見出し画像

余命6ヶ月のうち3ヶ月が過ぎた今、私が思うこと。

2021年3月9日。
この日私は、大腸がんであることを正式に宣告され、それと共に聞かされたのはこのままだと余命半年だということ。

「このまま治療を施さなければ、余命は半年くらい…でしょうか。」

あまりにショッキングな現実を突きつけられ、頭の中はまさに言葉通り真っ白になり、その日はずっとそれを受け入れることも出来ず、ただその日を過ごすことだけで精一杯でした。

余命半年というと、娘が私のことをママ!ママ!と呼ぶ声を聞けずにこの世を去ることになるかもしれないし、娘が産まれた桜の季節を次は一緒に過ごせないかもしれない。夫と共にやっと手に入れた平穏な毎日は、こんなにあっけなく終わってしまうのか…。そんな悲しいことを考えては涙が止まらなくなったのを、今でも鮮明に覚えています。

あれから3ヶ月。

今も私は元気に生きています。

ここまでの3ヶ月のこと、これからの3ヶ月のこと、そしてその後の私の人生について、半年と言われた命のうち半分が過ぎた今、当時の気持ちを振り返りながら私が思うことをここに書き記していこうと思います。

20年先の未来なんて想像できない

私のがんは、大腸がんでステージはⅣ-b。がんの進行度としては最も高い状態で、大腸以外にも、肝臓やリンパ節など全身のところどころに飛び散っていた。

大腸検査を受けた段階で、自分ががんであることはある程度覚悟していたつもりでも、こんなにもたくさんのがん細胞に侵されているなんていう状態を簡単に受け入れられるわけもなく、この時は自分のもろさを至極思い知ることになった。

がんを宣告されたその日

がんを宣告されたその日、私の頭の中に想像できたのは、私のいない家族の姿、つまり夫と手をつなぐ娘の姿だけで、自分が生きているという未来は一切想像することができなくなった。

その日は、夫と娘が手を繋いで歩く姿を見ては「きっとこの二人は大丈夫」って思い、娘が夫に慕う姿を見ては「きっとこの子はパパが大好きだから、この先もママがいなくても大丈夫」とも思った。もちろん、そこに私はいない。

でも一方で、「もうすぐ一歳を迎える娘の誕生日を一緒に笑って、これまで通りの雰囲気で祝ってあげることができるだろうか。娘の誕生日は病院のベッドの上で過ごさなきゃいけないなんてことになったら…。」そんなことを考え始め、何もかもが悲しくなった。

「娘が話し始めた時、私は返事ができないんだ。」「娘にママって呼ばれることはもう一生ないんだ。」「この子は、ママの存在を知らずに大きくなるんだ。」「娘とは、この先一生会話はできないんだ。」「娘が保育園や幼稚園に行き始める姿を見ることはできないんだ・・・」と、もう取り留めもなく自分がいない世界ばかりを想像していることに気付くものの、それはもう止めることができなくて、ただただ溢れる涙を拭うことしかできなかった。

終いには、自分の仏壇に手を合わせる娘の姿を想像するまでに。

小学生くらいになった娘は、仏壇に手を合わせた後、玄関で待つ夫の元へ走っていく。慌ただしく家事をこなした夫は、娘を玄関先で見送る…。そんな姿は容易に想像できた。

2週間の入院期間

入院する部屋は、夫は高いお金を払ってでも絶対に個室にすると言い張り、毎日温泉宿に泊まって美味しい食事が食べられるくらいの費用を払って個室で過ごさせてもらったが、そのおかげで毎日毎日夫とTV電話で話すことができた。

その時間は結果的に私のメンタルを保つ一番の薬となり、退院時にはずいぶん前向きな思考にシフトすることができるようになっていたが、そのきっかけになったのは、入院して間もない頃、いつものTV電話で言った夫のこんな一言だった。

「娘が二十歳になった時、花束を持って二人の元に歩いてくる姿が想像できたんだ」と。

それを聞いた私は、夫がまた私を励まそうとして無理矢理にこんなことを言ってるだけだ…としか思えなかった。なぜなら、その頃の私はようやく「もしかたら数年は生きられるかもしれない…」と思えるようになったばかり。自分がいる未来はまだ全く想像できるに至っていなかったが、それを考えないように時間を過ごしていた。入院生活が始まって治療が始まろうとしている状態でもなお、「数年間生きられたら良い方だ…」くらいの消極的な精神状態だったのだ。

その言葉を聞いた私は、あり得ないと思いつつも「20年も生きられる?そんなこと、あり得る?」と何度も涙声で夫に問い正すように尋ね、その度に「生きられるよ!絶対大丈夫だよ!」と励まされた。

