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お母さんのお弁当。

息子のお弁当をつくりながら、いつも思うことがあります。

昭和の50年代後半うまれの私。

母は私が1才になった日からずっとフルタイムで働いていて、保育園に通っていた私は、たまに遠足などで作ってもらうお弁当の日が嬉しくもあり、恥ずかしくもありました。

それは、まだキャラ弁などが流行る前だったと思うのですが、私のお弁当のおにぎりはいつも、「のり」を細かく切ったりはったりして作った顔のおにぎりだったからです。

まわりを見てもそんなおにぎりの友達はいなくて、ものすごく恥ずかしがり屋だった私は、友達や先生に「これ見てみて〜」などと無邪気に言うこともできず、せっかく作ってくれたおにぎりをお弁当のふたで隠しながら下を向き「のり」だけ先にはがして食べ、なにごともなかったように普通のおにぎりにしてから食べていました。


小学校に行っても、遠足のたびにその顔おにぎりは続きました。

それを「恥ずかしい」と思っていることを、忙しいなかせっかく作ってくれた母になんだか悪い気がして、ずっと素直に言えずにいました。

フルタイムで働いて毎日すごく忙しかったはずなのに、遠足のお弁当の前の日からなんだか母はうきうきとしていて、「あした、なに入れてほしい?」と聞いてくれました。

おかずの定番は、豚カツ、焼き肉、たまご焼き、たこさんウインナー、きゅうりをお花みたいに切ってマヨネーズを入れる容器にしたもの、が私は好きでよくリクエストしていました。

どれもすごく丁寧に作られていて、とても美味しかったです。

そして、やっぱりおにぎりは顔おにぎりでした。

結局「恥ずかしいからやめてほしい」とは一度も言えず、気づいたら、高学年くらいには普通のおにぎりになっていました。

高学年からは中学受験のために週3回電車に乗って塾に通っていたのですが、母は自分の仕事の1時間の休憩で家に帰ってきて、私が塾で食べる用のお弁当を作って、それを私を塾に送ってくれていた祖父の家まで持って行って、また職場にもどるということをしてくれていました。
コンビニのおにぎりの日もありましたが、たいていそんな分刻みのスケジュールで私のもとにお弁当は届けられていました。

無事中学校に受かり、そこから毎日のお弁当が3年間続きました。

高校生になったら学校の食堂を使う日もあったのでお弁当の日は減りましたが、それでも週に何回かは作ってもらっていました。

今思い返すと、フルタイムで働きながらのお弁当作りは並大抵のことじゃなかったと思います。

でも、母のお弁当は、顔おにぎりのときからずっとそうでしたが、お弁当のふたを開けた瞬間に想いが伝わるお弁当だったなと思います。

「自分は大切にされている」と感じるには、十分なものでした。

顔おにぎりも、私に少しでも楽しい気持ちになってほしいと思って朝からせっせと「のり」をくっつけてくれていたんじゃないかなと、今になってしみじみと思います。

おにぎりの顔はいつもにっこりと笑っていました。

そんな母に、きちんと「お弁当ありがとう」と伝えた記憶もありませんし、その愛情をきちんと受け取れてもいなかったと思います。

今、作る側になった息子のお弁当にも、気づけば私もよく顔おにぎりを作ってしまいます。

「ふたをあけたときに、少しでも楽しい気持ちになってくれたらいいな」と、私も息子に思いながら。せっせと作っています。


あのとき、恥ずかしかったけれど、本当はとっても嬉しかった顔おにぎりの話を、今度母にしてみようと思います。



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