【映画】ミッドサマー感想文2 自分にとっての1番の教訓編

ミッドサマー感想文の続きです。
今日は、この映画の1番の教訓、言い換えると自分が1番強く感じたことを書きます。
※ネタバレを含みます

 この映画は、人によって様々な受け取り方がされています。ホラー映画と見る人が最も多いでしょうが、恋愛映画として楽しむ人もいます。実際に、監督は失恋による悲しみをこの映画に込めたそうなので、恋愛要素もあると思います。で、私自身はこの映画は「人の悲しみへの脆さをあぶり出した映画」なのかな、と今現在は考えています。

 主人公ダニーは、映画冒頭で家族を無理心中で失っています。父母と妹を失ってから約半年が経過しても深い悲しみに覆われており、映画冒頭では「家族」というキーワードを聞いただけで涙が出てしまう様子が描かれています。恋人・クリスチャンがいくらなだめたり優しくしたりしてもあまり悲しみは消えておらず、言ってみれば悲しみがダニーのキャパをオーバーしています。また、恋人・クリスチャンはダニーのことを心配しつつも、別れたいとも考えており、心の底からダニーを支えてはいないように見えます。悲しみはあくまでダニーのもので、周りはサポートしたり、優しくしたりはするけど、結局はダニー自身が消化して乗り越えねばならないものです。これは、個人個人がはっきりと区別されている世界だからこそ起こることです。

 これに対してホルガ村の人々は、個の概念が希薄で、全てを共有して生きています。食事や寝起きはもちろんですが、特筆すべきは感情の共有です。
 例えば、恋人・クリスチャンがホルガ村の女性・マヤと交わっているのをダニーが見たとき。ダニーは号泣しますが、一緒にいた女性達もダニーを囲んで、同じように号泣します。これは、悲しい気持ちの共有です。
 また、クリスチャンがマヤと交わっているとき、その周りでは女性達が揺れ動きながらマヤの行為を見守っています。これは行為の共有です。

 さらに、祝祭のクライマックスで、生贄として立候補した村民ごと神殿が焼き払われるとき、村人は焼かれる村民の叫び声に共鳴して号泣しています。私たちの価値観から言うと、自分達で彼を焼き殺しておいて泣くというのは全く理解できません。いやいや、あなたたちが殺したんでしょ?なぜ泣いてるの?と違和感を持ちます。が、これは村民が、焼き殺される彼と痛みを共有しています。焼き殺されるのはホルガのしきたりによるもので、誰かの仕業というわけではない、という整理でしょう。

 村民たちは、肉体的には一人一人人間の形をしていますが、生活と感情を共有して、あたかもホルガというひとつの生命体の一部のように生きています。そんな彼らは、個はないけれども、幸せそうです。嬉しさ、悲しさ、痛さ...全てが共有されて孤独を感じることはありません。

 主人公ダニーは、もともとは個人主義の考え方がしっかりと根付くアメリカで暮らしていました。そして一人で、家族を失った悲しみと戦っていました。が、状況は芳しくなく、悲しみに引きずられて生きていました。
 しかし、ホルガ村に来て、特にダンス大会で優勝し、女王として崇められて以降は、ホルガ村の一部として取り込まれていきます。女王としてホルガ村の人々と食卓を囲んだとき、村の女性から「私たちは家族ね!」と声をかけられます。家族というワードは、映画冒頭では地雷だったはずですが、このときのダニーは素直にその言葉を受け取っています。最終的には、会ったばかりのホルガ村の男性と恋人クリスチャンのどちらを生贄として捧げるかという選択で、恋人を選び、彼を焼き殺す判断をしてしてしまいます。これまで自分を支えてくれた人を葬ったのです。

 この映画がカルトの洗脳のように見えて不気味だ、という見方もあります。しかし私にはカルト側でなく、カルトに取り込まれる側であるダニーがどういう心の動きをしているかがとても印象に残りました。現実でも人はしばしば抱えきれない悲しみや苦しみに苛まれることがあります。人は脆いので、そんなときに共有してくれる人や集団が現れるとダニーのように心を預けてしまうんだな、ということが、この映画を見てよくわかりました。ダニー自身、飛び降りの儀式を見たあとはホルガから出ようとしていましたが、映画の最後では完全にホルガの一部になっていました。新世紀エヴァンゲリオンで全ての人が一体になった状態のシーンを思い出しました。

 ですが、本当は私たちは一人一人違う人間です。考えていることも見ているものも一人一人違います。飛び降りの儀式に臨む直前の老人二人は恐れおののいています。完全になにかをわかち合うことはできません。自分を守りたいならば、歯を食いしばって、悲しみや苦しみを引き受けなければならない、でなければこのように耳障りのよい「家族」「仲間」に取り込まれてしまうことだって誰にでも起こりうるのだ、と感じました。もちろん友人や家族、恋人などの手を借りる、または手を貸すことは必要だと思います。が、あまりに自分の悲しみ、苦しみを引き受ける手助けをしてもらうと、ダニーがホルガ村に取り込まれたように、自分の大切な部分も預けてしまうことになりかねません。

 自分の孤独を強く自覚して生きていくこと、その孤独を助けてくれる親しい人と確かな関係を日頃から築いておくことが、ふいに訪れる悲しみ、苦しみへの対処策なのかな、等と考えました。

つらつらとすみません。
もう一回くらいミッドサマーについてはnoteを書くと思います。

以上
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?