか、そんなあつかましいこと……」…鞄の話題
「まさか」には、鞄を持つなどという危険なことをするなんて「まさか」という意味も込められている。「あつかましいこと」にも、こんな危険なものを預かってもらうなんて申し訳ないと遠慮する意味が含まれている。

私「なかみはなんなの」…鞄の話題
いつも持ち歩くほど大切なものは、普通他人に預けない。だから「私」は、「なかみ」を確認しようとする。なにせ、「赤ん坊の死体」が「三つ」、「押し込め」られているかもしれないのだ。

青年「大したものじゃありません」…鞄の話題
「私」にしてみれば、とても思わせぶりなセリフだ。いよいよ好奇心が掻き立てられる。ぜひ一度自分も持ってみたくなる。

私「口外をはばかられるようなものかな」…鞄の話題
もしかして、やはり、「死体」? なにか犯罪にかかわるもの?

青年「つまらない物ばかりです」…鞄の話題
またもや思わせぶりなセリフ。もったいつけるにもほどがあると「私」は思うだろう。いよいよ持ってみたくなる。

私「金額にしたら、いくらぐらいになるの」…鞄の話題
「死体」ではなく、逆に高価なものが入っているのかもしれない。もしそうならば、どれくらいの価値のあるものなのか。
もうすでに「私」は、鞄のことで頭がいっぱいになっている。鞄のことしか考えられない。鞄にとりつかれた「私」。

青年「べつに貴重品だから、肌身離さずってわけじゃありません」…鞄の話題
青年は、「金額」に直接答えることはせず、中身を曖昧なままにする。そうして、たとえ貴重品だとしても、それが理由で「肌身離さず」持っているわけではないと、話をズラして説明する。

私「しかし、知らない人間が見たら、どう思うかな。~ひったくりや強盗に目をつけられたら、お手上げだろう」…鞄の話題
「私」は、鞄の中に貴重品が入っているという線で話を続ける。青年が鞄を、肌身離さず持っているからだ。

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