夏目漱石「それから」3-3

◇本文
 代助は今 此(こ)の親爺と対坐してゐる。廂(ひさし)の長い小さな部屋なので、居ながら庭を見ると、廂の先で庭が仕切られた様な感がある。少くとも空は広く見えない。其代り静かで、落ち付いて、尻の据(すわ)り具合が好(い)い。
 親爺は刻み烟草を吹かすので、手のある長い烟草盆を前へ引き付けて、時々 灰吹(はいふき)をぽん/\と叩く。それが静かな庭へ響いて好い音がする。代助の方は金の吸口を四五本手烙(てあぶ)りの中へ並べた。もう鼻から烟(けむ)を出すのが厭になつたので、腕組みをして親爺の顔を眺めてゐる。其顔には年の割に肉が多い。それでゐて頬は痩(こ)けてゐる。濃い眉の下に眼の皮が弛(たる)んで見える。髭は真白と云はんよりは、寧ろ黄色である。さうして、話をするときに相手の膝頭と顔とを半々(はん/\)に見較べる癖がある。其時の眼の動かし方で、白眼が一寸(ちよつと)ちらついて、相手に妙な心持ちをさせる。
 老人は今斯んな事を云つてゐる。――
「さう人間は自分丈を考へるべきではない。世の中もある。国家もある。少しは人の為に何かしなくつては心持のわるいものだ。御前だつて、さう、ぶら/\してゐて心持の好い筈はなからう。そりや、下等社会の無教育のものなら格別だが、最高の教育を受けたものが、決して遊んで居て面白い理由がない。学んだものは、実地に応用して始めて趣味が出るものだからな」
「左様(さう)です」と代助は答へてゐる。親爺から説法されるたんびに、代助は返答に窮するから好加減な事を云ふ習慣になつてゐる。代助に云はせると、親爺の考は、万事中途半端に、或物を独り勝手に断定してから出立するんだから、毫も根本的の意義を有してゐない。しかのみならず、今利他本位でやつてるかと思ふと、何時の間にか利己本位に変つてゐる。言葉丈は滾々として、勿体らしく出るが、要するに端倪すべからざる空談である。それを基礎から打ち崩して懸るのは大変な難事業だし、又必竟出来ない相談だから、始めより成るべく触らない様にしてゐる。所が親爺の方では代助を以て無論自己の太陽系に属すべきものと心得てゐるので、自己は飽までも代助の軌道を支配する権利があると信じて押して来る。そこで代助も已を得ず親爺といふ老太陽の周囲を、行儀よく廻転する様に見せてゐる。
「それは実業が厭なら厭で好い。何も金を儲ける丈が日本の為になるとも限るまいから。金は取らんでも構はない。金の為に兎や角云ふとなると、御前も心持がわるからう。金は今迄通り己が補助して遣る。おれも、もう何時死ぬか分らないし、死にや金を持つて行く訳にも行かないし。月々御前の生計(くらし)位どうでもしてやる。だから奮発して何か為るが好い。国民の義務としてするが好い。もう三十だらう」
「左様(さう)です」
「三十になつて遊民として、のらくらしてゐるのは、如何にも不体裁だな」
 代助は決してのらくらして居るとは思はない。たゞ職業の為に汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考へてゐる丈である。親爺が斯んな事を云ふたびに、実は気の毒になる。親爺の幼稚な頭脳には、かく有意義に月日を利用しつゝある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き出してゐるのが、全く映らないのである。仕方がないから、真面目な顔をして、
「えゝ、困ります」と答へた。老人は頭から代助を小僧視してゐる上に、其返事が何時でも幼気(おさなげ)を失はない、簡単な、世帯離(しよたいばな)れをした文句だものだから、馬鹿にするうちにも、どうも坊ちやんは成人しても仕様がない、困つたものだと云ふ気になる。さうかと思ふと、代助の口調が如何にも平気で、冷静で、はにかまず、もぢ付かず尋常極まつてゐるので、此奴(こいつ)は手の付け様がないといふ気にもなる。

(青空文庫より)