夫はいつでも強かった。夫の言葉は、私の弱さをいつも吸収してくれた。

最初にそんな話を聞いた時は、信じられない気持ちだった…というか正直幻想にしか思えなかったが、次第に私は思うようになった。

「夫の言う通り、もしかしたら奇跡的に20年生きられるということもあるかもしれない。騙されたつもりで20年後の未来があるって信じてみるか…。」

そう思って、このnoteを書き始めた。サブタイトルには「娘が二十歳を迎えるまでの道のり」と書き、ここまで生きるんだと自己暗示をかけることにした。

退院後

2週間の入院期間の中で無事一度目の抗がん剤治療を終えて退院することになった。

入院中に夫と毎日毎日話せたことで私のメンタルはずいぶん健全な状態になっていたが、退院後も時折体調が悪いことがあり、それに伴ってマイナス思考になることもあった。

薬のせいで眠れず時間だけが過ぎていく夜、一緒に遊ぶこともできず娘の姿をただ眺めながら夫が夕食を作ってくれるのを待つだけの時間、そんな時はふと良からぬことを考えがちだ。

毎日毎日、朝起きて朝ごはんを作って食べて、片付けして洗濯して散歩して、気がついたらお昼になって、またご飯を食べて片付けて、娘が寝るまで遊び相手をして娘がお昼寝したら(体調が悪い時は)自分も休んで、夕方になったらまたご飯のことを考えて、ご飯作って食べてお風呂入って寝る…。この同じことの繰り返しの毎日に、なんの意味があるんだろうと。

しかも、体調が優れない日は夫に何もかも任せきりの状態。

私は夫にこんなにも負担をかけて、娘には寂しい思いだけをさせて、こんな母親で存在する意味があるんだろうか…と。

でも、そんなことを考える度に、ただ私が生きられるように必死で頑張ってくれる夫の姿や、一生懸命何かに集中して遊んでいる娘の姿を見て、「夫は夫婦で生きていくことを考え、娘はこんなに小さな身体で一生懸命毎日を生きているのに、私は一人生きる気力を失いそうになっている。私は今なんて酷いことを考えていたんだろう。」とハッとする。

夫は、いつも強かった。

私の体調や精神状態が悪くても、いつも嫌な顔一つせず、全てを引き取って一人で仕事も家事も育児もこなしてくれた。しかも楽しそうに笑って。

結局、そういう夫の姿を見て「やっぱり20年先もずっと一緒にいたい」と心から思えた。

夫が我が家のシェフになった

入院中、毎日夜8時か9時頃になると、夫とのTV電話が始まった。

毎日毎日2時間も3時間も色々なことを話した。よくもまぁそんなに話すことがあるもんだと思われるかもしれないが、全く話題は尽きなかった…というより、正直言うと何でもいいからただずっと話していたかった。

そんな中で、二人がほぼ同時に辿り着いた一つの答えがある。

それは、「食事を根本的に見直す」ということだ。

いわゆる「食事療法」と言われる類の情報に私たちはほぼ同時に釘付けになっていた。食事だけでがんが治るわけではないということは十分に理解していたが、ほんの少しでも自分たちにできることがあるなら…と、必死の思いだったし、もしも食事を徹底的に見直すことでがん細胞がおとなしくしてくれるのなら…そんな希望さえ抱いていた。

ある日、私はWEBからいくつかの本を注文していた。

そのことをいつものTV電話で夫に話すと、実は夫も本を買ったと言う。もちろん選んだ本は違っていたけれど、その目的は食事を見直すためのもので、私たちはほぼ同じことを考えていたのだ。

その日から、話題は食事のことで持ちきりだった。どんなものを食べるといいのか、どんな制限をした方がいいのか…。毎日、自分たちが昼間に調べたことを夜に報告し合い、まるで一大プロジェクトが動き出す時のような高揚感を覚えていた。

そんな中で、夫はこう宣言した。

「(我が家の)シェフになる!」と。

これまで料理はまったくと言っていいほど封印してきた夫が、キッチンに立つと言い出した。これは大変なことになったぞ!と思った。

根本的に見直そう!ということになった我が家の食事は、当時、野菜中心、肉は基本的に食べない、糖質、塩分を極限にまで抑えたメニューだった。そんな制限をかけながらも、毎食のメニューを考えるのは至難の技だったはずだ。

