見出し画像

日常と戦争

すごく天気のいい日に洗濯物を干そうとベランダに出て、青空の向こうにもくもく丸い雲のかたまりを見たとき、「こんな日に戦争って始まるのかもしれない。」とふと思った。

子どもの頃、戦争は遠い遠い昔の出来事で、自分が生きる世界とのつながりはまったく見出せなかった。でも、実際は私が生まれたとき、戦争が終わってからまだ40年も経っていなかったのだ。39歳になった私の人生よりも短いということに驚く。76-39=37。

戦争がこわいもので、絶対にしてはいけないものだということは幼い頃から理解していた。我が家は父も祖母も叔母たちも戦争を経験していて、空襲で防空壕に避難した話、近所の家族が亡くなった話、戦後の食糧不足の話など、何度も聞いた。防空壕の上に建っていたやぐらが燃えて、誰かが消してくれたから助かったということも。それでも、映画や物語の話みたいに、どこか遠かった。

大人になってから少しずつ、戦時中に生きた人々にも今と変わらない日常があったのだということが理解できるようになってきた。そしてコロナ禍を経験している今、やっと、日常の中に非日常がやってきて非日常が日常になることを想像できるようになった。

雑誌を見ておしゃれしたり、話題のカフェに出かけたり、今日の晩ごはんを何にしようか悩んだり、毎日公園に行って遊んだり、恋の話で盛り上がったりする日常。戦争が始まっても近所も街も急には変わらない。そこに、ある日贅沢を戒めるスローガンが現れて「物騒になってきたな。」と思って過ごしていたら、知っている人が戦争に行くことになった、と噂を聞いて心を痛める。そのうちにそれが普通になってきて、いつのまにか「やっぱりこんなときだから派手な格好はやめておこうかな。」となり、ある日知り合いが戦死したニュースを聞いて衝撃を受ける。でも、悲しい知らせをいくつも聞くうちにそれも日常になってしまう。空襲が来るかもしれないから防空壕を掘ることになって、本当に来るのかしら、と思っていたらある日本当に飛行機がやってきて、サイレンが鳴ったら防空壕へ避難することも日常になる。

昔、親しかった友人を急に亡くしたことがある。悲しいなんていう言葉では表せない、深い喪失感だった。人ひとりの命はとてつもなく重いものなのに、戦争では簡単に何百、何千、何万という命が失われていく。

終戦記念日にテレビを見ていて、"尊い犠牲"という言葉が心にひっかかってしまった。命は尊い。その命が失われたことまでも尊いと言っているように感じてしまう。本当に亡くなった人々や近しかった人たちはそう言われて報われるのか。どんな時代であれ、尊い命が犠牲になることは深い悲しみや喪失以外の何ものでもないのではないか。"尊い犠牲の上に今の平和が…"という言い回しも、なんとなく亡くなった方を踏み台にしているような気がしてしまう。当時を生きて亡くなった方々の中には、後の時代の人にそう言われることを喜ぶ人もいるかもしれない。でも、平和を望んで早く戦争が終わらないだろうかと願い、生きたいと思いながら亡くなった人は、それを喜ぶのだろうか。人が亡くなるということに、価値付けが必要なのか。ただその人を悼んで、悲しむのではいけないのだろうか。

戦争が起こる世界が日常なら、戦争に行って戦うのも普通の人たちだ。今ならきっと、スターバックスでコーヒーを飲みながら勉強している学生や、日々のコーデをアップしているインスタグラマー、部活に汗を流す高校生や、日曜日に子どもと公園で遊ぶ家族が、有無を言わさずに戦争に巻き込まれていく。オリンピック選手も高校球児も。

シリアやミャンマーだって、平和だった日常がある日突然がらっと変わってしまった。まさか、すぐ終わるよね、と思っていたらあっという間に信じられないようなことがどんどん起きていく。今の日本である日突然戦争が起こるなんていうことはさすがにないのだろうけれど、気がついたら外でマスクをすることが当たり前になって、海外旅行にも気軽に行けなくなってしまったみたいに、急に何かが変わってしまうことはきっとあり得ることなのだ。

そうならないために戦争を経験した人たちが語る言葉を、大切にしたいと思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?