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台所の神秘家 自由のレシピ

『ひとりきりのとき 人は 愛することが できる』
            『Call to Love』アントニー・デ・メロ

私の台所に、神秘家が 現れる。

アントニー・デ・メロ
カトリック司祭、イエズズ会士、インド人。

彼は、死しても なお、
絶妙の タイミングで 現れる。

誰かの 期待に 応えようと 
誰かの 評価や 賛同を得ようと、必死になる時
誰かを 行為、賛辞を 失いはしないかと、恐れに襲われる時
私は、 愛する能力を 自ら 破壊しているのだ。
  アントニー・デ・メロ 『Call to Love 』 by Anthony de Mello. S.J.

彼は、問う。

愛とは 何か

彼は、応える。

愛は、分け隔てをしない

薔薇は、その
灯は、 その
木は、 その木陰
善人にも悪人にも、老若男女、全ての存在に 分け隔てなく、提供する

「では、なぜ人は、分け隔てをするのか」 疑問が沸き上がる。。。

アントニー・デ・メロは、応える。

それは、無知から来ている、、、と。
自らが、何をしているのか、気づいていない無知による。

互いに、「悪意をもって、分かってしていながら、している」という、
偏見、思い込みにより、
自分の身を守るために、
互いに、分け隔てをしている事に、気づいていない、と。

愛の 第二の特質は

愛は 報酬を 求めない
自分の 願いを 叶え、
自分の 期待に 応え、
自分の 好む言葉を 語る人、にだけ、良い顔をするが、
そうでなければ、拒絶し、嫌悪し、防衛の壁を築くことは、ない。

愛の 第三の特質は

愛には 自意識がない
愛は 愛すること自体が 喜びなので、自我を みごとに忘れてしまう。

愛には 対象物がない
木は、ほかに、どうしようもなく、木陰を提供し
誰も 来なくても、木陰を差し伸べる。。。

何と言われても、かまわない。。。

ただ、自分は、そうせざるを得なくてしている。。。と言う。


愛の 最後の特質は 自由

木は、人を 全く拘束しない
木は、私が 日射病にかかりそうになっても、
私を、木陰には 引きずり込まない。。。

今の世の常に、この言葉は、あまりにも 違和感が ある。
しかし、アントニー・デ・メロが 言いたいことは、
放任主義 や 無関心ではない

今、で考えてみるならば、
私が、関わっている子供達が、コロナにかかったら 大変なことに なる。
子供が 苦しい思いをする から、、、も、ある だろう。

しかし、私とは 関係のない 子供達が コロナに かかったら、
私は、困り、大変なことに なっている、だろうか。。。

私が、困るのは、どうしても、避けたい事態が、起こると想像し、
自分の身を 守るために、防衛のプログラムが 働いているのだ。
自動的に。。。

子供達を、木陰に引きずり、日射病に ならないようにする のが、
悪いことだ と、言っている のでは ない。

木陰に 引きずり込まれても、日射病とは 何かを 知らなければ
子供は、また、木陰から 出て、日向にて 遊びまわる。。。
子供は、日射病に かかるとは、何かを 知らないからだ

人間は、木ではない、だから、見て 見ぬふり は できない。
命の危険 とあらば、日陰に 行くようにと、言葉を かける。
時には、腕をつかんで、日陰にも、連れて ゆくことも ある。

しかし、そこには、見返りも、自意識も、なにもない
ただ、目の前にある 命への 自由な 行動が ある。

愛が 行動なった時愛された人は 自由に なる。。。
by Ribera Kico

何かを 行動にしようと もがき 苦しむ。。。

しかし、

自分に 愛されない 自分は 自由には ならない。。。


何も 出来ない

何も しない、

ただ、見つめている。。。


何も 出来ない事が 悲しくて。。。 する。。。

何も しない事が 苦しくて。。。 る。。。

ただ、見つめている。。。


それなのに、

何かが 始まって いる。。。

何かが 動いて いる。。。


一人きりになる。。。

私が わたしに なる

それが、今、私にできること。。。なのかもしれない。。。


#アントニー・デ・メロ #神秘家 #ひとりきり #愛する #今私にできること  #知る






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