モチベーションとゴール
最近、どうも英語を勉強する気になれない。
というより、英語で話したり、英文投稿を書いたりする気になれない、というほうが正しいかもしれない。
便利な英語フレーズの動画や「今日の英語の一言」のようなツイートを見て、ノートに書き留め、例文を調べて、そういうことは癖のようになっていて、相変わらず続けている。
つまり、インプットは続けられているが、それをアウトプットする気になれないということなのだ。
どうしてアウトプットしたくなくなってしまったのか…
私はどうしても、英語を勉強しているのだから英語で書かないといけない、と思い込んでしまうきらいがあるが、以前、日本語だけの投稿をした際、思いの外(ほか)反響があったのを思い出したので、今回も日本語のみで投稿してみることにする。
私に文才があるかどうか自分では知る由もないが、日本語学習者の中には日本語で論文を書かなければいけない人もいるだろう、そういった人に少しでも私のこの文章が役に立てば、日本語の論文とはどういうふうに書かれるものなのかを少しでも伝えられれば、そう信じて書いてみることにする。
さて、アウトプットへのモチベーションが下がった理由を考える前に、まず私の環境から話さねばならないだろう。
私は今こんな具合に論文めいたものを書いているが、決して大学生などではない。
私は最近、夜中に一度は目が覚めてしまう睡眠障害に悩まされている。
また、ほとんど毎日在宅勤務をしている夫の妻であり、先週からオンライン授業を受けている中学生の母親でもある。
夜中に起きてしまうせいで、一日中お気絶しそうな眠気と戦っているのだが、そんな状況では仕事でミスすることが容易に想像出来た為、今年は毎年受けている短期の仕事も断念した。
そこにコロナ蔓延防止政策も加わり、そんなに広くもない、むしろ割と狭いマンションの一室で、夫のオンラインミーティングや娘の授業の邪魔にならないよう、なるべく音を立てずひっそりと毎日を過ごしている。
Hello Talkで電話に誘われもするが、落ち着いて英語を話せる環境にないので断るしかない。
しかし、いくら狭いとは言え、寝室に行けば話せないこともない。
そう、厳密に言えば、全く話せないなんていうことはないのだ。
では、なぜしようとしないのか。
それは、夫や娘に、私が英語や日本語で話しているのを聞かれることに嫌悪感があるからだ。
なぜ聞かれたくないのか。
それは、彼らが仕事や勉強をしているのに、私自身はただお喋りしているだけ、という感覚に自ら陥ってしまうからだ。
電話で人と話すという行為はどうしても、楽しいこと、遊びの一環、娯楽という範疇に入るような気がしてしまうのだ。
さらに、今私が英語を流暢に話せるようになることに果たしてどういう意味があるのか。
最近、それについて頻繁に考えてしまう。
私はただ漠然と、英語を使って人助け出来る仕事をしたいと思っているだけで、今からそれをどのように展開していけるのか、はっきりとした具体的なゴールを設定出来ていないのだ。
私自身がわかっていないことを、夫や娘に理解できるはずもない。
彼らの名誉のために言っておくと、彼らは、たとえ私が彼らの仕事中、授業中に英語で楽しく会話をしていたとしても、私に怒ったり不機嫌になったりしないだろう。
しかしそのうち「いいよなぁ…時間のある人は…」と思うようになるかもしれない。
こういったことを考えていると、私は一体何のために英語を流暢に話せるようになりたいのか、その部分が揺らぎ始める。
英語というのは単なるコミュニケーションツールであり、それを使って何がしたいのか、何に役立てたいのか、そこが重要なわけだが、私の漠然とした「人助けしたい」という理由が揺らいでしまうのは、それを具体的な未来に落とし込めていないからに他ならない。
つまり、私がやるべきことは、具体的に描くことのできるゴールを設定することだ。
しかし「言うは易く、行うは難し(かたし)」である。
私がモチベーションを取り戻せるのは、もう少し先になるかも知れない。
サポートしていただける、というありがたみ、深く心に刻みます。 子どもに繋いでいけるよう、子どもにいろんな本を買わせていただくのに役立てようと思います。