【駄文】偏差値の海を泳いだ人間からの学歴と民度の話

 今日は駄文です。思考の記録です。

 学歴という、今やあまり意味がない、とも言われている指標があります。どこの高校、大学、大学院を出たかという経歴です。

 そして、民度という言葉があります。Wikipediaによると、民度とは、

特定の地域に住む人々の平均的な知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度

のことだそうです。例えば、街や飲食店で理不尽なクレームを付けている人を見ると「民度低いな~」等と考えます。
 学歴は、受験勉強をどれだけできるかという学力の指標です。対して民度は、ふるまいとか知性の指標です。

 この、そこまでは関連がなさそうな「学歴」と「民度」が、ある程度、正の相関関係があると、これまでの経験をもとに考えています。

 私のこれまでの学歴はこんな感じです。

小・中 地元の公立校。過疎地域のため学力低。

高校  地域では偏差値トップ。が、井の中の蛙。
    県内レベルでは大したことない。

大学  全国レベルでもそこそこ。

このように、割と、偏差値が下のグループから上のグループへあがってきた、という感覚があります。その中で、偏差値が上のグループへ行けば行くほど、周りの人間が付き合いやすくなった、という実感があります。具体的には
・自分勝手な人間が少なくなった
・余計なことをあれこれ言う人間が少なくなった
・暴力的な生徒が集団の中に少ない
等です。

 なかなかセンシティブな話題ですので堂々と語られることはあまりないでしょうが、このことがちゃんと実証されれば、勉強することのメリットの1つになるだろうと考えたりします。民度の高い人たちと接することのできる、穏やかな日常生活が送りたければ勉強しよう!と言えます。

 実証はなかなか難しいのですが、なぜ学歴と民度が相関関係にあるのか、私なりに考えた仮説としての理由を記しておきます。

1 問題解決能力の有無

  日本の学校教育における「勉強」は、与えられた前提条件から解を導くというものが多いです。これは現実社会で問題が発生したときも応用できるスキルです。例えば現実社会でも、現代文のようにその場の状況や、目の前の人の表情などから心情を汲み、適切と思われるコミュニケーションとります。勉強ができる者は、この演習を大量に行う経験があるため、知らないうちに現実でもうまく問題を解決しています。
 反対に、勉強ができない者は問題解決経験が不足しているため、現実でもスムーズに問題を解決できず、トラブルになることがあります。※個人差はあります。

2 客観的思考の有無

 日本の学校教育では、答えが1つに決まっているものが多いです。つまり、客観的にものごとを捉え、誰が見てもこれが正解だ、と説明できるものを答えとして選ぶ必要があります。この能力を実生活で応用すると、ある程度バランスのとれた、多くの人から支持される選択肢を選ぶことができます。逆に勉強ができない者は、客観的にものごとを捉える能力が不足しており、周囲からは理解しがたい意思決定をする場合が増えます。※繰り返しですが個人差があります。

 と、ここまで書いてきて気付きました。偏差値の高い集団で生きた方が、楽なのは間違いないです。が、偏差値の高い集団のなかで穏やかに暮らすことと、本人が幸せかどうかはまた別の問題です。私の仮説では、勉強を頑張ると、問題解決能力に優れ、客観的に正解らしき意思決定を行う人の多い集団に属します。自分自身もそういう傾向を持った人間になります。
 が、進路や就職先などは、客観的に正解らしき意思決定が自分にとって最適の意思決定とは限りません。例えば偏差値が非常に高い学生は偏差値の高い大学に進学することが「客観的に正解らしき意思決定」です。しかしもしその学生が美容や服飾、調理などに関心が強ければ、専門学校へ進学するのが「本人にとって最適の意思決定的」かもしれません。

 とりとめのない文章になってしまいましたが、学校の勉強をするメリットの1つとして、この「民度の高い集団の中で暮らせる」ことは大きいよなあ、あ、でもそれは穏やかに暮らせるというだけで、幸せとはまた別の話だ、と、学生時代を振り返って考えたので、記録に残しておきます。

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