夏目漱石「それから」3-4
◇評論
父親と息子の実のない会話は続く。いつまでもお坊ちゃん然とした息子に噛んで含めるように父親は話をする。
わざと小学生を相手にしたような話の進め方をすることによって、父親は代助に道理を説こうとしている。それに対する代助の返事は実に幼く聞こえ、これを表面上素直に受け取ると、発達段階に疑問を持つほどだろう。代助は東京大学を出ている。しかも「成蹟も可(か)なりだつた」。その彼がこの受け答えでは、父親は自分が馬鹿にされているか、または精神発達に遅滞が生じているかのどちらかだと思うだろう。いかにも世慣れない、いつまでも子供な息子ということになる。
この物語冒頭で代助は、自分の心臓の鼓動の変調を大変気にしていた。その彼が実際は「二三年このかた風邪を引いた事」も無いのだった。精神の緻密さ過敏さと、身体の健全さがマッチしていない男だ。体は至って健康で、心は病み気味。神経過敏は身体にも悪影響を及ぼすことが多いが、代助の場合その影響は心臓だけに限られている。
代助の体と能力の話の流れで、自然と平岡に話題が移るところが巧みだ。そうして父親が例に出した平岡は「失敗(しくじ)つて、もう帰つて来」た。せっかく例に挙げた相手の「失敗」。父親の話はどうもその意図どおりには進まない。代助よりも能力が劣る男が出世した例として平岡を挙げたのに、その人に失敗されては父親もたまらない。例に挙げた甲斐がないということだ。
ここで代助はわざとねじった論理を展開する。代助よりも劣った友人が失敗したのであれば、なおさら優秀な代助は、世に出て活躍しなければならなくなる。それを隠して父親の論理批判に友人の失敗を挙げるのは卑怯なやり方であり、ごまかしの論理だ。少なくとも平岡は一度世に出て4年間働いた。それに対して代助は大学卒業後一度も世に出ず、相変わらずのニート暮らし。代助に平岡の失敗を批判・論評する資格はない。また、それを口実に、父親の言葉尻をつかまえて父親に皮肉を言う資格もない。父親は、そこまで考えが及ばない人のようで、ただ代助に皮肉を言われるままに「苦笑」をするだけだった。
「食ふ為に働く」と「失敗」するという、以前も述べられた代助の仕事観が繰り返される場面。代助は、「処世上の経験ほど愚なものはない」と思っている。「パンに関係した経験は、切実かもしれないが、要するに劣悪」であり、「パンを離れ水を離れた贅沢な経験をしなくっちゃ人間の甲斐はない」と平岡に語っていた。代助のこの考え方は、のちに平岡によって、「そうすると、君のような身分のものでなくっちゃ、神聖の労力はできないわけだ。じゃますますやる義務がある」という当然の批判を受けることになる。
代助のこの物言いは、相手を馬鹿にしたセリフだ。これでは父親でなくても、何を言いたいのかわからない。賢こぶって抽象化した表現を用い、相手を煙に巻こうとしている。意味が理解できればよし、理解できなければそれまでのことだ、という態度。つまり、父親に理解してもらおうとは全く思っていない。これは相手を馬鹿にした失礼な態度であり、父親はよく怒らないものだ。
代助は平岡の行為に対し、「其場合々々で当然の事を遣る」と認めているようだ。ただ、これは、平尾が世渡りをする上で必要なことをしただけであるということだろう。また、まだ明らかになっていない、平岡自身の欲に絡む何かも、「当然の事」と認めているようだ。しかしそれは世渡りや欲を満たすことが目的である以上、「矢っ張り失敗(しくじり)になる」のだと思っている。
これに対し事情を知らない父親は、「其場合々々で当然の事を遣」れば、当然「失敗(しくじり)」にはつながらないと考える。つまり、「当然」の後に生ずる結果が、息子と父親の間では正反対になっていることが重要だ。だから息子の話が不審な父親は、「「はあゝ」と気の乗らない返事」をするしかない。
父親は「やがて調子を易(か)へて、説き出した」。
「若い人」の「失敗」は、「全く誠実と熱心が足りないからだ」。自分「多年の経験で」それは確信している。「どうしても此二つがないと成功しない」と。この父親の人生訓は、父親自身の「経験」から来ている。だから父親には確信がある。しかし代助にはそれが通じない。
「誠実と熱心があるために、却つて遣り損ふこともあるでせう」
