【 批評:どうぶつえん/どうぶつえん 】 by Aki iwaya


もうストリートではないところで、半ば能動的に起こされる、アート的だったり/でもなかったりなアクション、と無視・禁止を含むリアクションとのフィードバックループってなんですか?

閑話休題。

特段新しい試みではないだろう。これまでに日本にも、それ以外の国にも先例は存在した。
だが、その現象が成立した文脈をみていくことで、現象の見え方は変わる。

乱暴にまとめれば、作品や現象とある種の政治性との距離感を見ていくことが鍵になる。この政治性という言葉にも幅がある。国家政体の最高法規との連関から、その瞬間その場のある個人の感ずる居心地の表明まで。

「どうぶつえん」に関連しそうな政治性について、まず想起されるのは、これまでの公共空間はそれを管轄する権力との綱引き、および綱引きからの離脱の作法を巡ってなされてきたものだ。
戒厳令下の公権力に対する心身の自由を求めた抵抗(レジスタンス)、自身の存在意義のアピール(デモ)、既成の価値体系への侵入と転覆(ゲリラ)。
あるいは、アンリ・ルフェーブルの「何か起こるとき、それはいつだってストリートからだ」というのにもあてはあまらない。ストリートというより公園であり、そこまでオルタナティブなものを志向していない。
では、「マイ・パブリック」(グランドレベル/田中元子氏)で言われるような、新しい公共を作り出す試みか。捨てているわけではないが、そこまで能動性に賭けていない。あなたは何を振る舞いますか?と聞かれて、答えがすっと出てこないもの。もっと野蛮で受取りにくい、不穏なものを差し出している。托鉢とも異なる何か。


ここで扱うことになるのは、そうした定まったものではなく、というより、件のようにわかりやすいものではない。少なくとも言葉を与えられていない場所で息をしている。
なにせ「どうぶつえん」だ。人間であることを一度棚上げして、相手の側から、つまり見られる側に立ってみてみよう。たとえば、柵の外から。
一度柵の外に出て、もう一度柵のこちら側に戻ってこられるのならば、その柵というのは、行き来の叶う可変的な境界線に過ぎないことになる。

本家の動物園では叶わない行き来を行うものとしての人間、ホモ・アニマル。そんな言葉があるのかはどうでもよいが確言したくなるのは言葉の作用だろう。ホモ・アニマル。

2つの間に線を見てとる働きは、あるものとそうでないものを基準に物事を認識する際には危険なほど便利なメソッドだが、その線はあくまで仮のものである。線は一度だけ引くが、そのあとには線を忘れること。デッサンする際にキャンバスしか見ないなら、モデル/対象が眠っていても死んでいても気づかない。線を引いたことを忘れることを忘れると、仮想の線が実体物めいてくる。抜糸されることを忘れた糸は、意図せざる整形手術に展開し、既成事実という複製芸術となる。

芸術と非芸術の、商業と非商業の、みるとするの、今と過去の、人間とどうぶつの、あいだに引かれたもの。
では、そもそも引かれた線や線の両側を包含する輪郭に言葉を充てられてることを求めていないのかもしれぬような動き、2016年からのどうぶつえんの試みに、フィットする(珍妙な誤読でもOK)ような”線の忘れ方”とは何だろうか?


都合よくたった今思い出した。
私は過去数回にわたって、どうぶつえんの記録映像を撮影していた。とりたててオーダーやリクエストもなく、半日続く屋外の広い空間での、撮影やイベント実施の許可を取っているわけでもない撮影。目の前の現象をフレーム内におさえつつ、意識は現象に対する休日の公園の人々の反応を追いかけ、予測しつつ動いていく。途中でバッテリーが切れそうになる、被写体が急に走りだし、叫んだり不規則な動きをしたり、警備員や飛んでくるボールや場の占有権を主張するリーゼント集団を含む複数の言語がいき交う、といったことごとを予想せずとも半眼で予期しつつ受け流しては無かったことにし、撮影してないようで撮影しながら自分の呼吸音が入らないように息を潜め、途中で水分補給のためアクションを行っていない近くの誰かに撮影をパスしながら、10分に編集するならここは使えないだろうな、でもこのハイライトのあたらない弛緩した空気が今回のどうぶつえんぽいな、などと思ったかどうかこれらは全て後付けかも知れない。なぜといって撮影しているときには、限りなく「撮影意図」(カメラマン発のディレクションのようなもの)が揮発するからだ。撮影直後の撮影者はその日の撮影内容を驚くほど覚えていない。だから印象の決定は、記録した素材の映像をはじめて見返すタイミングまで遅延する。フレームから外れているが、音として拾った脇を通り過ぎる野次馬の独り言、なにやってるんだろうねあのひと、なんかおもしろそう。なにやってるんだろうねあのひと、なんかアートじゃない?なにやってるんだろうねあのひと、近づきたくない。なにやってるんだろうねあのどうぶつ、言葉が通じないからわからないね、でもなんだかお、といった経路を辿り直して。

「さてあなたの目の前ではなにがおこっているだろうか?」
いつものように、Aokidから特別なオーダーはなにもない。各人がそれぞれのタイミングと身体をもって関わるだけ。それが複数集まって、その回のどうぶつえんになる。見る人ももちろんその一部、見る人もする人になるし、見る人をする人にすることに失敗することもよくある、そこまで含まれている。

目の前とはなんだろうか、2021年1月の会場に物理的に足を運んでお金を払った人?、いまこの文章を読んだ人?、過去の記録映像や文章に触れた人?、それとも?
なにがおこっている、とはどういうこと?、おこるとはどういうこと?、なにか起こらないといけないのか?金返せ?時間返せ?人間返せ?どうぶつに返りたい?どうなりたい?どうにもなりたくない?もう忘れたの?
ほんとうに?
ところでアニマルって言葉の意味ってなんだか思い出せますか?

Aki iwaya

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参考資料)
・Aokidによる「どうぶつえん in TOKAS 2021」開催に向けた文章
https://www.tokyoartsandspace.jp/archive/exhibition/2021/20210115-7024.html

「2021年の1/15~1/17の三日間、こちらのプログラムを行います。
どうぶつえん 「どうぶつえん in TOKAS 2021」
OPEN SITE 5|公募プログラム【パフォーマンス部門】
 2016年頃、その当時、あまりインディペンデントな発表場所が今よりは少なく、完成されていない作品や試してみたい程度のアイディアを発表する機会というのが中々なかったように実感として思います。
そんな中、公園の中でもしかしたらやれるんじゃないかということで始めたイベントが"どうぶつえん"でした。
このタイトルは友人が歌っていた曲にインスパイアされて、その曲をテーマソングとするようなところから始めていくことにしました。
今だからこそ、面白がってくれる方や参加を希望してくれる人もいますが、やはり一回目のときに参加してくてる様々なバックグラウンドをもったアーティストの方が参加してくれたのはとても大きいなと思い、その勇気に感謝しています。
前置きが長くなりました!
1月にTOKAS本郷(東京都のスペース)で、これまでのどうぶつえん参加者に再び声をかけ、今度は室内空間での発表や実験をそれぞれに行っていくような場をプレゼンテーションしていきたいと思います。」
By Aokid ※原文ママ

・かつて筆者がどうぶつえんを取り上げた記事
【芸術が物語にめざめたら-都市/人間が変わる Art awakens story-changes city/human】2018年11月30日付
https://www.huffingtonpost.jp/aki-iwaya/art-action-japanblog_a_23596529/

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