梶井基次郎「檸檬」を読む4

◇本文
 その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬(れもん)が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈(たけ)の詰まった紡錘形の恰好(かっこう)も。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛(ゆる)んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗(しつこ)かった憂鬱が、そんなものの一顆(いっか)で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。
 その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖(はいせん)を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼(だれかれ)に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い故(せい)だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。
 私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅(か)いでみた。それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を撲(う)つ」という言葉がきれぎれに浮かんで来る。そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。……
 実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。
 私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持さえ感じながら、美的装束をして街を闊歩(かっぽ)した詩人のことなど思い浮かべては歩いていた。汚れた手拭の上へ載せてみたりマントの上へあてがってみたりして色の反映を量(はか)ったり、またこんなことを思ったり、
 ――つまりはこの重さなんだな。――
 その重さこそ常々尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった諧謔心(かいぎゃくしん)からそんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにがさて私は幸福だったのだ。

(青空文庫より)

◇評論
 「その日私はいつになくその店で買物をした」とあるから、「美しい」「興がらせ」る店であっても、普段そこでは買い物をしなかったことがわかる。
 そのような「私」を引き付けたのは、檸檬だった。「檸檬などごくありふれている」。しかし、「その店」「もただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった」。当時の「あたりまえの八百屋」には、「ありふれた」果物である檸檬は置いていなかったということか。

 「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色」からも、絵画をイメージさせるこの物語のドラマツルギーが感じられる。「私」を取り囲むものを、絵画的に説明することにより、「私」の美的感覚を伝えようとするのだ。「レモンエロウの絵具」を「チューブから搾り出し」、そのまま「固めたような」「単純な色」。だからこの檸檬も初めから、人が口にするものではなく、美的にとらえられたオブジェなのだ。このように、絵具をそのまま固めたようという比喩は、モノとしての檸檬の実存を表している。従って、「丈(たけ)の詰まった紡錘形の恰好(かっこう)」も、それが食べ物であることをイメージさせない。ふだんその店ではあまり見かけない檸檬の黄色は、それだけが他から浮かび上がるかのように「私」の目に飛び込んでくる。この檸檬は、色も質感も作り物なのだ。それはまるで、プラスチックで作られた玩具のように嘘っぽい。(しかしそれは後に、「ほんとう」と述べられる)

 「結局私はそれを一つだけ買う」ことにする。檸檬を手にした「私」は自分でもどこをどう歩いたかわからない高揚感で「長い間街を歩いていた」。「始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛(ゆる)んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった」。檸檬によって「私」は、久しぶりの「幸福」を感じる。「あんなに執拗(しつこ)かった憂鬱が、そんなものの一顆(いっか)で紛らされる」などとは思ってもみなかった。「私の心を始終押さえつけていた」「えたいの知れない不吉な塊」が、この一時解放されたかのように感じたのだった。「心というやつ」の「不可思議」さを「私」は、「不審」・「逆説」と述べる。それは、長い間の抑圧が、たった「一顆の檸檬」によって、あっという間に解消されてしまったことへのとまどいの表れだろう。全く不思議でつじつまが合わないことなのだが、しかしそれは紛れもなく「ほんとう」のことだった。

 これまでは檸檬の視覚的特徴が述べられてきたが、次に檸檬の触感が説明される。「その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった」。檸檬の体温ともいえるものは「冷た」いが、「肺尖(はいせん)を悪くしていていつも身体に熱が出た」「私」には、その体温を奪ってくれる、「たとえようもなく」良いものだった。「誰のよりも熱」い、「私」の「掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった」。「私」の皮膚感覚を快くさせてくれる対象物。

 次に、檸檬の匂いが説明される。「私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅(か)いでみた」。まず、「それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る」。檸檬の生まれ故郷が想像される。また、「漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を撲(う)つ」という言葉がきれぎれに浮かんで来る」。昔学んだ記憶がよみがえる。「そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった」。「私」の嗅覚を刺激する檸檬は、遠い場所を想像させ、昔の記憶をよみがえらせ、自分の病気を改善させ、体に生気を満たす不思議な力を持っていた。

 「あの頃」、「私」は「えたいの知れない不吉な塊」によって心が押さえつけられていた。しかし、それが、わずか「一顆」の檸檬によって、やすやすと解消される「不思議」。「あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える」。
 自分の手のひらに収まる「一顆」の檸檬。それは、長年の憂鬱を解消する清涼剤だった。今まで自分が探していたものが、そんな「ありふれた」ちっぽけなものだったという衝撃。「私」にとっての「幸福」が凝縮されたような存在。

 「あの頃」から、しつこい憂鬱に沈んでいた当時を振り返った手記であることがわかる。

 憂鬱を退治する良薬を手に入れた「私」の心は弾む。「私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持さえ感じながら、美的装束をして街を闊歩(かっぽ)した詩人のことなど思い浮かべては歩いていた」。創作上の新たなイメージが湧いてくるかのような文学的興奮を感じていたということ。気分が晴れつつある「私」は、檸檬を「汚れた手拭の上へ載せてみたりマントの上へあてがってみたりして色の反映を量(はか)ったり」する。そうして、「 ――つまりはこの重さなんだな。――」と思い至る。「その重さこそ常々尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さである」などと、「思いあがった諧謔心(かいぎゃくしん)からそんな馬鹿げたことを考えてみたり」する。その時、「私は幸福だった」。
 「一顆」の檸檬の「重さ」を、「すべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さ」であると感じた「私」は、その質量感によって、この世のすべての「善」と「美」を手中に収めた気分になる。
 しつこい「憂鬱」から、たった「一顆」の檸檬によって「幸福」へと転換した「私」の「不可思議」な「心」の様子が描かれている。
(つづく)


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