◇評論
・「代助は今 此(こ)の親爺と対坐してゐる。」
 代助と父親の、心理的対決の場面。代助はいやいや父親の前に座っている。だから、話の中身よりも、それ以外の事に気を取られている。この場面の描写が、なかなか本題に入らないのはそのためだ。

・「廂(ひさし)の長い小さな部屋」、「廂の先で庭が仕切られた様な感」、「空は広く見えない」などは、父親の前に座らせられた代助の閉塞感・嫌悪感を表す。その一方で、この部屋の「静か」さや「落ち付」き、「尻の据(すわ)り具合」の良さは感じている。

・「親爺は刻み烟草を吹かすので、手のある長い烟草盆を前へ引き付けて、時々 灰吹(はいふき)をぽん/\と叩く。それが静かな庭へ響いて好い音がする。」
 息子を前に、これからどうしたものかと考えている様子。自分は余裕があるのだということも表したいのだろう。ふたりは無言であり、辺りも静かなため、キセルの灰を落とす音が響く。

・「代助の方は金の吸口を四五本手烙(てあぶ)りの中へ並べた。もう鼻から烟(けむ)を出すのが厭になつたので、腕組みをして親爺の顔を眺めてゐる。」
 父親がタバコをふかすだけで黙っているので、代助もそれに応ずるしかない。彼を呼んだのは父親であり、話し始めるとすれば父親からだと代助は思っている。彼は決して自分から話そうとはしない。これに対し、目の前で腕組みをし、自分の顔をじっと眺める息子に、父親は様々なことを思うだろう。

 代助の父親観察は続く。
「其顔には年の割に肉が多い。それでゐて頬は痩(こ)けてゐる。濃い眉の下に眼の皮が弛(たる)んで見える。髭は真白と云はんよりは、寧ろ黄色である。さうして、話をするときに相手の膝頭と顔とを半々(はん/\)に見較べる癖がある。其時の眼の動かし方で、白眼が一寸(ちよつと)ちらついて、相手に妙な心持ちをさせる。」
 その観察は詳細だ。「其顔には年の割に肉が多い」とは、年齢に比べ、まだまだ体力も気力もあふれている様子。しかし歳は隠せない。「頬は痩(こ)けてゐる。濃い眉の下に眼の皮が弛(たる)んで見える。髭は真白と云はんよりは、寧ろ黄色である」。「話をするときに相手の膝頭と顔とを半々(はん/\)に見較べる癖がある。其時の眼の動かし方で、白眼が一寸(ちよつと)ちらついて、相手に妙な心持ちをさせる」。これは、老人臭を帯びた父親の様子と癖だろう。癖はその人特有のものだから何とも言えないものではあるが、しかしやはり他者に不快感を抱かせる。相手はそれが気になって仕方がないような、下品な感じを表したもの。

・「老人は今斯んな事を云つてゐる。――」
 この表現は、代助がまったく父親の話に興味・関心がない様子を表す。だから父親ではなく「老人」という名称になっているのだし、「斯んな事を云つてゐる」と、まるで関係のない他人が勝手に何かを話しているという表現になっている。
 またこの「老人」という普通名詞には、父親だけでなく、世の中の老人はこれと同じように考えふるまうということも表しているだろう。

・「さう人間は自分丈を考へるべきではない。世の中もある。国家もある。少しは人の為に何かしなくつては心持のわるいものだ。御前だつて、さう、ぶら/\してゐて心持の好い筈はなからう。そりや、下等社会の無教育のものなら格別だが、最高の教育を受けたものが、決して遊んで居て面白い理由がない。学んだものは、実地に応用して始めて趣味が出るものだからな」
 この父親の論理はその通りだろう。代助が特に反発するような内容ではない。だから代助も、「左様(さう)です」と答える。しかし父親の心には何か他に含むところがありそうだ。
 父親は息子に、「最高の教育」を受けさせたということをさりげなく添えて述べる。「決して遊」ぶために高い金を払って受けさせた教育ではない。また、「学んだものは、実地に応用して始めて趣味が出るものだ」。

