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【感想文】「チョンキンマンションのボスは知っている」

読書サークルの課題図書になっている、
「チョンキンマンションのボスは知っている」を読みました。

中でも、「ついで」という文化(?)がとても興味深かったです。

彼らの日常的な助け合いの大部分は「ついで」で回っていた。案内して欲しい場所が目的地の通り道なら連れて行くし、ベッドが空いていたら泊めてあげる。知っていることなら親切に教えるし、ついでに出来ることなら、気軽に引き受けてくれる。国境を越えた遺体搬送のプロジェクトも「ついで」論理を基盤とした連携プレーで成し遂げられる。

で、この「ついで」文化にどんな魅力があるかというと。。

誰もがついでに便乗してやっているという態度を表明しているので、この助け合いでは、助けられた側に適度な負い目が発生しない。親切に即時的な返礼がなくても気にしないようにすることが目指されているのだ。


「ついで」は"見返り"の意識を発想させない。

なんだか素敵な響に聞こえるのはわたしだけでしょうか。


わたしは、"誰かのためにわざわざ何かをする事が良し"とされる環境で育ちました。なので、特に自分がやりたくなくとも、誰かのためになるのであれば、と、行動をとってきました。

それが"親切"である。と、思い込んできました。

ただ、この親切は、"わざわざ"自分が動くので、見返り(良い反応)を期待してしまう事がよくありますし、同時に、自分自身も、相手から何かをしてもらったり、贈ってもらった場合に、お返しをしなくちゃならない!と、どこか急かされるような感覚を感じるようにもなります。


そういった感じがどこか重苦しく、
見返りを求めてしまう親切って、それは親切なのだろうか。。?だとか、
返さなきゃ!と追われるような感覚のお返しって、それは相手へのお返しになっているんだろうか。。??
のように、ずっとモヤモヤとしたようなものを感じていました。



自分個人にそういった背景があったので、この本を読み、「ついで」の文化を知って、こんな軽さで循環しているんだ!と感動をしたと同時に、あー自分も、誰かに親切をするなら、こういう親切をしていきたいな〜。と思いました。


「自分のやる事のついでに動く。」
「"誰か"のついでにできる事で助けてもらう。」


一見すると冷淡にも取られがちですが、
この気負いのなさに、
自分と他人に対する優しさを感じますし、

あ〜これが、自分にとって、"優しい"と感じることなのか。という発見もありました。



ちなみに、わたしも以前、実際に
「ついで」をした機会がありました。

自分の用事で外出していたところ、IKEAがあるのを見つけたのですが、そこで、ふと、友だちがIKEAのフライパンが欲しいんだ。と言っていた事を思い出したので、帰り際にIKEAに寄ってフライパンを買って帰りました。
それを後日友だちに渡したところ、想像以上に喜んでもらえたのですが、こちらは全くコストを払わずにやったことだったので、なんだか得した気分になったのでした。

もしこれが自分の用事の"ついで"ではなく、"相手が喜ぶだろう"という思いから、"わざわざ"買いに行っていたとしたら、その友人の反応を見て、得した気分にはならなかったと思いますし、(寧ろ当然。と感じていたかもしれません←)
友だちにも、わざわざ買いに行かせてしまったな。と気負わせてしまったかもしれません。



根っからのわざわざ民としては、
この時の経験は、とても軽く、スムースで、
とても印象深いものでした。



最後に。

チョンキンマンションのボスから、
まさか、自分の感じる「優しさ」を認識させられるとは思いませんでしたが、とにかくとても興味深い本でした。

他にも、興味を引かれるところがいくつかあったので、読み返していきたいな。と思いました。



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