その頃、夫から私に課せられていたことは「食べたいメニューを本からいくつかピックアップすること」と「体調を細かに夫に報告すること」だった。

夫は、私ががんになったその日からずっと、私が一日でも長く生きられるようにと毎日毎日情報収集しては、私に前向きな情報を提供し続けてくれた。

仕事もある中で、0歳児の育児とがん患者の介助を一気に一人でこなさなければいけない状態だったが、退院から約1ヶ月もの間、それをほぼ一人でこなしてくれた。

そんな夫を見て、ただただ申し訳ないという気持ちだけが募ってしまうことも多かった。

そんな不安定な私の気持ちを悟ってか、ある日夫はこう言った。

「死ぬこと以外は、何だっていいんだ。」と。

この言葉を聞いて、私はただこう思った。
「この人のために、生きないと。」と。

夫は、私と違っていつだって強い。

こうやっていつも絶妙なタイミングで、私の心を大きく動かす言葉をさらっと言い放ち、何事もなかったかのようにまた前を向いて歩き出す。

そういう姿に影響されて、「あ、ついて行かなきゃ…」と、気がついたら前に進んでいるのが私だ。

体重の減少と、夫との不和

そんな生活が続いて1ヶ月が過ぎた頃、私の体力もだいぶ回復し、入院前と変わらないくらいの元気さを取り戻していたが、また夫から新たな情報が伝えられた。

「がん治療において体力づくりは極めて重要」ということだった。体重を維持(私の場合は増加)することや筋肉をつけることは、抗がん剤治療を継続するために非常に大切だと。

体重が減っていくことや筋肉量が足りないことが良くないというのは、言わずもがな納得出来た。人が健康的に生きていく上で、あまりにも当たり前に大切なことだからだ。

でも、この時夫から聞かされたことは、がん患者が体重が落ちやすいことや、体重が落ちすぎると抗がん剤治療も継続出来なくなることだった。それを私はとても怖いと思った。

そして夫は、体重管理をちゃんとするために新しい体重計を買った。しかも筋肉量までちゃんと測れる機能性の高いやつだ。

この頃からこれで毎日体重管理しながら、ただの散歩ではなくてしっかり足に負荷をかけた1時間程度のウォーキングやサイクリングなど、筋力をつけることを意識した運動を始めていた。

そんな中、あることに気付き始めた。

毎日、筋肉をつけようと運動しながら、これまで以上の量の食事を摂取しているはずなのに、なぜか体重が落ちていく

しかも、夫婦揃ってだ。

私は怖くなった。自分の体重が落ちていくことももちろんそうだったけれど、それ以上に夫の体重が落ちていくことがどうしても嫌で嫌でたまらなかった。

私はがんだから、ある程度制限をかけながら食事を摂ることは仕方ない。だけど、私の頼みの綱は夫だけなのだ。その夫が元々太れない体質なのに、それに輪をかけて痩せ細っていく。これは本当にまずい…と思った。夫にはどうしたって元気でいてもらわなければ困るのだ。娘のためにも。

だから、どうかもうこの制限した食事に付き合わないで欲しいと心から思った。だって夫は健康な体なんだから。私はがん細胞があるからがんの餌となる食事は口にできないけれど、健康な体にそれは関係ない。そんな気持ちだった。

そして、夫は言った。

「これは本当に良くない。だから、なんでも食べよう。」と。

私は、大賛成だった。夫が肉でもなんでも食べてくれることに関しては。

ただ私はと言うと、頭ではわかっていたけれど、まだそこに気持ちがついてきていなかった。決して食事でがんが治るわけではないことも、食事が与える影響も抗がん剤治療の影響に比べたら圧倒的に少ないことは薄々感覚的に気付いていたけれど、この時の私はそれが簡単にできなかった。

きっといつか、何でも食べるようになるんだろう…ということも心のどこかで感じていたけれど、それでも、どうしても少しずつ少しずつ緩和して少しずつ身体と心を慣らしていきたかった。

がん細胞が一つでも増えるかもしれない…と想像してしまうことが怖くてたまらなかったのだ。

でも、夫は同じ食事を摂ると言い張った。
ステージⅣのがん患者である私とだ。そして、自分は健康体にも関わらず痩せ細っていっているような状態なのに。

どうすれば夫はわかってくれるのだろうかと一晩考えたが、夫の頑なな気持ちが私のためであることが痛いほどわかっていたために、うまい言葉が見つからずにいた。

お互いがお互いのことを考えるが故に生じたすれ違いのせいで、私たち夫婦の間に少し不穏な空気が流れていた。

翌朝、私がやっとの想いで伝えられたのは、たったこの一言だった。

「パパには何でも食べて欲しい。パパにはパパの人生があるんだし、身体の状態は全然違うんだから。」

夫はその後の散歩中、その不穏な空気を断ち切るかのように口を開いた。

「決めた。俺は肉も食べる。基本的には同じメニューを食べるけど、追加で肉を焼くとか…そんな感じから始める。」と。

思わず涙が出るほど、この一言は嬉しかった。

私は私ががんになったことで、夫にたくさんの負担をかけてきた。その上、体重が減って体力が落ちている。もう、これ以上夫に負担をかけたくないし、不健康になって欲しくない。そんなずっと切ない気持ちでいた私の心が、この一言で晴れた。

そして、夫がこうして先手をとって意を決してくれたおかげで、私も決めることができた。

「こんな風に痩せていくのはやっぱり良くない。何かに取り憑かれたように頑ななのも良くない。だから、一つずつ、一つずつクリアしていこう。」と。

(後編へつづく)

夫の気持ちはこちら



サポートしてくださる方、ありがとうございます。生きてく力になります!