・「親爺から説法されるたんびに、代助は返答に窮するから好加減な事を云ふ習慣になつてゐる。代助に云はせると、親爺の考は、万事中途半端に、或物を独り勝手に断定してから出立するんだから、毫も根本的の意義を有してゐない。しかのみならず、今利他本位でやつてるかと思ふと、何時の間にか利己本位に変つてゐる。言葉丈は滾々として、勿体らしく出るが、要するに端倪すべからざる空談である。」
 この部分の、「今利他本位でやつてるかと思ふと、何時の間にか利己本位に変つてゐる」というのが気になる。父親は、代助のためを思って言葉をかけているのではなくて、何か他の、しかも自分に関係する目的のために話しているようだ。
 それにしても、「万事中途半端に、或物を独り勝手に断定してから出立する」相手の話を聞かされる者は切なくなる。「根本的の意義を有してゐない」「空談」ほど、無駄でむなしいものはない。ましてやそれが先ほどの「利己本位」によるものであれば、何をかいわんやということだろう。結局自分が得になるための話だからだ。(だから父親の名は「得」なのだ)
 「万事中途半端に、或物を独り勝手に断定してから出立する」相手に対し、「それを基礎から打ち崩して懸るのは大変な難事業だ」。それを承ける身としては、「始めより成るべく触らない様にしてゐる」しかない。
 父親はしつこく代助に語りかける。自分は太陽であり、代助はその周りを巡る惑星の一つだ。だから、代助を「支配する権利があると信じて」いる。しかも「押して来る」。「そこで代助も已を得ず親爺といふ老太陽の周囲を、行儀よく廻転する様に見せてゐる」。対応の方法が、それしかないからだ。
 父親の前でうなだれる代助の姿がイメージされるが、それはそもそも彼がいつまでも父親の扶養の下にあり、何もしていないからそうするしかないのだ。経済的に自立していない代助は、嫌な父親の話も聞かなければならない。

 普通であれば、ニートはもうやめて仕事に就けと言うところだろうが、父親は違うことを言う。
「それは実業が厭なら厭で好い」
「金は今迄通り己が補助して遣る」
「だから奮発して何か為るが好い。国民の義務としてするが好い」
「三十になつて遊民として、のらくらしてゐるのは、如何にも不体裁だな」
 ここまで聞くと、仕事には就かなくていいから、世の中のために何か始めるべきだと取れる。代助は仕事を嫌っているので、前半部分は大賛成だろう。そうすると問題は、後半の「奮発して何か為る」という点だ。

 「三十になつて遊民として、のらくらしてゐるのは、如何にも不体裁だな」と言う父親に対し、「代助は決してのらくらして居るとは思はない」。代助は自分を、「職業の為に汚されない内容の多い時間を有する、上等人種」と考えており、父親に対しては、「かく有意義に月日を利用しつゝある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き出してゐるのが、全く映らない」「気の毒」な人だと考えている。
 代助の「えゝ、困ります」という「簡単な、世帯離(しよたいばな)れをした」答えは、「小僧視してゐる」息子の「幼気(おさなげ)を失はない」「困つた」答えだということになる。しかも、「代助の口調が如何にも平気で、冷静で、はにかまず、もぢ付かず尋常極まつてゐるので、此奴(こいつ)は手の付け様がないといふ気にもなる」。どうにも息子の扱いに窮している父親の様子がうかがわれる。
 また父親は、こうも思っているだろう。息子は相変わらず自分の世話になっている。自分のサポートがなければ、生活が成り立たない。親から金を出してもらっているにもかかわらず、それに対する感謝も礼もない。一体こいつは何なのだと思うのも当然だろう。30歳近くになった男が無職のニートであるにもかかわらずそれを何とも思わない、焦らない。親への感謝もない暖簾に腕押しのやり取りに、父親が空しさやあきらめを抱くのは当然だ。
 代助のこの態度に、怒りだす父親もいるだろう。いつまでも甘えられては困る。息子自身、そういうわけにもいかないだろう。親も歳を重ねている。さすがに自立してもらわなければならない。どうしてそんなに「平気」な顔でいられるのだと。

 父親と代助は、互いに相手を理解しえない存在だと考えている。だから会話は成立しない。ふたりはともに、相手に合わせたり相手を理解しようとはしない。それぞれが自分で勝手に相手をこうだと解釈している。会話はするが、コミュニケーション・意思の疎通は不成立だ。互いに分かり合えない親子。

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