性急な近代化の波に揺られた代助は、父親世代の価値観とは全く違う世界に住んでいる。代助にとって「誠実と熱心」は無価値な胡散臭いだけのものであり、嫌悪感すら抱いている。「第一字が嫌だ。其上文句が気に喰はない。誠は天の道なりの後へ、人の道にあらずと附け加へたい様な心持がする」とはそういうことだ。「天」は「神」と言い換えられる。この世を支配する絶対の存在。しかし代助は、それによって支配される「人」にはなりたくないと考える。
確かに父親の時代は、誠実さが重要視され、またその価値が認められていただろう。「昔し藩の財政が疲弊して、始末が付かなくなつた時、整理の任に当つた長井は」「刀を脱いで其前に頭を下げて、彼等に一時の融通を頼んだ事がある」。「固より返せるか、返せないか、分らなかつたんだから、分らないと真直に自白」した。そして「それがために其時成功した」。また、藩主の家計経済状況悪化も「精魂を打ち込ん」で立て直すことができた。父親はこのような成功体験を持っているのだ。ゆえにその信念は確固たるものとなった。誠を尽くして正直に依頼すること、精魂込めて何かに取り組むことは、時代が違っても重視される価値観かもしれない。しかしそれは代助には通じない。
「誠実と熱心」をテーゼとする父親に対し、代助は、「誠実も熱心もあるんですが、たゞ人事上に応用出来ないんです」と答える。そうしてその理由を問われ、「代助は又返答に窮した」。「代助の考」は、「誠実だらうが、熱心だらうが、自分が出来合ひの奴を胸に蓄へてゐるんぢやなくつて、石と鉄と触れて火花の出る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が悪くつては起り様がない」というものだ。好ましい「相手」でなければ、「誠実と熱心」は生まれようがないということ。これは当然、裏返せば、「誠実と熱心」には好ましい相手が必要だということになる。相手次第で誕生が決定する価値が「誠実と熱心」だ。誰に対しても誠実であることはできないし、何に対しても熱心であることもできない。「誠実と熱心」は相手を選ぶ価値・作用ということになる。当然代助の「誠実と熱心」は、父親相手には生まれえない。
価値のあるものを盲目的に信用したり言葉の上だけで利用したりするだけで、一度自分で咀嚼し飲み込もうとせず、自らの血肉になっていないさまを批判したのだろう。その価値を自分でよく考え、それに従おうとしているのではないと代助は考えている。
ただ、この代助の判断については、批判する向きもあるだろう。父親は命を懸け、恥を忍んで他者に依頼したり、他者のために精いっぱい取り組んだという尊い経験を持っている。これらはすべて自分が実際に経験したものだ。それを時代・世代が違う代助が批判したり無価値だとすることも間違っているだろう。昔の価値観に自分が縛られることが嫌なのだろうが。
父親は、息子の言葉の意味を理解しかねている。ここで「長井は」としたのは、「長井」家の代表者としてこれまで様々な困難に立ち向かった父親であることを表現している。父子の隔絶。また彼の経験からくる信念は、息子には共有されない寂しさも表す。父親は、「書物癖のある、偏窟な、世慣れない若輩のいひたがる不得要領の警句として、好奇心のあるにも拘はらず、取り合ふ事を敢てしなかつた」。父親にとって代助は、「長井」家の血を受け継ぐ一員とはとても思われない異質な存在であり、了解不能な他者なのだ。
代助の思考や他者への態度は、いかにも「世慣れない」。不快な他者との真のコミュニケーションを拒絶している。ゆえにそれは成立しない。相手には、不可解な存在、子供じみた理想・空想の世界に遊ぶお坊ちゃんと取られる。嫂との関係も、真のコミュニケーションは不成立だ。表面的にその場を面白おかしく過ごしているだけで、自分に真面目に迫らない相手だから交流が成り立っている。また代助は、自分の考えを丁寧に相手に伝えようとしない。それを初めからあきらめているかのようだ。自分は他者には理解しえない存在と認識している。平岡との会話でも、代助は自分の考えを抽象的に述べるだけで、相手の理解を得るための丁寧な説明をしない。
だから代助が真に自分の考えや意志を他者に発展させようとする時には、大きな軋轢が生ずるだろう。彼にはその訓練と経験が不足し、自説に固執する。思考の根拠もその論理展開も、相手を認め理解を求めることも、すべてが「世慣れない」。彼には破滅・悲劇が待ち受けるだろう。
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